社会科

私の罪はなんですか?

ひょん | カルチャー 映画・音楽 社会科
DATEAug 21. 21

 世論の反対を押し切り開催されたオリンピックが終わった。暇だったせいで、たっぷりテレビ中継を見てしまった。「ニッポン悲願の金メダル!」というアナウンサーの絶叫は相変わらずだが、何年も見ていなかったせいか、選手たちの多様な国籍と、彼らのキャラ立ちにびっくりした。The times they are a changing。
 まず、タトゥーが目立った。そして数は多くなかったもののサングラス。マラソンならわかるが走り高跳びの、多分有名な人なんだろうが、まるでロックスターみたいなサングラスがお似合いの褐色の選手だ。1回目のトライはクリアしたしサングラスも付いていたが、2回目は失敗でサングラスも顔から落ちてしまった。めげずにかけ直し3回目に挑戦したがやはり落ちてしまった。でも、彼は悪びれるでもなくサングラスをかけ直し、観衆(と言っても関係者くらいだが)に向けて拍手を促した。ちょっとジェイムズ・ブラウンの”マントかけ直しショー”を思い出した。どこの国の選手かは関係なく、天晴れだった。
 オリンピックで思い起こすのはレニ・リーフェンシュタールだ。彼女はヒトラーのオリンピックと言われた1936年のベルリン大会の記録映画『オリンピア』を監督したドイツ人。そのあまりにも斬新な手法の映像で世界をアッと言わせた。この大会でオリンピックが変わったと言ってもいい。創意工夫を凝らしたアーティスティックな撮影と編集で、スポーツがドラマになったからだ。ついでに言うと、その後1986年のロスアンジェルス大会ではtoo muchな演出が持ち込まれ、商業主義に走った。そして次のソウル大会ではプロ選手のオリンピック参加が始まった。もはやオリンピック憲章の理念はグローバル資本主義に飲み込まれた。
 一方、レニ・リーフェンシュタールは戦後になるとナチスのプロパガンダ映画に協力したとして激しいバッシングを受けることになる。「美しい肉体にファシズムを見る」というような、日本にも起こった戦争画を描いた藤田嗣治のことを思い出させるが、それはそれ。芸術家が国家の戦争協力に加担したかどうかが問われた時代だったわけだ。
 彼女自身は1995年に公開されたドキュメンタリー映画『レニ』の中で、「自分は政治には関心がなっかた」と明言している。ただし「私は自分の国を愛している」とも語っている。この辺はなんとも難しいところだが、ナチス側としては彼女の才能を利用した国策映画を狙っただろうし、レニとしては潤沢な予算で思う存分映画が撮れることに集中したことは想像できる。それにしても、ドキュメンタリー映画の中で語ったレニの言葉が強烈だった。
 「正気じゃなかったのよ」。
 僕がレニ・リーフェンシュタールを意識したのは”The Last of the Nuba”と題された1973年の写真集だったと思う。スーダンのヌバ族を美しいカラーで表現した古本を手にしたのは、音楽ではワールドミュージック、インテリアではサンタフェ・スタイルが話題になっていた1980年代。西欧より遅れた文明と言われた第三世界に”独自の洗練”を気付かされた瞬間だ。この本には、戦争協力の「誹り(そしり)」からようやく立ち直ったレニ・リーフェンシュタールが、ヌバの人々の「美しい肉体」に魅了され、夢中でシャッターを切った瞬間が記録さている。それはベルリンオリンピックの記録映画に充満していた「人間力の肯定」でもあるのだが、何よりも、ヌバという”素材”こそが彼女の美的直感を刺激したからだったのだろう。
 マーシャル・マクルーハンは芸術家を「感覚的認識の専門家」と呼んでいる。それに対してスーザン・ソンタグは述べている「そうした芸術は多数の人間の手の届くものを蔑視するような、エリートに基づいた実験のことを指すものではない」と。なるほど。しかし『オリンピア』は明らかに「多数の人間の手に届いた」はずだ。
 芸術を司る「感覚的認識の専門家」たちには、時に「正気じゃない状態」が必要だ。レニ・リーフェンシュタールは、ドキュメンタリー映画『レニ』の最後にこう述べている。
「私の罪はなんですか?」

P.S.もしも彼女が生きていたなら、もうすぐ始まるパラリンピックの方に「人間力」を感じたかもしれません。

形としてではないBAUHAUS。

ひょん | カルチャー デザイン・建築 社会科
DATEAug 8. 21

 

