カルチャー

ヴィンテージを巡るよもやま話。

info | ひと カルチャー デザイン・建築
DATEJun 26. 22

遅ればせですが、4月15-17日に開催したRHYTHMOSの47CARAVAN(ヨンナナキャラバン)の事後報告です。
と言っても、いつものようなぼくの駄文ではなく、RHYTHMOSの飯伏くんがポストしているポッドキャスト<出る杭とたんこぶ>(いいタイトル!)での生トーク。行きつけのピザ屋でワインの酔いも手伝っての「ヴィンテージを巡るよもやま話」、聴いてみてくださいな。

【Season2/EP.03】47CARAVAN vol.02 福岡県 @organ

あなたは「地球の日本人」ですか、それとも「日本の地球人」ですか?

ひょん | カルチャー 社会科
DATEApr 2. 22


 それは2014年のことでした。1月の鹿児島に始まり、2月ローマ〜ナポリ〜シシリア、3月はヴァンクーバー、6月北海道、7月ヘルシンキ〜ユヴァスキュラ、そして11月には台東〜花蓮、年越しには亡き犬ユキと一緒に四国へドライブと、あのころはよく動いたものです。北海道はアイヌ、台東は原住民、松山は漱石への興味からだったのですが、基本は買付けのため。おまけに4月からはラジオの生番組を始めたので、アタフタした1年だったようです。
 なぜ2014年を思い出したのかというと、ロシアのクリミアへの侵攻があった年だったからです。ニュースを知ったのはシシリアにいた時だったか。とっさに頭に浮かんだのは1853年のクリミア戦争でした。そして、戦場で献身的な働きをしたナイチンゲールとその後発足した国際赤十字社のことを思いました。ヨーロッパ全体を巻き込んだ悲惨な戦争で、国境を超えた看護の必要性が初めて世界で意識された場所だったからです。ところが、そんな場所でまた紛争が起きてしまったことを外国にいて知らされたわけで、なんだかリアルに感じたのかもしれません。
 19世紀に起きたクリミア戦争は、その後20世紀の第一次大戦へとつながったわけで、世界史の中の出来事が、現在にも引き継がれているという日常をつきつけられた気がしました。それから8年、突然そのクリミア半島のあるウクライナ自体で新たな戦争が起きてしまいました。
 人々はこの出来事に驚き、ロシアに対する経済制裁が各国から発出され、国連でも非難決議がなされました。しかしウラジーミル・プーチンの発言は、核兵器の使用をほのめかすまでにエスカレートしています。第三次世界大戦への危惧さえ感じてしまうのはキューバ危機以来のこと。そんな時、日本の前前首相などは、アメリカの核の使用を日本においても共有しようとする意見を表明した。いわゆる「核の抑止力論」ですが、時代錯誤の愚考だとしか言いようがありません。北朝鮮が持つ抑止力としての核軍備を非難しながらも、自分達も核で対抗しようとするヤクザな戦法でしかない。「抑止としての核兵器」とは相手への脅しの道具であり、その方法が世界に広がれば、使ってみたくなる為政者があらわれます。それは他国だけではなく自国の滅亡へと到る麻薬でしかないと思います。
 とまあ、古道具屋なりのボヤキはさておいても、案外古いものには馬鹿にできない発想があります。それは、二つの大戦を経て、設立された「世界共和国」への希求を込めた「国連」のことです。
 さまざまな機関を持つ国連ですが、重要であるはずの安保理が機能していません。それは、だれもが感じているはずです。決定権を持つ5大国の拒否権がその原因であることは確かなのですが、それに対する妙案はないと諦めているかのようです。しかし「常設の国連軍」を持つという案があります。でも、あまり知られていない。国連のガリ前事務総長などから提案されていたのですが、メディアがほとんど取り上げていない。そのためか僕らの関心を集めていません。それに対して、随分前に柄谷行人氏が以下のような考えを示しています。
 「日本の憲法9条は、守るという掛け声だけではだめだろう。このままでは、”抑止力”という名のもとに改憲されてしまう。それに対して日本ができる最良のことは、自衛隊を国連に差し出すことかもしれない。唯一の被爆国として我々にはそうする理由があり、そのことで世界は初めて日本を認めざるをえないからだ」。
 しかし、この提案を現実的にうけいれる日本人がいるのでしょうか。それはジョン・レノンの”Imagine”と同じように、夢想家の戯言として一蹴されるのでしょうか。
 ぼくは「国連」って「モダニズム」の政治版だと思っているのかもしれません。どちらも第二次大戦前後の出来事であり、どちらも「人類の自由と尊厳」みたいなものを望みながら、いまだ充分に成就していません。訳知り顔の政治家はいつも「それはユートピアンなイデアでしかない」としたり顔でのたまう。彼らは「結果」こそが「歴史」と思っています。しかし、「”未来”について考えることは、”まだ意識されないもの”を指しています。それは未来からやってくるもの、実現されることはないが、われわれがそれに近づこうと努めるような指標としてあり続けると」と柄谷氏は語ります。
 この戦争が一体どのような結末を迎えるのか。実のところ、この戦争は「国家」=「民族」という”幻想”のせめぎあいというやっかいな構造です。だから簡単には先は見えません。そんな中、ひとつだけかすかなヒントが示されました。それは、アメリカの宇宙飛行士が、ロシアの宇宙船で地球に無事帰還したことです。
 当初、日本を含む西欧の対ロシア経済制裁などに対して、ロシアは、米ロの3宇宙飛行士を乗せた国際宇宙ステーションから、アメリカの飛行士だけを残して帰還するという子どもじみた脅しをツイッターで表明したのですが、後に撤回せざるを得ませんでした。
 しばらく前に、アメリカ政府はUFOの調査の重要性を示唆する報告を発表し、だれもが「やっぱりそうだよなあ」と思ったのではないでしょうか。無限と思われる宇宙に地球外生物がいないとは思えないからです。そして彼らが地球にやってきた時、ぼくらはどんな反応をするのでしょうか。あなたは「地球の日本人」ですか、それとも「日本の地球人」ですか?
 

 
 
 

私の罪はなんですか?

