社会科

ヒストリーとはストーリーなんだもの。

ひょん | 旅 社会科
DATEOct 19. 20

 

 久しぶりの旅は、パスポートがいらない国境の島「対馬」だった。一度は訪れてみたい場所だったのだが、行ってみると、勝手な想像と思い入れを軽く越えた、気の遠くなるような長い歴史を垣間見ることになった。
 対馬は、面積の95%は500mくらいの山々で、わずか5%の土地が散在するばかり。人々の暮らしは海を頼りにせざるを得なかった。そのためにはリアス式海岸の複雑な地形が役に立った。なかでも、外海から奥深く入り組んだ複雑な地形を持った浅茅湾(あそうわん)周辺では、縄文期からの暮らしの遺跡に事欠かないのだが、なにより驚くのは、そんな昔から人々は海を渡って交易をしていたことだ。いやそれどころか、何万年前だかには、大陸と地続きだったらしいのだ。
 峰(みね)というところにある、小さな民俗資料館には石器などが大量に保管展示されていて、中に魚や食物を切るための鋭利な黒曜石があった。それらは対馬にはないもので、九州の伊万里あたりから運ばれたとある。わが故郷の近くじゃないか。いきなり対馬が身近に感じられる。日本史の時間はたいくつで、世界史好きだった僕にとっては、ちょっとした発見だった。
 「最新の発見とは、最古の発見である」という説は、なにも考古学に限ったことではない。やれAIだ、次は5Gだといわれても、ああ、また新手のデジタル商品か、面倒くさいなあと思ってしまうのは、歳のせいだ。残された時間を使い、自分が存在していなかった時代のあれこれを上書きするのは、新たな発見なのだ。
 実のところ、対馬に興味を持った理由の一つは、自分の姓である武末がいったいどこらへんに多いのかをネット検索したことにある。すると、本籍である福岡市のはずれの他は対馬だけだった。うわっ”島”だ、もしかすると「自分は渡来人の末裔か」。行ってみることに何のためらいもなかった。
 で、話は対馬だ。
 弥生時代にかけて稲作の技術が伝わり、船による往来が盛んになる。南は沖縄や中国、北は遠く今のロシア領にまで渡っているのにも驚いたのだが、やはり島の北端から最短距離50kmの朝鮮半島との交流がメインだったはず。実際にその場所に行ってみると、水平線と見紛うように釜山が薄っすらと見える。そういえば、ここからすぐの海で日露戦争での日本海海戦が行われたわけで、なるほど東郷平八郎の「本日天気晴朗なれども波高し」そのままの良い天気。
 備え付けの望遠鏡が無料だったので覗いたら、いきなり釜山港の周辺のエノキ茸みたいな高層マンション群が目に飛び込んでくる。すごい倍率とはいえ、近すぎる。しかし、これなら楽に行き来が出来るかといえば、そうはいかなかったらしい。対馬海峡とも朝鮮海峡と呼ばれるこの公海は狭い分、海流が激しく不規則なので、難破する船も多かったのだ。遭難し、幸運にも救助された対馬と朝鮮半島の人たちは、いずれも双方の地元民により手厚く保護されたという。いわば海に生きる人々が発明した史上初の国際法とでもいうのか、「海民」としてのアティテュードなのだろう。
 対馬は神話誕生の地といわれる。島のアチラコチラにソレゾレの形で残っているのは、村々に伝わってきた「海と山(地)の神」の伝説だ。その一つを訪ねて、絶景とカーブと坂道だらけの島をレンタカーでひた走り、浅茅湾の奥深くにある「和多都美(わたつみ)神社」へ行ってみることにした。
 たどりついてみると、入り江の奥が陸につながりその先が神社になっている。安芸の宮島をずっと小型にしたような形態なのだが、こちらは質素というか天然だ。ちょうど引き潮だったので、少しぬかるむ砂地に降りて海に立つ鳥居のほうへ歩いてみたら、「ここは立ち入りを禁止します」との立て看板を見て、罰当たり者はあわてて引き返した。そう、ここは「聖地」なのであった。
 ぼくは立派な神社に行っても心が動かない。権威に裏打ちされたような美しさにはどうしても馴染めないのだ。でも、ここはリアルでイイ。今はコンクリートの鳥居だが、何十年か前までは、竹を4本立てただけだったらしい。できれば、そのまんまのほうがベターだったのに。
 いつ頃かわからない大昔、渡来人がこの湾にたどり着いた。やがて、この他者は様々な技術や知恵を持った「海彦」として「山彦」である地元民から恐れられつつ、畏敬の念を持たれ…、なんて「日本昔話」めいた逸話が頭をよぎる。それは7世紀頃に大和朝廷が誕生し、中央集権化を図る時の神話として機能してゆく際に、格好のストーリーに変換されに違いない、などと妄想する。だって、ヒストリーとはストーリーなんだもの。
 それにしても、アナゴ、旨かった。たまに食べるとしても、握り寿司の上に乗っかった焼きアナゴくらいだが、新鮮な刺し身は格別だった。あの異形をした魚は対馬によく似合う。
 食べたくなったら、また行くのだゾ。 