 今organを営んでいるビルを建てることになったのは、かれこれ38年前。住んでいた平屋建ての家の目の前に突如私鉄の駅が移転してくることになり、区画整理に巻き込まれてしまい、ビルに建て替える羽目になったのだ。東京でのバンド暮らしをやめ、福岡に戻って人生初の大仕事に挑戦することになった。
 とは言っても、デザインやインテリアには興味はあったが、建築にはほとんど関心がなかったし、予算も乏しい。そこで、コンクリート素材むき出しで、余計なものがなく、地味変なものを目指した。その時、バウハウスを思い出した。雑誌で垣間見た丸っこいBAUHAUSというフォントと、ドイツにあった建築&芸術の学校だというところも気になっていたし、何よりも実験的な匂いがした。
 とは言っても、今このビルにバウハウスの影響を見て取る人はいないかもしれない。でも形状はさておき、自分なりの試みは色々やったつもりだ。例えば靴のままの生活をするということ。「日本人=畳」という法律があるじゃなし、誰にも迷惑をかけない自分なりの生活を選択できるチャンスだと思った。おかげというか、後年になって私的な空間だった4階を店にする時も、一切改装する必要がなかった。
 それはさておき、最近またぞろBAUHAUSのおさらいをして気がついたことがある。それは建築やデザイン、写真、工芸など様々な分野でモダニズムを模索、実行した多くのパイオニアにばかり目が眩んでいたことだ。それは、例えばヴァルター・グロピウス、ヨハネス・イッテン、ワシリー・カンディンスキー、パウル・クレー、ヨゼフ・アルバース、モホリ=ナジ・ラースロー、マルセル・ブロイヤー、ヘルベルト・バイヤー、マリアンネ・ブラント、ミース・ファン・デル・ローエと、枚挙にいとまがない。BAUHAUSがモダニズムの先駆けと言われる所以である。
 しかし、ポイントはそんなサクセスストーリーではないことをK氏の本を読み返して思った。「BAUHAUSが成し遂げたことはその構造自体にある。教官、生徒、職人という身分差を超えたコミューンの中で行われた試みこそが革新的だった」というわけだ。確かにそうかもしれない。
 例えば、上に挙げたスター達の中で、ヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエは校長であり、マイスター(教官)だったのはヨハネス・イッテン、ワシリー・カンディンスキー、パウル・クレー、ヨゼフ・アルバース、モホリ=ナジ・ラースローなどで、彼らは作家であり、また職人的な立場をも兼ねていただろう。そしてヘルベルト・バイヤー、マリアンネ・ブラント、マルセル・ブロイヤー、ヴィルヘルム・ヴァーゲンフェルドは学生だったが、在学中からその才能を開花、プロダクトを生み出し、後にマイスターとなっている。また、カール・オーボック2世は、金属職人でありつつBAUHAUSで学び、独自のモダンな作品を生み出している。言って見れば「変化へのチャレンジ」を互いにシェアするというまるで今的なアイデアだったのだ。
 BAUHAUSには、集まった人々の出自や個性が強く反映している。ドイツ、ロシア、スイス、オランダ、ハンガリー、アメリカ、日本などに加え、ユダヤ人という他者のメンタリティが同居していた。それは「国民国家」という幻想のナショナリズムにとらわれないアナーキーな運動の実験場だったのではないか。
 そんな自由で開かれた芸術学校がヴァイマールに設立されたのは決して偶然ではなかった。
 未曾有の第一次世界大戦で敗戦目前だったドイツ(実際は諸侯が乱立する連合国家)は1918年、兵士の反乱で帝政が崩壊し、翌1919年にはヴァイマールの議会で、男女平等の普通選挙や労働者の権利などを定めた、当時最も先進的な憲法を制定している(この憲法、第2時大戦後の日本国憲法にも影響を与えている)。同じ年に設立されたBAUHAUSにもヴァイマールの憲法理念が反映されていただろう(もちろん、戦後の復興のためにBAUHAUSを「産学協同」の大学にという目的もあったのだが)。
 例えば、開校時の学生募集に対し、予想を超える女性の入学があり、グロピウス校長もあわてたらしい。そんな中で、マリアンネ・ブラントは、当初、女性には認められなかった金工工房に入り、なんと責任者となって、ランプ、灰皿、ティーポットといった現代のインダストリアルデザインの先駆けとなる作品を生み出した。それどころか、フォトモンタージュなど写真においても革新的な表現を試みている。職人とともにアカデミックな国立の学校で女性が学ぶということ自体が異例だった時代である。まるで、アイリーン・グレイやシャルロット・ペリアンの先駆け、女性の社会進出だ。しかし革命にも変化は付きまとう。同志と呼ぶにはあまりにもキャラが強い同士だし、「産学協同」に反対する学生達の左翼的活動も激しさを増す中、1933年にはナチス政権からの抑圧もあって、BAUHAUSは14年間の歴史の幕を自ら降ろすことになる。
 その後のBAUHAUSに関わった人々だが、主だったメンバーはアメリカに渡り、ある人は著名な大学に招かれBAUHAUSの教育理念を広め、またある人は建築家やデザイナーとして活躍する。そして彼らが撒いた種が、戦後アメリカの好景気の中で花開き、やがてミッドセンチュリー・モダンというムーヴメントとして1990年代の日本のメディアを通して僕らに伝わったわけだ。
 そこで気がついたことがある。organをスタートして現在まで、扱っている様々な商品にはBAUHAUSのスピリットが受け継がれたものが多いことだ。いやいや、多いのではなく全てがそうなのかもしれない。でもそれは、必ずしも見える形としてではない。