ひょん | カルチャー 映画・音楽 社会科
DATEAug 21. 21

 世論の反対を押し切り開催されたオリンピックが終わった。暇だったせいで、たっぷりテレビ中継を見てしまった。「ニッポン悲願の金メダル!」というアナウンサーの絶叫は相変わらずだが、何年も見ていなかったせいか、選手たちの多様な国籍と、彼らのキャラ立ちにびっくりした。The times they are a changing。
 まず、タトゥーが目立った。そして数は多くなかったもののサングラス。マラソンならわかるが走り高跳びの、多分有名な人なんだろうが、まるでロックスターみたいなサングラスがお似合いの褐色の選手だ。1回目のトライはクリアしたしサングラスも付いていたが、2回目は失敗でサングラスも顔から落ちてしまった。めげずにかけ直し3回目に挑戦したがやはり落ちてしまった。でも、彼は悪びれるでもなくサングラスをかけ直し、観衆(と言っても関係者くらいだが)に向けて拍手を促した。ちょっとジェイムズ・ブラウンの”マントかけ直しショー”を思い出した。どこの国の選手かは関係なく、天晴れだった。
 オリンピックで思い起こすのはレニ・リーフェンシュタールだ。彼女はヒトラーのオリンピックと言われた1936年のベルリン大会の記録映画『オリンピア』を監督したドイツ人。そのあまりにも斬新な手法の映像で世界をアッと言わせた。この大会でオリンピックが変わったと言ってもいい。創意工夫を凝らしたアーティスティックな撮影と編集で、スポーツがドラマになったからだ。ついでに言うと、その後1986年のロスアンジェルス大会ではtoo muchな演出が持ち込まれ、商業主義に走った。そして次のソウル大会ではプロ選手のオリンピック参加が始まった。もはやオリンピック憲章の理念はグローバル資本主義に飲み込まれた。
 一方、レニ・リーフェンシュタールは戦後になるとナチスのプロパガンダ映画に協力したとして激しいバッシングを受けることになる。「美しい肉体にファシズムを見る」というような、日本にも起こった戦争画を描いた藤田嗣治のことを思い出させるが、それはそれ。芸術家が国家の戦争協力に加担したかどうかが問われた時代だったわけだ。
 彼女自身は1995年に公開されたドキュメンタリー映画『レニ』の中で、「自分は政治には関心がなっかた」と明言している。ただし「私は自分の国を愛している」とも語っている。この辺はなんとも難しいところだが、ナチス側としては彼女の才能を利用した国策映画を狙っただろうし、レニとしては潤沢な予算で思う存分映画が撮れることに集中したことは想像できる。それにしても、ドキュメンタリー映画の中で語ったレニの言葉が強烈だった。
 「正気じゃなかったのよ」。
 僕がレニ・リーフェンシュタールを意識したのは”The Last of the Nuba”と題された1973年の写真集だったと思う。スーダンのヌバ族を美しいカラーで表現した古本を手にしたのは、音楽ではワールドミュージック、インテリアではサンタフェ・スタイルが話題になっていた1980年代。西欧より遅れた文明と言われた第三世界に”独自の洗練”を気付かされた瞬間だ。この本には、戦争協力の「誹り(そしり)」からようやく立ち直ったレニ・リーフェンシュタールが、ヌバの人々の「美しい肉体」に魅了され、夢中でシャッターを切った瞬間が記録さている。それはベルリンオリンピックの記録映画に充満していた「人間力の肯定」でもあるのだが、何よりも、ヌバという”素材”こそが彼女の美的直感を刺激したからだったのだろう。
 マーシャル・マクルーハンは芸術家を「感覚的認識の専門家」と呼んでいる。それに対してスーザン・ソンタグは述べている「そうした芸術は多数の人間の手の届くものを蔑視するような、エリートに基づいた実験のことを指すものではない」と。なるほど。しかし『オリンピア』は明らかに「多数の人間の手に届いた」はずだ。
 芸術を司る「感覚的認識の専門家」たちには、時に「正気じゃない状態」が必要だ。レニ・リーフェンシュタールは、ドキュメンタリー映画『レニ』の最後にこう述べている。
「私の罪はなんですか?」

P.S.もしも彼女が生きていたなら、もうすぐ始まるパラリンピックの方に「人間力」を感じたかもしれません。

形としてではないBAUHAUS。

ひょん | カルチャー デザイン・建築 社会科
DATEAug 8. 21

 