 
 
 

犬とサイレン

ひょん | 社会科
DATEJun 5. 20


 ミル(うちの犬)を朝の散歩に連れてゆくようになったのは、朋子が足を骨折してからだ。それまでは、いつも彼女の役割であり、というより、おおいなる楽しみでもあっただろうに、皮肉にも散歩の最中にリードを自分の足に絡ませ、突然疾走したミルのせいで転倒し足首を折ってしまったのだ。即手術となり、入院は2週間に及んだ。その間、散歩の役目は誰あろう、僕しかいなかったのだ。
 父が犬好きだったから、一時はコリー2匹、ポメラニアン1匹を飼っていた。散歩はほぼ僕の役目だった。だから犬は身近な存在だったし、猫より犬派だったのだが、それはそれ。大人になってからは、自分で「犬持ち」になる気はなかった。まあ、朋子さんの、犬に限らず動物大好きな気持ちを汲んでという感じで、ミルで3代目となる「犬ぐるみ生活」を続けてきたわけだ。そんなわけで、僕は久々の散歩デビューを果たさざるを得なくなった。
 ミルはいちおう訓練を受けていたし、朋子の優しく、それなりに厳しい日頃の散歩とはちがう、僕の手抜き散歩もまあ順調に始まった。そうしたら、あっという間にミルと僕はなかなかの仲になった。それまでの、一家のヌシに対するなんとなくな従順ぶりとは違い、気持ちが入った目でジーッと僕の目を見て離さない。これにはまいった。段々と散歩の距離も長くなり、ボール投げにも熱が入ってくる。もちろん日によってはおっくうで仕方なかったりするのだが、一旦外へ出て、ぴったり左に付く彼と長い坂道を登っていると思いのほか気持ちがいいし、運動にもなるので、朋子が退院してからも朝の散歩はつづいている。
 そんなある日というか、今朝のこと。いつもの交差点で信号待ちをしていたら、遠くからサイレンの音が聞こえる。パトカーだ。犬が一番キライなやつだ。やばいなーと思うまもなく、サイレンの音が大きくなるにつれて、案の定ヒーヒー言い出す。パトカーが目の前を通る段になると、ついにウォーウォーのオオカミの遠吠えというか、雄叫びに変わってしまった。一体全体、彼ら一般に通じるこの同調的自己表現は何なんだろうと思わざるを得なかった。
 コロナ禍になってこのかた、以前に比べてパトカーや救急車のサイレンが多くなったのは気のせいなのだろうか。住んでいるところがけっこう町中のせいなのか。田舎ではそれほどではないのか。わからない。ただ、犬でなくとも、この種のエマージェンシー音は、いやなものだ。直感的に不穏なものを感じてしまう。コロナ下での同調圧力に同じように不穏なものを感じるというのは大げさな言い方なのだろうか。なにか自分がビクビクしている気がしてしまう。政治家が「コロナとの戦い」などと言っている。そういえば、これも都会の端に住んでいるせいなのか、日頃からヘリコプターが飛んでいることがある。戦時を思わせるヘリコプターのプロペラ音は独特で、遠くからだんだんこっちへ向かってくるとゾワゾワする。空中からだから、逃げ場もないし遠吠えしても届きそうにない。ヘリコプターとドローンは嫌いだ。

コルビュジェの風穴

info | デザイン・建築 旅 社会科
DATEApr 1. 20

 
 