「先行したもの」を発見する、その 2 。

info | カルチャー 社会科
DATEMay 28. 21

 ワクチンの先行予約は済ませたものの、接種がいつになるのか未だに先が見えない。『博多祝い唄』じゃないが、”しょんがねえ”気分が毎日続くのはまったくやりきれない。マスクを付けて外へ出るのも億劫だし、こうなりゃ、読んだ本をまた読むのにいいタイミングかも知れない。巣ごもりなんだもの。
 読み直すのは以前気に入った本なのだが、どうな風に気に入っていたかが判然としない。大筋は気に入っていたのだが、なにか大事なことを忘れていて、その何かが今の自分には欠けている気がするのだ。その場合、パラパラとページをめくり、自分が引いた線が目安になる。それも適度に多い方が引きが強い。ほー、そんなに引いてたのか、なになに…、ってな感じ。
 今回は田中優子の『近世アジア漂流』。以前読んだのは5、6年前だから、”おさらい”するインターバルも悪くない。ずっと古い本より、近過去の方が自分には効き目があるからだ。
 最初に読んだ時には「近世」というのがいつの時代を指すのかがよくわからないまま読んでみたのだが、今回はそこから掘ってみた。「古代・中世・近代」で良さそうなものなのになぜなのか、WIKIに尋ねてみた。すると、どうやらルネッサンス以降に考え出された時代区分らしく、西洋では15~16世紀、日本では17世紀あたりに始まり、どちらも19世紀には近代へ移行したとされているようだ。中世とは封建的な時代であり、「民主的な近代が訪れる前段階」といった過渡期的な時代設定なのだろう。
 そんな近世における日本は鎖国状態だったはず。しかし実は中国・朝鮮・タイ・ヴェトナム・インドネシアなど、ほぼアジア各地域との繋がりが盛んだったというのがこの本のキモ。それも、色んなカルチャーの視点からだから面白い。しかも、そこにヨーロッパ人も加わって、アジア人と入り乱れた仲介貿易が行われていたわけだから、さらに面白い。たとえば海賊と思われている「倭寇」も、日本人は2割程度で、中国人、ポルトガル人や東南アジア人との混成貿易商人だったと知り、「へーえ」となる。当時の日本は約90もの国々からなる島国であり、後の近代国民国家ではない。例えば、ボクの国は「筑前」でしかなかった。つまり、海には国境や排他的経済水域などなしの貿易だ、スリルとサスペンス満載だったはず。そんな荒くれどもに審美眼があったかどうか知らないが、おかげで様々なお宝が遠くジャポネに流れ込んだというわけだ。
 18世紀後半の江戸は,どうやら最新の消費生活を求める世界有数のメガシティだったようだ。「洒落本」や「黄表紙」と呼ばれる出版物は早くもメディアの役割を果たし、人々は「ブランド物」に血道を上げていたという。中国や南蛮渡来の輸入品と、国内生産の高価でレアものが、読み物や浮世絵などのビジュアル紙を通して、数寄者たちの欲望を喚起した時代だったのだ。そんな中、TSUTAYAの創始蔦屋重三郎などが、海外の図版にある蚤の絵を”疫病の親玉”としておどろおどろしく誇張してしまった黄表紙などは、当時の幕府の無策ぶりへの不満のはけ口としてのメディアの役割も担っていたわけだ。
 お洒落物としては、たとえば写真にあるたばこ入れのキセルを包んだ革。イギリス東インド会社が長崎商人を通して日本へ売り込み、馬具や屏風、そしてこのような小物に応用してプレミアムな舶来品として商品化したもの。また、江戸の粋の象徴である縦縞のタバコ入れはインドやインドネシアからやってきた更紗の影響だし、下は日光東照宮に取り付けられた当時オランダで流行していたイルカの飾り。近世の日本は、僕らの想像を超えた世界市場と直結した国内市場の時代だったとは驚き桃の木、エルメスの木なのだ。
 となると、「日本=島国」というクリシェがネガティヴにしか使われなかったのには、大いなる疑問を持たざるを得ない。 島国であることは、ヨーロッパ大陸のような否応無しの地続、地縁の絶え間ない戦いとは無縁であり得た幸運でもある。何より、海という交易空間を使って、先祖たちはアジア地域を縦横無尽に交通していたことを忘れるわけにはいかない。江戸時代とは、近代の訪れを待たずに、独自のポストモダニズムを、それも無意識のうちになし得た世界的にも摩訶不思議な時代だったのかもしれない。
(写真は田中優子著『近世アジア漂流』朝日出版社1990年より)
 