 今organを営んでいるビルを建てることになったのは、かれこれ38年前。住んでいた平屋建ての家の目の前に突如私鉄の駅が移転してくることになり、区画整理に巻き込まれてしまい、ビルに建て替える羽目になったのだ。東京でのバンド暮らしをやめ、福岡に戻って人生初の大仕事に挑戦することになった。
 とは言っても、デザインやインテリアには興味はあったが、建築にはほとんど関心がなかったし、予算も乏しい。そこで、コンクリート素材むき出しで、余計なものがなく、地味変なものを目指した。その時、バウハウスを思い出した。雑誌で垣間見た丸っこいBAUHAUSというフォントと、ドイツにあった建築&芸術の学校だというところも気になっていたし、何よりも実験的な匂いがした。
 とは言っても、今このビルにバウハウスの影響を見て取る人はいないかもしれない。でも形状はさておき、自分なりの試みは色々やったつもりだ。例えば靴のままの生活をするということ。「日本人=畳」という法律があるじゃなし、誰にも迷惑をかけない自分なりの生活を選択できるチャンスだと思った。おかげというか、後年になって私的な空間だった4階を店にする時も、一切改装する必要がなかった。
 それはさておき、最近またぞろBAUHAUSのおさらいをして気がついたことがある。それは建築やデザイン、写真、工芸など様々な分野でモダニズムを模索、実行した多くのパイオニアにばかり目が眩んでいたことだ。それは、例えばヴァルター・グロピウス、ヨハネス・イッテン、ワシリー・カンディンスキー、パウル・クレー、ヨゼフ・アルバース、モホリ=ナジ・ラースロー、マルセル・ブロイヤー、ヘルベルト・バイヤー、マリアンネ・ブラント、ミース・ファン・デル・ローエと、枚挙にいとまがない。BAUHAUSがモダニズムの先駆けと言われる所以である。
 しかし、ポイントはそんなサクセスストーリーではないことをK氏の本を読み返して思った。「BAUHAUSが成し遂げたことはその構造自体にある。教官、生徒、職人という身分差を超えたコミューンの中で行われた試みこそが革新的だった」というわけだ。確かにそうかもしれない。
 例えば、上に挙げたスター達の中で、ヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエは校長であり、マイスター(教官)だったのはヨハネス・イッテン、ワシリー・カンディンスキー、パウル・クレー、ヨゼフ・アルバース、モホリ=ナジ・ラースローなどで、彼らは作家であり、また職人的な立場をも兼ねていただろう。そしてヘルベルト・バイヤー、マリアンネ・ブラント、マルセル・ブロイヤー、ヴィルヘルム・ヴァーゲンフェルドは学生だったが、在学中からその才能を開花、プロダクトを生み出し、後にマイスターとなっている。また、カール・オーボック2世は、金属職人でありつつBAUHAUSで学び、独自のモダンな作品を生み出している。言って見れば「変化へのチャレンジ」を互いにシェアするというまるで今的なアイデアだったのだ。
 BAUHAUSには、集まった人々の出自や個性が強く反映している。ドイツ、ロシア、スイス、オランダ、ハンガリー、アメリカ、日本などに加え、ユダヤ人という他者のメンタリティが同居していた。それは「国民国家」という幻想のナショナリズムにとらわれないアナーキーな運動の実験場だったのではないか。
 そんな自由で開かれた芸術学校がヴァイマールに設立されたのは決して偶然ではなかった。
 未曾有の第一次世界大戦で敗戦目前だったドイツ(実際は諸侯が乱立する連合国家)は1918年、兵士の反乱で帝政が崩壊し、翌1919年にはヴァイマールの議会で、男女平等の普通選挙や労働者の権利などを定めた、当時最も先進的な憲法を制定している(この憲法、第2時大戦後の日本国憲法にも影響を与えている)。同じ年に設立されたBAUHAUSにもヴァイマールの憲法理念が反映されていただろう(もちろん、戦後の復興のためにBAUHAUSを「産学協同」の大学にという目的もあったのだが)。
 例えば、開校時の学生募集に対し、予想を超える女性の入学があり、グロピウス校長もあわてたらしい。そんな中で、マリアンネ・ブラントは、当初、女性には認められなかった金工工房に入り、なんと責任者となって、ランプ、灰皿、ティーポットといった現代のインダストリアルデザインの先駆けとなる作品を生み出した。それどころか、フォトモンタージュなど写真においても革新的な表現を試みている。職人とともにアカデミックな国立の学校で女性が学ぶということ自体が異例だった時代である。まるで、アイリーン・グレイやシャルロット・ペリアンの先駆け、女性の社会進出だ。しかし革命にも変化は付きまとう。同志と呼ぶにはあまりにもキャラが強い同士だし、「産学協同」に反対する学生達の左翼的活動も激しさを増す中、1933年にはナチス政権からの抑圧もあって、BAUHAUSは14年間の歴史の幕を自ら降ろすことになる。
 その後のBAUHAUSに関わった人々だが、主だったメンバーはアメリカに渡り、ある人は著名な大学に招かれBAUHAUSの教育理念を広め、またある人は建築家やデザイナーとして活躍する。そして彼らが撒いた種が、戦後アメリカの好景気の中で花開き、やがてミッドセンチュリー・モダンというムーヴメントとして1990年代の日本のメディアを通して僕らに伝わったわけだ。
 そこで気がついたことがある。organをスタートして現在まで、扱っている様々な商品にはBAUHAUSのスピリットが受け継がれたものが多いことだ。いやいや、多いのではなく全てがそうなのかもしれない。でもそれは、必ずしも見える形としてではない。

The Art Of T-Shirts & Glasses

info | new item カルチャー
DATEJun 5. 21

サクッとシャツを着たい季節を迎えて、90年代にL.A.から世界に向けて発信されたTシャツのプチセールを行います。
ウォーホルやバスキア、バウハウスからビューティフルルーザー、小野洋子、奈良美智、村上隆など、アーティーなヴィンテージ Tシャツを限定販売。
他にもジェンダーフリーなシャツや古着もあります。メッセージを込めた気分転換です。
同じタイミングで、レスカの新しい眼鏡フレームとサングラス、ヨーロッパのヴィンテージフレームといったアイウェアもご覧いただけます。どうぞ足をお運びください。
一部アイテムをオンラインショップにも紹介しました。 アイウェア>>

*期間中は、コロナ対策を行いながらの展示販売になります。ご協力をお願い致します。

06/12(土) – 06/27(日)
木&金 14:00-18:00 土&日 13:00-19:00 ( 定休日 / 月曜日 – 水曜日 )

「先行したもの」を発見する、その 2 。

ひょん | カルチャー 社会科
DATEMay 28. 21

 ワクチンの先行予約は済ませたものの、接種がいつになるのか未だに先が見えない。『博多祝い唄』じゃないが、”しょんがねえ”気分が毎日続くのはまったくやりきれない。マスクを付けて外へ出るのも億劫だし、こうなりゃ、読んだ本をまた読むのにいいタイミングかも知れない。巣ごもりなんだもの。
 読み直すのは以前気に入った本なのだが、どうな風に気に入っていたかが判然としない。大筋は気に入っていたのだが、なにか大事なことを忘れていて、その何かが今の自分には欠けている気がするのだ。その場合、パラパラとページをめくり、自分が引いた線が目安になる。それも適度に多い方が引きが強い。ほー、そんなに引いてたのか、なになに…、ってな感じ。
 今回は田中優子の『近世アジア漂流』。以前読んだのは5、6年前だから、”おさらい”するインターバルも悪くない。ずっと古い本より、近過去の方が自分には効き目があるからだ。
 最初に読んだ時には「近世」というのがいつの時代を指すのかがよくわからないまま読んでみたのだが、今回はそこから掘ってみた。「古代・中世・近代」で良さそうなものなのになぜなのか、WIKIに尋ねてみた。すると、どうやらルネッサンス以降に考え出された時代区分らしく、西洋では15~16世紀、日本では17世紀あたりに始まり、どちらも19世紀には近代へ移行したとされているようだ。中世とは封建的な時代であり、「民主的な近代が訪れる前段階」といった過渡期的な時代設定なのだろう。
 そんな近世における日本は鎖国状態だったはず。しかし実は中国・朝鮮・タイ・ヴェトナム・インドネシアなど、ほぼアジア各地域との繋がりが盛んだったというのがこの本のキモ。それも、色んなカルチャーの視点からだから面白い。しかも、そこにヨーロッパ人も加わって、アジア人と入り乱れた仲介貿易が行われていたわけだから、さらに面白い。たとえば海賊と思われている「倭寇」も、日本人は2割程度で、中国人、ポルトガル人や東南アジア人との混成貿易商人だったと知り、「へーえ」となる。当時の日本は約90もの国々からなる島国であり、後の近代国民国家ではない。例えば、ボクの国は「筑前」でしかなかった。つまり、海には国境や排他的経済水域などなしの貿易だ、スリルとサスペンス満載だったはず。そんな荒くれどもに審美眼があったかどうか知らないが、おかげで様々なお宝が遠くジャポネに流れ込んだというわけだ。
 18世紀後半の江戸は,どうやら最新の消費生活を求める世界有数のメガシティだったようだ。「洒落本」や「黄表紙」と呼ばれる出版物は早くもメディアの役割を果たし、人々は「ブランド物」に血道を上げていたという。中国や南蛮渡来の輸入品と、国内生産の高価でレアものが、読み物や浮世絵などのビジュアル紙を通して、数寄者たちの欲望を喚起した時代だったのだ。そんな中、TSUTAYAの創始蔦屋重三郎などが、海外の図版にある蚤の絵を”疫病の親玉”としておどろおどろしく誇張してしまった黄表紙などは、当時の幕府の無策ぶりへの不満のはけ口としてのメディアの役割も担っていたわけだ。
 お洒落物としては、たとえば写真にあるたばこ入れのキセルを包んだ革。イギリス東インド会社が長崎商人を通して日本へ売り込み、馬具や屏風、そしてこのような小物に応用してプレミアムな舶来品として商品化したもの。また、江戸の粋の象徴である縦縞のタバコ入れはインドやインドネシアからやってきた更紗の影響だし、下は日光東照宮に取り付けられた当時オランダで流行していたイルカの飾り。近世の日本は、僕らの想像を超えた世界市場と直結した国内市場の時代だったとは驚き桃の木、エルメスの木なのだ。
 となると、「日本=島国」というクリシェがネガティヴにしか使われなかったのには、大いなる疑問を持たざるを得ない。 島国であることは、ヨーロッパ大陸のような否応無しの地続、地縁の絶え間ない戦いとは無縁であり得た幸運でもある。何より、海という交易空間を使って、先祖たちはアジア地域を縦横無尽に交通していたことを忘れるわけにはいかない。江戸時代とは、近代の訪れを待たずに、独自のポストモダニズムを、それも無意識のうちになし得た世界的にも摩訶不思議な時代だったのかもしれない。
(写真は田中優子著『近世アジア漂流』朝日出版社1990年より)
 