 <ラ・トゥーレット>は、パリからTGVで2時間、リヨンでレンタカーを借り、西へ1時間ほど走った田園地帯の小高い丘の斜面にあった。ル・コルビュジェが晩年に設計したカソリックの修道院だ。ぼくらは”cell(細胞)”と呼ばれる小さなワンルームで、夫婦別々に2日間滞在した。コルビュジェ建築を体験するために。
 建築家になる前のコルビュジェが画家になることを目指していたことはよく知られているが、同時に詩や文章にもその才能を発揮していた。ということは、ダダイストだったハンス・アルプが詩から造形へ移行したように、コルビュジェも詩がスタートラインだったのではないだろうか。「建築は住むための機械である」という、彼を一躍有名にした言葉は詩人のものであるし、ダダイスト達が放った挑発的なマニフェストに似ている。だからこそ、時代の変革に敏感な一部の人々からは歓迎されたのだが、もちろん旧弊な保守層からは激しい批判を浴びることになる。「画一的で合理的すぎる」として。だが、本当にそうなのだろうか。
 シャルル=エドゥアール・ジャヌレ=グリは1887年スイスに生まれ、ほぼ独学で建築へ接近し、ペンネームであるル・コルビュジェとして、それまでのアカデミックな建築界になかった挑戦的な提案で旋風を起こした。が、その足跡をたどってみると、モダニズム建築の巨匠というよりも、多彩な才能を持ったアーティストの顔が見えてくるようだ。
 1988年に出版された「ユリイカ」のコルビュジェ特集号を引っ張りだしてみると、<直角の詩>という詩があった。読んでみると、なんだか肉声のコルビュジェに出会えた気がする。

<性格”caractères “>
僕は家や宮殿を
建てるひとだ
人間たちのあいだの
こんがらがった
糸桛(*いとかせ)の真っ只中に生きている
建築をつくる それは 生き物を一人つくることだ。
何かでいっぱいであって いっぱいになり いっぱいとなって
破裂して 複雑な事情のさなか 氷さながら冷たく はしゃいで喜ぶ 満足した若い犬になる。
秩序になる。
近代の大聖堂は 魚や馬やアマゾーヌたちのこうして 居並ぶ上に建てられることだろう
恒久性 廉直性 忍耐 
期待 欲望
と用心。
いずれ目にあらわれることだろう 
ぼくにはそう感じられる裸のコンクリートが壮観であること
それに 線と線の結婚を考えることや
形態を検討することが
どんなに偉大なことであったかが。
検討することが・・・・
 ”Poeme De L’Angle Drout 1955年” 與謝野文子・訳
 *つむいだ糸を一定の形に巻き整える道具。


 コルビュジェは、建築とは「生き物」を一人作ることで、それは機械のようなものだ、と言っている。でも「機械」といっても、決して完成型とは限らない。「恒久性 廉直性 忍耐 期待 欲望と用心」を必要とした、常に「検討」を要する新手の「テキスト」であることも承知している。たとえば、モダニズム建築の理論を具現化した傑作として語り継がれる<サヴォア邸>だが、多大な時間と費用を掛け竣工したものの、いざ住んでみると雨漏りが酷くて困ったらしいことをぼくは訪れた際に知ることになった。建物の「恒久性」に欠けたわけだが、失敗をものともしないガッツに触れた気がして、ようやく興味とシンパシーを持ってコルビュジェに向き合うことができるようになった。彼はシャルロット・ペリアンやピエール・ジャンヌレ、そして坂倉準三などにいつもこう言っていた。
 「良くなるならなんでも好きなことをやりなさい。説明しなくていい、ただやりなさい、前進しなさい」。

 

 ラ・トゥーレットはテキストの満載だった。ウナギの寝床のような部屋、クセナキスの不規則な窓、時として狭すぎる回廊の廊下、小さな祈り部屋にはペリアンのアンフォルムなテーブル。しかし、それにも増して圧巻だったのは礼拝堂だ。建物の最下層に位置する荒々しいむき出しのコンクリートの空間は、カソリックの礼拝堂とは思えない超現実的な世界。神聖で美しい。見上げるまでもなく目に飛び込んでくるのは、天井に並ぶ3つの巨大な円形の窓。待てよ、よく見ると、それぞれが違う角度で空へ開いた円筒形の穴だ。それらは、時間によって差し込む太陽の光の強弱によって、おのおのがレッド、ホワイト、ブルーに輝くという寸法なのだ。ところがこの穴、外から見てみると、3つがそれぞれ違う方向に向けた大砲のように見えなくもない。ひょっとすると、「詩」,「絵」,「造形」によって、コルビュジェの目指したユートピアへ向けた風穴だったとしたら…。
 はたして、コルビュジェは画家になれなかった建築家なのか、それとも建築家の振る舞いをした詩人だったのか。彼のテキストは、注意深く、読む者に委ねられている。そう、モダニズムの巨匠は、決してシンプルではない。