「先行したもの」を発見する。

ひょん | デザイン・建築 社会科
DATEApr 20. 21


 コロナの渦中といっても、じっとしていては身体と頭に良くない。旅はしたいのだけれど、こんな時期に外国へ行くには制限が多すぎる。なんとか近場で面白い所はないものかと思案するうちに、福岡の周辺にはたくさんの遺跡があることに思い当たった。
 旅にはふたつのオプションがあることに気がついたのは歳のせいか、コロナのおかげ禍。たとえば7592kmの距離をジェット機で10時間かけてヘルシンキまで移動して、異国の風情に出会うという旅。もうひとつは、福岡の周辺を徘徊し、大昔の気配を自分なりに感じる旅。これはタイムマシーンなしで時間を遡る旅ともいえる。そこで出会うもの、とりわけ暮らしにまつわる道具、装身具、祭器など、いろいろな「用具」が持つ形態とその普遍性や一過性のようなものに驚くことができないものか。なにも体力と時間をかけて高度1万メートルを飛ばなくとも、「安・近・短」でいくしかない。
 そこで、お隣の春日市にある「奴国の丘歴史公園」へ行ってみることにした。後漢から贈られたというあの「金印」に記された弥生時代後期の国「奴国」が、なんと、ここ春日市周辺だという説がある。そこには大規模な集落共同体跡があり、その規模は吉野ヶ里遺跡を上回るといわれるが、まだ一部しか発掘調査が行われていない。都市の周辺部とはいえ、立ち並ぶ住宅の下に眠る遺跡の発掘はおいそれとは進まないだろう。にもかかわらず、資料館には石器や土器、祭器など色んなものが収蔵されていた。
 僕の場合、資料館で目にとまるのは、やはり「焼き物」になってしまう。陳列ケースを遠望しただけで、無意識にそこを目指して足が勝手に動き出し、ガラスに顔をくっつけ、なんとかその有り様を間近に見たいと目を凝らす。これじゃあ、まるで海外のフリーマーケットでの買い付けと同じだ。買えないんだけど、いや買えないからこそ目力(メヂカラ)が増す。資料館にあったのは、釉薬こそ施されていないけれど、とても美しい。その美しさとは、現代の日本やアジアをはじめ、フィンランド、スウェーデンやイギリス、いや世界中の陶芸作家たちが追求する「モダンな形状」に連なっていはしまいか?
 この国で、初めて「土器」が使われた始めたのはおよそ1万年前の縄文時代と言われる。そして2400年前の弥生時代になると、稲作のために定住が始まり、移動生活では必要なかった生活に寄り添うさまざまな「焼き物」が作られることになる。その後、気が遠くなるほどの時間がたったはずなのに、基本的なフォルムは変わっていない。一体なぜなんだろう。
 今では実際には見ることはできないし、すべてが「進化」や「発展」という神話で覆い尽くされ、忘れ去られ、存在しないはずなのに、無意識のうちに継承され、現在にも影響を与えているものがある。それがたとえば「焼き物」だったりする。そんな「先行したもの」を自分なりに発見することは、刺激的だ。”過去は「あった」ものではなく、「いる」ものかもしれない”というのは、誰の言葉だっただろう。たしか、柄谷行人の『憲法の無意識』という本の中で引用されたものだったか。そういえば、聞いたところでは、オードリー・タンは柄谷氏の愛読者らしい。若きデジタル担当大臣の頭のなかには、どんな先行するイメージがあるのだろう。台湾へ行きたくなった。 

フラジャイルな時代ながら、

ひょん | ひと デザイン・建築 社会科
DATEFeb 25. 21

When I was flipping through the pages of a foreign magazine on the theme of St. Petersburg on the table at Junji Tanaka’s underground interior exhibition, an Anne Wiazemsky look-alike appeared. Speaking of which , Anne was of Russian descent, and above all, she was a revolutionary unstable beauty.

田中純二のアンダーグラウンド・ディスプレイ展におじゃまして、テーブルに置いてあったセント・ペテルスブルグをテーマした洋雑誌のページをめくっていたら、アンヌ・ヴィアゼムスキーの「そっくりさん」が現れた。そういえばたしかアンヌ自身もロシア系だったし、何よりも革命的に不安定な美女だったことを思い出した。

考えてみれば、会場自体が妙だった。西新の雑踏から幾分オフな長屋みたいなところにあるNIYOLというコーヒーショップの地下のガレージを使ったインスタレーションは、田中さん得意の「やらかした感」が充満している。部屋のかべ全体を荒仕上げした杉材で覆い、そこには手作りの収納型のミラーや棚がしつらえられ、天井からは筒型の照明が思いっきり下がり、床には切り株のテーブルとイームズ・ワイヤーチェア・ラウンジ仕様という塩梅だ。これじゃ、まるでアンダーグラウンドな革命家の山小屋ハイダウェイ、いやシェルターのようじゃないか。

アンヌ・ヴィアゼムスキーを知ったのは小柳帝さんの耳打ちだった。
随分前にジャン・リュック・ゴダールの話をしているときだったか、「武末さんは、もちろんアンヌ・ヴィアゼムスキーはご存知ですよね」と丁寧な言葉で質問されたのだが、あいにく知らなかった。
アンヌは、商業映画に決別し、毛沢東のプロレタリア文化大革命に傾倒した一連の映画作りをするようになったゴダールのミューズだったのだ。それらはどれも1960年から70年代にかけてのなんともイデオロギー臭い映画で、たしか観たことはあるものの、途中で眠るか中座していたくちで、アンヌの存在はなんとなくキュートな娘がいたなあ、という程度の認識だった。ところが帝さんは、「というか、アンヌが素晴らしかったのはゴダールの映画じゃなく、ロベール・ブレッソンが撮った『バルタザールどこへ行く』なんです」と言った。当然ぼくはこのレアな映画のDVDを後日入手、そしてようやくアンヌのフラジャイルな魅力にめざめたというわけだ。

田中さんは、いっしょにENOUGHという”暮らし方プロジェクト”めいたことを始めた4人の仲間のひとりで、酔っ払うと「自由でいいんじゃないですか」と繰り返すブルータルな工務店経営者であり、カーニバル好きなデザイナーである。だから、羽目を外しすぎて顰蹙を買うこともあるが、革命好きなのは間違いない。
アンダーグラウンド・ディスプレイ展を訪れた夜は、ちょっとした内輪による集いが予定されていた。といってもウイルス禍でもあり、特に告知とかはしなかったのだが、三々五々、顔なじみやご無沙汰の友人が現れた。みんな、それぞれの道を、なにを置いても自分らしく歩きたい人たちだし、暮らし方革命を目指す同志だとしてもおかしくない連中ばかり。フラジャイルな時代ながら、元気そうな顔に会えて、ホッとした。
田中純二 WEB homeaid interior