恋する男たちのボサノバ

ひょん | カルチャー 社会科
DATEFeb 8. 21

 
 小松政夫さんが亡くなったと知って、あの博多人らしい芸風を懐かしく思った。
 彼のペーソスあふれるギャグは「宴会芸」に通じているから面白い。宴会という同僚+取引き相手の集まりでの余興は、なかなかなむずかしい。図々しさと小心さをまいまぜにしつつ、あくまで「玄人はだし」の「かくし芸」を披露しなければならない。堂々としすぎてはいけない。そこには素人らしい「恥ずかしそうに」で「やけっぱち」のパトスが大事だ。
 ペーソスと聞くと「哀愁あふれる」という感じだが、同じ語源であるパトスとなると、それに「激情」という要素が含まれる。森繁久彌の社長シリーズにおける三木のり平の宴会芸はそのお手本。万年課長ののり平は、なにかというと「今夜は赤坂あたりでパッと行きましょう」と宴会へと話をそらして顰蹙を買うが、じつのところ状況を批評している観察者でもあるのだ。
 そういえば、古くからの友人で、山笠の「段上がり」もこなすノブ君は生粋の博多人で、顔ものり平さん寄りで、なにより博多弁による話が自虐的で面白すぎる。とは言っても生粋の素人なので、小松の親分さんには及ばないのはあたり前田のクラッカー。
 もうひとり、「宴会芸」から生まれたタレントがタモリだろう。ただし、彼は博多ではなく福岡のひと。だから土着性は希薄で、クールだ。はじめてタモリを見たのは1976年に当時の東京12チャンネルで放映されていた『空飛ぶモンティ・パイソン』というTV番組での「四カ国語麻雀」だった。
 なんなんだ、この怪しげな髪べったりでレイバンのサングラス男は。中国人、アメリカ人、フランス人、それにロシア人のハナモゲラ語には、笑いと一緒に危うさが同居していた。他者の言語と感情をアナーキーに演じながら、自分たち日本人の勝手な思い込みを相対化しているようで痛快だった。
 このTV番組の看板はモンティ・パイソンだった。そのシニカルな英国の笑いに、まだ無名だった森田一義のコーナーをぶつけたプロデューサーは偉かった。そして進行役はダンディで物柔らかな口調の今野雄二。海外のやばいカルチャーを、さらっと自分のスタイルで紹介した稀有なディレッタントだった。
 蛇足だけど、森田一義は僕が通っていた高校の4年先輩で、いわばニアミス。葡萄畑というバンドにいたときには、タモリが所属していた田辺エージェンシーというプロダクションから内密に移籍を誘われたのだが、事務所にばれて実現せずじまい。しかし、今野さんの『おもしろ倶楽部』というTV番組には時々出演させてもらったりもしたもんだ。1970年代は、ひょんな時代だったのか。
(写真はイメージです)

The BandとBurt Bucharach

ひょん | カルチャー 社会科
DATEJan 10. 21

 タワーレコード時代の友人Sさんから、この前のクリスマスに二枚のCDが送られてきた。一枚はThe Bandのトリビュート盤”The Endless Highway”で、随分前にアメリカで発売されたものらしいのだが、まったく知らなかった。参加しているのは、ほぼ今のアメリカのミュージシャンで、ほとんどが聞いたことがない名前だ。もう一枚はBurt Bucharachの”Blue Umbrella”。「バカラック92歳の新作、絶品です」というSさんのメッセージが添えられていた。
 タワーレコードが日本で輸入盤の卸しとフランチャイズを初めて展開したのは1970年代の終わりころだったか。たしか大阪と金沢、そしてぼくが勤めていた福岡のレコードショップがフランチャイズになったのだが、そのときの担当がSさんだった。東京人らしく一見クールで時々お茶目、アメリカ音楽が好きなひとだったから、商売抜きで仲が良くなった。1、2年経ったころ、Sさんから「渋谷に初の直営店を出すんだけど、売れるかな?」という電話があった。ぼくは「何を仰るウサギさん」と答えた。やがてオープンした店は連日の超満員。でもSさんは、何が気に入らなかったのか、スッタフを総入れ替えしたらしい。やはりアメリカ的なひとだったのかな。

 どっちから聴こうかと一瞬迷ったが、今までトリビュートで面白かったものに出会ったことがなかったしと、バカラックにした。すると、1曲めのイントロからあのバカラック節が流れてきた。そしてすぐに極上のセンチメンタルなメロディーが、抑制気味の男性ヴォーカルに乗って耳からハートに染み込んできたからもうたまらない。時間を超えて、すべてのことを慰撫するような音楽、健在すぎるよ、Mr.ソングライター。
 バカラックがジューイッシュの家庭に生まれたことが、かれの音楽に与えた影響が何だったのか、僕には知る由もない。でも、感じることはできる。「エグザイル」として「国」という寄る辺がない「孤独」。その対価としての「自由」。アメリカで、このふたつを両立させるのは簡単なことでない。それをアウフヘーベンしたのがバカラックの音楽だったのではないだろうか、なんて。
 さて、ザ・バンドだ。あまり期待もせずに聴き終えたら、打ちのめされてしまっていた。The Rochesが歌う”Arcadian Driftwood”や、Jack Johnsonの”I shall be released”など、ベテラン勢も良かったが、なにしろ若手(かどうかしらないけど)にやられた。いづれも原曲を損なわないアレンジ(なかにはグランジやファンキーっぽいバンドもあり、それも良)と演奏、そして歌詞が際立つ素直な歌い方がとても好ましく、オリジナルでは聞き取りにくかった歌詞が立っていて、今の時代にも有効なフレーズが警句のように響く。

 1960年代の終わりに出会った”The Weight”という曲は、のっけのギターの印象的フレーズからして、45回転のレコードをあえて33回転でかけたような独特なテンポを持つ、ゾクッとする未知の音だった。そこにはヒッピーの若さはなく、「悟り得ない老人」のような違和感が充満していた。言ってみれば、「進歩」や「新しさ」への疑いであり、カウンターカルチャーに対する批評だった。この曲でリフレインされる言葉がある。
 Take a load for free「重荷を下ろして自由になれよ」
 
 そんなザ・バンドの音楽性は、しばらく前から「アメリカーナ」と呼ばれるようになった。たしかに、彼らはさまざまなアメリカのルーツ・ミュージックという「古い」ものを、彼らなりに回復しようとした稀有なロック・バンドだったと思う。「アメリカーナ」とは言ったものの、5人のメンバーのなかで、アメリカ人はドラムスとヴォーカルのレヴォン・ヘルムだけ。残りの4人はカナダ人で、しかも、多くの曲を手掛けたギタリスト、ロビー・ロバートソンはジューイッシュとネイティヴ・アメリカンという他者性が際立つ両親のもとに生まれている。まさにザ・バンドの面々は、アメリカとカナダにまたがるマルチ・カルチャーの落し子だ。そんな彼らにとって、移民たちのルーツ・ミュージックは彼らにとって決して「古い」ものではなかったはずだ。
 ザ・バンドとバート・バカラック。とっつきにくいオジサン・バンドと稀代のメロディメーカー。スタイルこそ違え、どちらも「アメリカーナ」を体現していることを思った。

 ところで、トランプ大統領は先日、ようやく敗北宣言をした。メキシコとの国境に壁を作ろうとした御仁は去る。これで世界の「重荷」は、一瞬だけ軽くなったのかな。

のっぴきならない偶然の美しさ。

ひょん | カルチャー デザイン・建築 旅 社会科
DATEDec 14. 20

 しばらく前、小浜と長崎に行ってみた。長崎県立美術館でやっている菊畑茂久馬展と、城谷耕生の作品展を一挙に観るのが目的といえばそうだが、小浜のちゃんぽんを食べ、温泉に浸かるのも忘れるわけにはいかない。でも、それだけではコロナ禍の遠出に気乗りしない運転手トモにはなにかが足りない。一計を案じ、雲仙岳に登って「樹氷」を見ないかと誘惑したら、あっさり了解してくれた。好奇心旺盛な女房はありがたい。
 小浜のちゃんぽんは薄味だが、魚介類の旨味がたっぷりだった。城谷耕生が手がけた「刈水庵」は海岸から続く細い路地を登ったところにあった。自身がデザインしたガラス器や奥さんの陶器などを展示販売する棟と、2階から海が見える喫茶室の棟が”くの字型”に並んでいて、まるで廃屋寸前の趣きがあって、とても好ましかった。
 小浜に一泊した朝、ホテルでテレビをつけると、昨夜初めて樹氷が確認されたらしい。いそぎ、妙見岳の頂上付近目指して車を走らせた。しかし木樹には氷の姿はなかった。すると、テレビ局の人らしい二人連れが僕らに近づき「今朝早くにはまだ所々あったですが…」と気のどくそうに言った。トモがなにか質問され、小枝にかろうじて残った氷を見せている。彼女はついに樹氷を発見したのだった。
 ぼくが「樹氷」を始めて見たのは武雄に住んでいた頃だから小学校2,3年生だったか。まだ自家用車を持っていない父が、どこかから借りてきただろう車に乗って家族3人で雲仙を目指した。ぼくも「樹氷」を見るということに興味を持ったのかもしれない。
 むかしの雲仙は遠かった。朝、家を出て、いったん有明海に抜け、海沿いの道を延々ガタゴト走り、お昼になったころようやく諫早に着く。昼飯は父の提案で「うな丼」だった。とんでもなく美味しかった。こんなに旨いものがあるなら、この先が期待できると思った。しかし、そのあとも遠かった。舗装されていない寒々とした道をひたすら走る車の中で、カーラジオから流れるザ・ピーナッツの『情熱の花』の日本人ばなれしたハーモニーのおかげでなんとか間が持てた。ようやく辿り着いた仁田峠のロープーウェイから見る一面の樹氷は豪華なアイスキャンディーのようで、たしかに見慣れない光景だった。
 長崎県立美術館では、菊畑茂久馬の作品を見ることができた。”九州派”というレッテルなしに絵に向きあってみると、彼はじつに真剣なひとであることが想像できる。『絵かきが語る近代美術』という彼の本を読んだばかりだったので、なおさらそう思った。ポルトガル人宣教師が持ち込んだ宗教画は”油画”と呼ばれ、江戸時代に長崎で独自の発展を遂げる。そのあと明治維新後”西洋画”となり、日進、日露戦争、そして太平洋戦期の”戦争画”へと変容してゆく様子が語られるこの本は、美術が日本の近代化に果たした功罪を教えてくれる。そして夏目漱石の「芸術は自己に表現に始まって自己の表現に終わるのである」という言葉を引用し、権力、権威へのソンタクをいましめている。菊畑茂久馬は、やはりバリバリの九州派だったのである。
 もう一つの展示では、城谷耕生がデザインしたプロダクトを通して、彼の仕事が俯瞰できるものだった。小浜に生まれ、イタリアでデザイナーとしてのキャリアをスタート、エンツォ・マリや色々な人と企業を繋ぎながら、「地域」に根ざす仕事を続けている。なにしろ形がいい。特にガラス作品。バウハウスやカイ・フランクにも通じる、機能と美しさが静かに呼応したアノニマスな様子は、見ても使っても、とても気持ちがいい。いつかお会いしていろいろ話を伺ってみたい人です。
 旅のポイントに「樹氷」を提案した時、朋子からカウンター提案があった。長崎の原爆資料館だ。広島は訪れたことがあるのだが、長崎はまだだったこともあり行くことにした。ただし、旅の最後にした。
 入場券売り場に行くと、入場前の中学生らしき団体さんが列をなしている。ぼくらは一般チケットを買い一足先に入ったものの、途中ですぐに追いつかれてしまい、結局彼らと一緒に見学することになった。
 高度9600mのB29からパラシュートで投下されたプルトニウム爆弾が地上500mで炸裂し、わずか数秒で広がってゆく様子がジオラマ上で再現されるシュミレーション映像に、一瞬にして心が凍った。爆弾のニックネームは”ファットマン”、笑えないジョークだ。実物大に再現された黄色いソレは、なんだかアッケラカンと滑稽な形をしている。史上最も醜悪なデザインだ。
 それにしても、惨禍を物語る展示物には、どれも所有者のオウラを感じることを要請されるようで、見つめ続けることが難しい。そんななかで、サイダーの瓶だろうか、ぐんなりとへしゃげたガラスの塊におもわず目を奪われた。そう言って良ければ、それは「オブジェ」だった。「もの」の存在と「ひと」の実存はちがうものだろう。しかし、意味や目的、そして機能を奪われたはずのオブジェが発する「のっぴきならない偶然の美しさ」から生まれるオウラも実存なのではないかと疑った。