恋する男たちのボサノバ

ひょん | カルチャー 社会科
DATEFeb 8. 21

 
 小松政夫さんが亡くなったと知って、あの博多人らしい芸風を懐かしく思った。
 彼のペーソスあふれるギャグは「宴会芸」に通じているから面白い。宴会という同僚+取引き相手の集まりでの余興は、なかなかなむずかしい。図々しさと小心さをまいまぜにしつつ、あくまで「玄人はだし」の「かくし芸」を披露しなければならない。堂々としすぎてはいけない。そこには素人らしい「恥ずかしそうに」で「やけっぱち」のパトスが大事だ。
 ペーソスと聞くと「哀愁あふれる」という感じだが、同じ語源であるパトスとなると、それに「激情」という要素が含まれる。森繁久彌の社長シリーズにおける三木のり平の宴会芸はそのお手本。万年課長ののり平は、なにかというと「今夜は赤坂あたりでパッと行きましょう」と宴会へと話をそらして顰蹙を買うが、じつのところ状況を批評している観察者でもあるのだ。
 そういえば、古くからの友人で、山笠の「段上がり」もこなすノブ君は生粋の博多人で、顔ものり平さん寄りで、なにより博多弁による話が自虐的で面白すぎる。とは言っても生粋の素人なので、小松の親分さんには及ばないのはあたり前田のクラッカー。
 もうひとり、「宴会芸」から生まれたタレントがタモリだろう。ただし、彼は博多ではなく福岡のひと。だから土着性は希薄で、クールだ。はじめてタモリを見たのは1976年に当時の東京12チャンネルで放映されていた『空飛ぶモンティ・パイソン』というTV番組での「四カ国語麻雀」だった。
 なんなんだ、この怪しげな髪べったりでレイバンのサングラス男は。中国人、アメリカ人、フランス人、それにロシア人のハナモゲラ語には、笑いと一緒に危うさが同居していた。他者の言語と感情をアナーキーに演じながら、自分たち日本人の勝手な思い込みを相対化しているようで痛快だった。
 このTV番組の看板はモンティ・パイソンだった。そのシニカルな英国の笑いに、まだ無名だった森田一義のコーナーをぶつけたプロデューサーは偉かった。そして進行役はダンディで物柔らかな口調の今野雄二。海外のやばいカルチャーを、さらっと自分のスタイルで紹介した稀有なディレッタントだった。
 蛇足だけど、森田一義は僕が通っていた高校の4年先輩で、いわばニアミス。葡萄畑というバンドにいたときには、タモリが所属していた田辺エージェンシーというプロダクションから内密に移籍を誘われたのだが、事務所にばれて実現せずじまい。しかし、今野さんの『おもしろ倶楽部』というTV番組には時々出演させてもらったりもしたもんだ。1970年代は、ひょんな時代だったのか。
(写真はイメージです)

The BandとBurt Bucharach

ひょん | カルチャー 社会科
DATEJan 10. 21

 タワーレコード時代の友人Sさんから、この前のクリスマスに二枚のCDが送られてきた。一枚はThe Bandのトリビュート盤”The Endless Highway”で、随分前にアメリカで発売されたものらしいのだが、まったく知らなかった。参加しているのは、ほぼ今のアメリカのミュージシャンで、ほとんどが聞いたことがない名前だ。もう一枚はBurt Bucharachの”Blue Umbrella”。「バカラック92歳の新作、絶品です」というSさんのメッセージが添えられていた。
 タワーレコードが日本で輸入盤の卸しとフランチャイズを初めて展開したのは1970年代の終わりころだったか。たしか大阪と金沢、そしてぼくが勤めていた福岡のレコードショップがフランチャイズになったのだが、そのときの担当がSさんだった。東京人らしく一見クールで時々お茶目、アメリカ音楽が好きなひとだったから、商売抜きで仲が良くなった。1、2年経ったころ、Sさんから「渋谷に初の直営店を出すんだけど、売れるかな?」という電話があった。ぼくは「何を仰るウサギさん」と答えた。やがてオープンした店は連日の超満員。でもSさんは、何が気に入らなかったのか、スッタフを総入れ替えしたらしい。やはりアメリカ的なひとだったのかな。

 どっちから聴こうかと一瞬迷ったが、今までトリビュートで面白かったものに出会ったことがなかったしと、バカラックにした。すると、1曲めのイントロからあのバカラック節が流れてきた。そしてすぐに極上のセンチメンタルなメロディーが、抑制気味の男性ヴォーカルに乗って耳からハートに染み込んできたからもうたまらない。時間を超えて、すべてのことを慰撫するような音楽、健在すぎるよ、Mr.ソングライター。
 バカラックがジューイッシュの家庭に生まれたことが、かれの音楽に与えた影響が何だったのか、僕には知る由もない。でも、感じることはできる。「エグザイル」として「国」という寄る辺がない「孤独」。その対価としての「自由」。アメリカで、このふたつを両立させるのは簡単なことでない。それをアウフヘーベンしたのがバカラックの音楽だったのではないだろうか、なんて。
 さて、ザ・バンドだ。あまり期待もせずに聴き終えたら、打ちのめされてしまっていた。The Rochesが歌う”Arcadian Driftwood”や、Jack Johnsonの”I shall be released”など、ベテラン勢も良かったが、なにしろ若手(かどうかしらないけど)にやられた。いづれも原曲を損なわないアレンジ(なかにはグランジやファンキーっぽいバンドもあり、それも良)と演奏、そして歌詞が際立つ素直な歌い方がとても好ましく、オリジナルでは聞き取りにくかった歌詞が立っていて、今の時代にも有効なフレーズが警句のように響く。