・このブログを投稿した夜、友人のデザイナーから城谷耕生氏の訃報を聞きました。これからの氏の活躍を楽しみしていただけに、とても残念です。ご冥福をお祈りしします。

『ピエロのワルツ』のこと。

ひょん | カルチャー 映画・音楽
DATEJun 15. 20


 葡萄畑というバンドででアルバムを出したのは1974年だった。「ザ・バンド」のような音楽をやるつもりだった。でも売れなかった。「売れたい」という気がなかったし、なにより下手だったからしかたがない。売れなくても、自分たちがやりたいことをやるんだ、みたいなことを言って、いつもマネージャーを困らせていた。つまり気分はカウンター・カルチャーだった。そこんところを「なかなか気概がある」と事務所側が勘違いして2枚目のアルバムを出そうということになったのだろう。その前にシングル盤を出すので、それ向きの曲を作ってくれとも言われた。

 困った。アルバムからカットするのではなく、シングル盤だけをつくるのは、そもそもヒット狙いに決まっているが、歌詩はぼくの担当だ。シングル向けの詞なんて書けなかった。「愛」や「人生」という言葉は気恥ずかしくて使うことはできない相談だもの。毎晩、下宿の部屋でもんもんとした。それでもなんとか書いてみた。そして、「愛」は使わなかったが、「人生」は使ってしまった。

 タイトルは『ピエロのワルツ』。新宿の3番館で見た映画『気狂いピエロ』と『フェリーニの道化師』が頭のなかをぐるぐる回っていたせいなのか。『気狂いピエロ』から「愛」の残酷さを、そして『フェリーニの道化師』から「道化師は貴族だ」という、ふたつのテーゼみたいなことを自分なりにまぜこぜにしてみたかったのだろう。

 当時付き合っていたJunちゃんは、出会った時から名前も仕事も年齢も偽っていた。モデルをしているとか言っていたが、実際は広尾にある日赤医療センターの電話オペレーターで、たまにモデルをしてはいたが、実はヌードだった。一度だけ仕事の打ち合わせに付いてきてほしいといわれて銀座の喫茶店でカメラマンと会った。「きみはジョン・レノン好きなの、じゃ彼女と一緒に写ってみない?」と言われたが、断った。ジョンとヨーコの全裸のポートレイトが話題になっていた頃だ。名刺には荒木経惟とあった。
 
 新宿駅東口の芝生ではフーテン達がビニール袋をスースー吸っていた。「みんな宇宙人みたい」がJunちゃんの口癖だった。オカッパの髪は金髪で、ひっきりなしにたばこを吸っていた。東京だと言っていたが、本当は新潟の出身で、二人姉妹の下で、亡くなったお父さんは小さな神社の宮司だった。

 『ピエロのワルツ』のデモテープをポリドールのバカ広いスタジオで録音したけど、なんだかしっくりこない。メンバーの青ちゃんが付けてくれたメロディーはセンチメンタルでぜんぜん悪くないのだが、アレンジが弱い。シングルなので、もっとなにかが欲しいということだったか、矢野顕子さんの旦那だった矢野誠さんにアレンジを頼んだのだが、彼はアメリカに行っていて実現しなかった。曲はそのままお蔵入りになって、ぼくらもそのことを忘れてしまった。

 そんなこんなを、なぜくだくだ書くのかというと、去年、青ちゃんが『ピエロのワルツ』をやり直してみたいと電話してきたからだ。かれは”絶滅危惧種”として、今でも葡萄畑をしつこく背負ってくれているので、ノーとは言えない。というか、嬉しかった。

 アレンジはアコースティックにして、レナード・コーエンがシャンソンを唄うってなカンジだという。そして青ちゃんはそれを去年の年末のライブで唄ったのだ。送ってくれたライブの動画を観て、ぼくは泣いてしまった。初めていい曲だと思ったからだ。
 それはこんなふうなヴァース(歌の前語りの部分)で始まっている。
     学校で習ったはずさ この世は大きなサーカス小屋だって
     木戸銭払って観ているよりは 仲間に入ってみる気はないか。
 ぼくはまだ知らない「人生」を歌おうとした。自分の人生に、そんなに良いことが待っているとは思えなかったが、やってみるしかなかった。
 
 余計な後日談がある。何年か経ってバンドをやめ、ぼくは福岡に戻って中古車屋でアルバイトをしていた。昼休みに近くの本屋で週刊誌を立ち読みしているとグラビアに荒木経惟のヌード写真が何ページか載っていた。そのなかの一枚にJunちゃんの姿があった。あわてて閉じた。
武末充敏