 1960年代の終わりに出会った”The Weight”という曲は、のっけのギターの印象的フレーズからして、45回転のレコードをあえて33回転でかけたような独特なテンポを持つ、ゾクッとする未知の音だった。そこにはヒッピーの若さはなく、「悟り得ない老人」のような違和感が充満していた。言ってみれば、「進歩」や「新しさ」への疑いであり、カウンターカルチャーに対する批評だった。この曲でリフレインされる言葉がある。
 Take a load for free「重荷を下ろして自由になれよ」
 
 そんなザ・バンドの音楽性は、しばらく前から「アメリカーナ」と呼ばれるようになった。たしかに、彼らはさまざまなアメリカのルーツ・ミュージックという「古い」ものを、彼らなりに回復しようとした稀有なロック・バンドだったと思う。「アメリカーナ」とは言ったものの、5人のメンバーのなかで、アメリカ人はドラムスとヴォーカルのレヴォン・ヘルムだけ。残りの4人はカナダ人で、しかも、多くの曲を手掛けたギタリスト、ロビー・ロバートソンはジューイッシュとネイティヴ・アメリカンという他者性が際立つ両親のもとに生まれている。まさにザ・バンドの面々は、アメリカとカナダにまたがるマルチ・カルチャーの落し子だ。そんな彼らにとって、移民たちのルーツ・ミュージックは彼らにとって決して「古い」ものではなかったはずだ。
 ザ・バンドとバート・バカラック。とっつきにくいオジサン・バンドと稀代のメロディメーカー。スタイルこそ違え、どちらも「アメリカーナ」を体現していることを思った。

 ところで、トランプ大統領は先日、ようやく敗北宣言をした。メキシコとの国境に壁を作ろうとした御仁は去る。これで世界の「重荷」は、一瞬だけ軽くなったのかな。

のっぴきならない偶然の美しさ。

ひょん | カルチャー デザイン・建築 旅 社会科
DATEDec 14. 20

 しばらく前、小浜と長崎に行ってみた。長崎県立美術館でやっている菊畑茂久馬展と、城谷耕生の作品展を一挙に観るのが目的といえばそうだが、小浜のちゃんぽんを食べ、温泉に浸かるのも忘れるわけにはいかない。でも、それだけではコロナ禍の遠出に気乗りしない運転手トモにはなにかが足りない。一計を案じ、雲仙岳に登って「樹氷」を見ないかと誘惑したら、あっさり了解してくれた。好奇心旺盛な女房はありがたい。
 小浜のちゃんぽんは薄味だが、魚介類の旨味がたっぷりだった。城谷耕生が手がけた「刈水庵」は海岸から続く細い路地を登ったところにあった。自身がデザインしたガラス器や奥さんの陶器などを展示販売する棟と、2階から海が見える喫茶室の棟が”くの字型”に並んでいて、まるで廃屋寸前の趣きがあって、とても好ましかった。
 小浜に一泊した朝、ホテルでテレビをつけると、昨夜初めて樹氷が確認されたらしい。いそぎ、妙見岳の頂上付近目指して車を走らせた。しかし木樹には氷の姿はなかった。すると、テレビ局の人らしい二人連れが僕らに近づき「今朝早くにはまだ所々あったですが…」と気のどくそうに言った。トモがなにか質問され、小枝にかろうじて残った氷を見せている。彼女はついに樹氷を発見したのだった。
 ぼくが「樹氷」を始めて見たのは武雄に住んでいた頃だから小学校2,3年生だったか。まだ自家用車を持っていない父が、どこかから借りてきただろう車に乗って家族3人で雲仙を目指した。ぼくも「樹氷」を見るということに興味を持ったのかもしれない。
 むかしの雲仙は遠かった。朝、家を出て、いったん有明海に抜け、海沿いの道を延々ガタゴト走り、お昼になったころようやく諫早に着く。昼飯は父の提案で「うな丼」だった。とんでもなく美味しかった。こんなに旨いものがあるなら、この先が期待できると思った。しかし、そのあとも遠かった。舗装されていない寒々とした道をひたすら走る車の中で、カーラジオから流れるザ・ピーナッツの『情熱の花』の日本人ばなれしたハーモニーのおかげでなんとか間が持てた。ようやく辿り着いた仁田峠のロープーウェイから見る一面の樹氷は豪華なアイスキャンディーのようで、たしかに見慣れない光景だった。
 長崎県立美術館では、菊畑茂久馬の作品を見ることができた。”九州派”というレッテルなしに絵に向きあってみると、彼はじつに真剣なひとであることが想像できる。『絵かきが語る近代美術』という彼の本を読んだばかりだったので、なおさらそう思った。ポルトガル人宣教師が持ち込んだ宗教画は”油画”と呼ばれ、江戸時代に長崎で独自の発展を遂げる。そのあと明治維新後”西洋画”となり、日進、日露戦争、そして太平洋戦期の”戦争画”へと変容してゆく様子が語られるこの本は、美術が日本の近代化に果たした功罪を教えてくれる。そして夏目漱石の「芸術は自己に表現に始まって自己の表現に終わるのである」という言葉を引用し、権力、権威へのソンタクをいましめている。菊畑茂久馬は、やはりバリバリの九州派だったのである。
 もう一つの展示では、城谷耕生がデザインしたプロダクトを通して、彼の仕事が俯瞰できるものだった。小浜に生まれ、イタリアでデザイナーとしてのキャリアをスタート、エンツォ・マリや色々な人と企業を繋ぎながら、「地域」に根ざす仕事を続けている。なにしろ形がいい。特にガラス作品。バウハウスやカイ・フランクにも通じる、機能と美しさが静かに呼応したアノニマスな様子は、見ても使っても、とても気持ちがいい。いつかお会いしていろいろ話を伺ってみたい人です。
 旅のポイントに「樹氷」を提案した時、朋子からカウンター提案があった。長崎の原爆資料館だ。広島は訪れたことがあるのだが、長崎はまだだったこともあり行くことにした。ただし、旅の最後にした。
 入場券売り場に行くと、入場前の中学生らしき団体さんが列をなしている。ぼくらは一般チケットを買い一足先に入ったものの、途中ですぐに追いつかれてしまい、結局彼らと一緒に見学することになった。
 高度9600mのB29からパラシュートで投下されたプルトニウム爆弾が地上500mで炸裂し、わずか数秒で広がってゆく様子がジオラマ上で再現されるシュミレーション映像に、一瞬にして心が凍った。爆弾のニックネームは”ファットマン”、笑えないジョークだ。実物大に再現された黄色いソレは、なんだかアッケラカンと滑稽な形をしている。史上最も醜悪なデザインだ。
 それにしても、惨禍を物語る展示物には、どれも所有者のオウラを感じることを要請されるようで、見つめ続けることが難しい。そんななかで、サイダーの瓶だろうか、ぐんなりとへしゃげたガラスの塊におもわず目を奪われた。そう言って良ければ、それは「オブジェ」だった。「もの」の存在と「ひと」の実存はちがうものだろう。しかし、意味や目的、そして機能を奪われたはずのオブジェが発する「のっぴきならない偶然の美しさ」から生まれるオウラも実存なのではないかと疑った。

・このブログを投稿した夜、友人のデザイナーから城谷耕生氏の訃報を聞きました。これからの氏の活躍を楽しみしていただけに、とても残念です。ご冥福をお祈りしします。

ヒストリーとはストーリーなんだもの。

ひょん | 旅 社会科
DATEOct 19. 20

 

 久しぶりの旅は、パスポートがいらない国境の島「対馬」だった。一度は訪れてみたい場所だったのだが、行ってみると、勝手な想像と思い入れを軽く越えた、気の遠くなるような長い歴史を垣間見ることになった。
 対馬は、面積の95%は500mくらいの山々で、わずか5%の土地が散在するばかり。人々の暮らしは海を頼りにせざるを得なかった。そのためにはリアス式海岸の複雑な地形が役に立った。なかでも、外海から奥深く入り組んだ複雑な地形を持った浅茅湾(あそうわん)周辺では、縄文期からの暮らしの遺跡に事欠かないのだが、なにより驚くのは、そんな昔から人々は海を渡って交易をしていたことだ。いやそれどころか、何万年前だかには、大陸と地続きだったらしいのだ。
 峰(みね)というところにある、小さな民俗資料館には石器などが大量に保管展示されていて、中に魚や食物を切るための鋭利な黒曜石があった。それらは対馬にはないもので、九州の伊万里あたりから運ばれたとある。わが故郷の近くじゃないか。いきなり対馬が身近に感じられる。日本史の時間はたいくつで、世界史好きだった僕にとっては、ちょっとした発見だった。
 「最新の発見とは、最古の発見である」という説は、なにも考古学に限ったことではない。やれAIだ、次は5Gだといわれても、ああ、また新手のデジタル商品か、面倒くさいなあと思ってしまうのは、歳のせいだ。残された時間を使い、自分が存在していなかった時代のあれこれを上書きするのは、新たな発見なのだ。
 実のところ、対馬に興味を持った理由の一つは、自分の姓である武末がいったいどこらへんに多いのかをネット検索したことにある。すると、本籍である福岡市のはずれの他は対馬だけだった。うわっ”島”だ、もしかすると「自分は渡来人の末裔か」。行ってみることに何のためらいもなかった。
 で、話は対馬だ。
 弥生時代にかけて稲作の技術が伝わり、船による往来が盛んになる。南は沖縄や中国、北は遠く今のロシア領にまで渡っているのにも驚いたのだが、やはり島の北端から最短距離50kmの朝鮮半島との交流がメインだったはず。実際にその場所に行ってみると、水平線と見紛うように釜山が薄っすらと見える。そういえば、ここからすぐの海で日露戦争での日本海海戦が行われたわけで、なるほど東郷平八郎の「本日天気晴朗なれども波高し」そのままの良い天気。
 備え付けの望遠鏡が無料だったので覗いたら、いきなり釜山港の周辺のエノキ茸みたいな高層マンション群が目に飛び込んでくる。すごい倍率とはいえ、近すぎる。しかし、これなら楽に行き来が出来るかといえば、そうはいかなかったらしい。対馬海峡とも朝鮮海峡と呼ばれるこの公海は狭い分、海流が激しく不規則なので、難破する船も多かったのだ。遭難し、幸運にも救助された対馬と朝鮮半島の人たちは、いずれも双方の地元民により手厚く保護されたという。いわば海に生きる人々が発明した史上初の国際法とでもいうのか、「海民」としてのアティテュードなのだろう。
 対馬は神話誕生の地といわれる。島のアチラコチラにソレゾレの形で残っているのは、村々に伝わってきた「海と山(地)の神」の伝説だ。その一つを訪ねて、絶景とカーブと坂道だらけの島をレンタカーでひた走り、浅茅湾の奥深くにある「和多都美(わたつみ)神社」へ行ってみることにした。
 たどりついてみると、入り江の奥が陸につながりその先が神社になっている。安芸の宮島をずっと小型にしたような形態なのだが、こちらは質素というか天然だ。ちょうど引き潮だったので、少しぬかるむ砂地に降りて海に立つ鳥居のほうへ歩いてみたら、「ここは立ち入りを禁止します」との立て看板を見て、罰当たり者はあわてて引き返した。そう、ここは「聖地」なのであった。
 ぼくは立派な神社に行っても心が動かない。権威に裏打ちされたような美しさにはどうしても馴染めないのだ。でも、ここはリアルでイイ。今はコンクリートの鳥居だが、何十年か前までは、竹を4本立てただけだったらしい。できれば、そのまんまのほうがベターだったのに。
 いつ頃かわからない大昔、渡来人がこの湾にたどり着いた。やがて、この他者は様々な技術や知恵を持った「海彦」として「山彦」である地元民から恐れられつつ、畏敬の念を持たれ…、なんて「日本昔話」めいた逸話が頭をよぎる。それは7世紀頃に大和朝廷が誕生し、中央集権化を図る時の神話として機能してゆく際に、格好のストーリーに変換されに違いない、などと妄想する。だって、ヒストリーとはストーリーなんだもの。
 それにしても、アナゴ、旨かった。たまに食べるとしても、握り寿司の上に乗っかった焼きアナゴくらいだが、新鮮な刺し身は格別だった。あの異形をした魚は対馬によく似合う。
 食べたくなったら、また行くのだゾ。 