なんとナウい画家だったことか。

ひょん | カルチャー デザイン・建築
DATEMar 14. 20


 藤田嗣治に興味を持ったのは80年代の半ば頃だったか。バブル時代が終りを迎えつつあるというのに、ぼくは”おフランス”への片思い真っ最中だった。きっかけは絵ではなく、おかっぱ頭に丸メガネをかけ、ジロリとレンズに目をやるポートレイト。こんなお茶目な日本人・イン・フランスとあっては、もちろん捨てては置けぬということで、すぐさま下関市立美術館へ駆けつけようやく「猫」や「ヌード」などの実作品に触れた。そして日本画と西洋画がミックスしたような肉感的な線描の素晴らしさにあっけにとられたのであった。それから何度もフランスへ買付に行ったのだけれど、今回ようやく自宅とアトリエを訪れることができた。そしてそこで出会ったのは、Fuojitaの作品にふさわしい暮らしぶりだった。

 古い農家の改装を自ら手がけ、気に入る服がないからとミシンを踏み、額縁ももちろん自作、焼き物も作り、日本製の電気釜でご飯も炊いたFoujitaは、みずからをアーティストではなく、アルティザンと呼ぶことにこだわったという。アルティザンとは職人という意味だろう。似た表現の英語にクラフツマンというのもあるが、その場合は似たような製品を手作りするニュアンスがある一方、アルティザンには工夫をこらしたオリジナルをこしらえる一匹狼の趣がある。そんな画家たちがモンパルナスの安下宿で交友を結び、後にエコール・ド・パリと呼ばれる自由で新しい絵画の発展に寄与したのは1910年代、第一次世界大戦直前のことだった。それはパブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、モイズ・キスリング、ジャン・コクトーなどだったのだが、その中でFoujitaが親友と呼んだのはアメディオ・モディリアーニだったことを知り「我が意を得たり」とばかり、ぼくは密かに喜んだ。 
 何を隠そうモディリアーニは、ぼくが初めて恋に落ちた画家だったのだ。その挙げ句、高校の美術部でモディリアーニ風の油彩画をたった一枚描き上げ、文化祭に出品したところ、あろうことか譲ってほしいという見ず知らずのおじさんのオファーを受けたのだ。どんな絵かというと、当時好きだったマリー・ラフォレの写真をながめつつ、首をやたら長くして、目は灰色で虚ろに、そして両手でりんごを捧げ持たせたもので、青臭い退廃感を醸していたと思う。(お代はいくらだったか忘れたけれど、父に相談の上、確かキャンバスと絵の具代金ほど、つまりメルカリ価格に決定。今思えば、これはぼくのオークション・デビューだったのか)。 

 それはさておき、丸メガネのアルティザン画家、Foujitaは赤貧の時代から一気に画壇の寵児として、パリっ子の耳目を集めることになる。元来オリエンタリズムに多大な関心を持つフランス人にとって、精緻で美しい線描と乳白色の画面の合体は、さぞかしエキゾティックに映ったことだろう。それにあの自作のアヴァンな服装である。実のところ、そのころのFoujitaはフランス語で「FouFou」と呼ばれる人気者だったらしい。「Fou」といえばゴダールの映画『気狂いピエロ』の原題『Pierrot Le Fou』を思い出す。「クレイジー」というか、日本的には「風狂」というところか。それにも増して、Foujitaがプライヴェートでモダンな感覚を兼ね備えていたことを知ることができたのは、生前の暮らしぶりが保存されたこの家を見学できたおかげだ。 
 それについてFoujitaは随筆集『地を泳ぐ』のなかでこんなことを述べているので、ちょっと長いけど概略引用してみよう。

「仕事場は仕事本位に、光線は勿論の事設備の万端が、勝手都合宜く出来ていれば物足りる筈で、申し分はないわけであるが、やはり、生活の殆ど一生涯をこの仕事場で暮らすからには、雰囲気を考慮して、自己の趣向を取り入れておきたいのである。(中略)居間から改まった気分で、戦場に臨むような気がしたり、屠殺場にでも行くような、概して日本等の寒い画室陰気な仕事場に、改まって行くという感じが嫌である。生活の延長、生活が流れ込んだ画室、始終いて別に画室にいるという気分のしない仕事場が理想である。華美豪奢は望みたくないのである。余りかけ離れたモダーンも不自然である。(中略)と言って、普通の座敷なり洋室も好ましくないのである。多少風変わりな、自分だけの好みの、特殊の空気がほしいのである。私は田舎家風な、質朴な、頑丈な、散らかしてもいい、汚しても差し支えのない、気のおけない、安心していられる様な仕事場が好きである。」

 この、何というのか「反対の反対」をつらぬく独創性が絵に通底しているのは明らかだろう。Foujitaは、当時の日本画壇の主流だった”西洋画もどき”を拒否し、パリにおいて”ジャポニズム”をも拒否し、”自前の”作風を展開したといってもいい。それをハイでポップなスタイルでやっちゃったナウい画家だったわけだ。
 ところで、今回日本へ戻ってすぐに『地を泳ぐ』を再読したところ、すっかり忘れていた(というより、30年ほど前にはあまり関心を持っていなかった)画家との交友が記述されていた。猪熊弦一郎である。
 Foujitaは、猪熊の芸大の先輩にあたり、パリにやってきた猪熊はモンパルナス、Foujitaはモンマルトルとアパルトマンは離れていたものの、密な交際を続けていて、それは終生変わることがなかった。以下はまたまた長めの引用だが、ふたりのパリぐらしが垣間見えるようだ。

「モンパルナスから猪熊夫妻が、日曜毎に必ず近くの蚤の市に通勤して、この三人のアトリエを順々に訪れてくれる。寧ろ買い物の自慢である、針金細工の大砲やら、古靴下で拵えた鶏やら、南京虫退治の鞴やらを、古新聞紙の包みから一々大事そうに取り出して、おやじさん、どうだい、見てくださいって言うんだ——日本へ持って行きゃ素敵なもんだ、と独り悦に入って見せてくれるが、私達は又額縁を並べ立てて、この演題の客へ一通りのお説教を繰り返さねば胸がすかぬ。」

 ドイツ軍が今にもパリへ侵攻してこようかという非常時に、蚤の市で見つけてきたガラクタを披露する猪熊の物好きぶりがブラボー過ぎる。多分、丸亀にある彼の美術館所蔵のコレクションの中にはきっとその時の戦利品が混じっているかと思うと嬉しくなってしまった。
 そんな二人のFouがその後、太平洋戦争下で共に「戦争画」を描く羽目になるとは、なんという運命のいたずらか。ましてFoujitaは、戦後の日本で「戦争協力者」のレッテルを貼られてしまう。パリへ戻ったFoujitaは、レオナルド・フジタとしてカソリックの洗礼を受け、その後二度と日本の土を踏むことはなかった。いつだったか、Foujitaが描いた戦争画の一枚「アッツ島の玉砕」をテレビで観たが、鬼気迫る悲壮な形相の兵士たちの姿には、戦争賛美は感じられず、これを見たら、誰しも戦争に参加する気にはなれなかったのではないか、と思った。フジタは後年、このようなことを言っている。
「僕が日本を捨てたのではなく、日本が捨てたのだ」。

 

 

フランス買い付けから戻りました

ひょん | カルチャー デザイン・建築 旅
DATEFeb 27. 20

こんにちは、看板妻(以前、岡本敬子さんに命名頂きましたので、ひらきなおって自分でそのように申しますのであしからず)の朋子です。一昨日の夜フランスに買い付けから帰国し、店のパソコンの前にドンと座って皆様のご来店をお待ちしております。
余談ですが、ちょうど2週間前の出国直前、新型コロナウィルスに対するテレビ報道で、遠方に住む母親から「フランスではアジア系人種への差別、乗車拒否や入店拒否が…etc,」と心配の電話があり、とうとう「行くのを止めたら?」とまで言われる始末。とはいえ買付けとは簡単に言うものの、これらは何ヶ月も前から仕事はもちろんその他諸々のスケジュール調整にはじまり、リサーチとアポイントまで、けっこう面倒な思いをしながら準備完了し(これらはほぼ夫の仕事)やっと行けるわけで、それらすべてを棒に振ってやめるわけにはいきません。親の心配を振り切り、たどり着いたフランスでは…。実際には拍子抜けするほどにそんな対応はまったくうけませんでした。「え?まったく違うよ!?」と思ったと同時に、報道って、真実の切り取り方ひとつ、さじ加減でどうにでも人の心理をコントロールできるものなんだなぁ、怖っ、て改めて思いました。

さて、今回このタイミングでパリに立ち寄ったのは、買付け以外にもいくつかの目的がありました。そのひとつが、フォンダシオン ルイ・ヴィトンでシャルロット・ペリアンの回顧展を見ること。会期は終了間近で滑り込みセーフなスケジュールでした。
すでに訪れた人々のレポートから、その内容の充実ぶりは予測していましたが、想像以上の再現空間と資料内容に感激。写真を少しご覧あれ。

会場ではヴィンテージ家具を数多く見られる贅沢は勿論のことですが、展覧会とあらば、ここでしか見られない関連作品や多くの紙資料にも心奪われて落ち着いていられません。欲を言えば時間がもっと欲しかった。

階層を分けての展示の中でも、特に興味を惹かれたのは最初期1920年代〜30年代頃のゾーン。ここはいわゆる彼女の最初の活動が紹介されていて、ル・コルビュジエのアトリエに入所した彼女が、ピエール・ジャンヌレやフェルナン・レジェ、ピカソといったアーティストたちと出会い、もともと持ち合わせていた大胆な感性をさらに磨き上げ変化してゆく様子に感激です。

サロン・ドートンヌで発表された共同作品『居住設備』(ここはいわゆるクロームメッキのパイプと革、ガラス、ミラーといった無機質な素材で作られたクールな空間)や、内装空間とインテリア、家具すべての調和が素晴らしい『青年の家』(ここで一挙に藁編み木製椅子が登場!)もそのままに再現されていました。中でも以前書籍で読んでいた若かりしペリアンのコミュニスト的活動からなるレジェとの共作など、興味深いものがリアルな大きさで再現されていました。当時の最先端を行くモダニスト達のコラボレーションがそこここに散りばめられた、刺激的な空間でかなりの時間と体力を消耗。


階層が上がると年代も上がっていく展示で、その後は1940年代の日本滞在で影響を受けた作品紹介や、ここらでジャン・プルーヴェとの関わりあるシステム家具などがちらほら登場。初めて見た時にはあまりの素っ気なさに「これでいいのよ!」とペリアンからパンチを食らった気がしたほど衝撃的だった構造むき出しの引き出し棚も、ガラスケースの向こう側に各種並んでいました。

1950年代に日本で開催された『ル・コルビュジエ、レジェ、ペリアン3人展』の会場も再現されていました。会場構成には少なくない数の復刻品も使われていたと思うのですが、どうしても目がいくのはヴィンテージの家具類と、あまり見たことのないコルビュジエやレジェの絵画やタペストリー、涎です。

そしてそられヴィンテージの家具類は、各ギャラリーから貸し出されているものもチラホラありました。てことは後日展示が終われば、あれらは買えるんですね、お値段不明。聞いてもいいけどユーロの数字から日本円に換算できないほどの桁でしょう。途中、突然にカルダーの特大モビール彫刻もありました、そういった並びがとても魅力的な展示が、続くのです。

ペリアンがデザインしたウォールランプもずらりと、そんな中にorganでも販売しているレアなシェードの長いバージョンも展示されていました。あれ、いいですよ。お客様、うちにあります、いかがですか?(セールス)。
その後、レザルクの設計コーナーや、いわゆるブラジルもの関連コーナー、ペリアンの茶室、と、こんな様子で興奮撮影してきた写真は枚数不明。夫婦合わせたら、きっと呆れるほど撮ってます。

最期に、展覧会場で心躍った展示をもうひとつ。それはペリアンが愛用していたネックレス!でっかいベアリングボウルを自身で繋げたそれは、彼女が手がけた名作椅子”シェーズロング”に横たわる有名なペリアンのポートレイト写真でも身につけられているものです。展示会場にはこれまで見たことのない写真も多く展示されていたのですが、ファッションはつねにショートヘアでアヴァンギャルドなスタイル。雪山では男性のような登山スタイルにビーチでのトップレスと、やることが豪快で、見ていて爽快愉快。あのネックレスは、シャープで大胆な発想と表現をしつづけたペリアンの象徴だと思います。拝むように凝視しパワーをいただいてきました。
展覧会関連の書籍やポスターなども持ち帰りました。少しずつ店頭に並べ始めていますので、ぜひどうぞ。