 
 
 

犬とサイレン

ひょん | 社会科
DATEJun 5. 20


 ミル(うちの犬)を朝の散歩に連れてゆくようになったのは、朋子が足を骨折してからだ。それまでは、いつも彼女の役割であり、というより、おおいなる楽しみでもあっただろうに、皮肉にも散歩の最中にリードを自分の足に絡ませ、突然疾走したミルのせいで転倒し足首を折ってしまったのだ。即手術となり、入院は2週間に及んだ。その間、散歩の役目は誰あろう、僕しかいなかったのだ。
 父が犬好きだったから、一時はコリー2匹、ポメラニアン1匹を飼っていた。散歩はほぼ僕の役目だった。だから犬は身近な存在だったし、猫より犬派だったのだが、それはそれ。大人になってからは、自分で「犬持ち」になる気はなかった。まあ、朋子さんの、犬に限らず動物大好きな気持ちを汲んでという感じで、ミルで3代目となる「犬ぐるみ生活」を続けてきたわけだ。そんなわけで、僕は久々の散歩デビューを果たさざるを得なくなった。
 ミルはいちおう訓練を受けていたし、朋子の優しく、それなりに厳しい日頃の散歩とはちがう、僕の手抜き散歩もまあ順調に始まった。そうしたら、あっという間にミルと僕はなかなかの仲になった。それまでの、一家のヌシに対するなんとなくな従順ぶりとは違い、気持ちが入った目でジーッと僕の目を見て離さない。これにはまいった。段々と散歩の距離も長くなり、ボール投げにも熱が入ってくる。もちろん日によってはおっくうで仕方なかったりするのだが、一旦外へ出て、ぴったり左に付く彼と長い坂道を登っていると思いのほか気持ちがいいし、運動にもなるので、朋子が退院してからも朝の散歩はつづいている。
 そんなある日というか、今朝のこと。いつもの交差点で信号待ちをしていたら、遠くからサイレンの音が聞こえる。パトカーだ。犬が一番キライなやつだ。やばいなーと思うまもなく、サイレンの音が大きくなるにつれて、案の定ヒーヒー言い出す。パトカーが目の前を通る段になると、ついにウォーウォーのオオカミの遠吠えというか、雄叫びに変わってしまった。一体全体、彼ら一般に通じるこの同調的自己表現は何なんだろうと思わざるを得なかった。
 コロナ禍になってこのかた、以前に比べてパトカーや救急車のサイレンが多くなったのは気のせいなのだろうか。住んでいるところがけっこう町中のせいなのか。田舎ではそれほどではないのか。わからない。ただ、犬でなくとも、この種のエマージェンシー音は、いやなものだ。直感的に不穏なものを感じてしまう。コロナ下での同調圧力に同じように不穏なものを感じるというのは大げさな言い方なのだろうか。なにか自分がビクビクしている気がしてしまう。政治家が「コロナとの戦い」などと言っている。そういえば、これも都会の端に住んでいるせいなのか、日頃からヘリコプターが飛んでいることがある。戦時を思わせるヘリコプターのプロペラ音は独特で、遠くからだんだんこっちへ向かってくるとゾワゾワする。空中からだから、逃げ場もないし遠吠えしても届きそうにない。ヘリコプターとドローンは嫌いだ。

コルビュジェの風穴

ひょん | デザイン・建築 旅 社会科
DATEApr 1. 20

 
 
 <ラ・トゥーレット>は、パリからTGVで2時間、リヨンでレンタカーを借り、西へ1時間ほど走った田園地帯の小高い丘の斜面にあった。ル・コルビュジェが晩年に設計したカソリックの修道院だ。ぼくらは”cell(細胞)”と呼ばれる小さなワンルームで、夫婦別々に2日間滞在した。コルビュジェ建築を体験するために。
 建築家になる前のコルビュジェが画家になることを目指していたことはよく知られているが、同時に詩や文章にもその才能を発揮していた。ということは、ダダイストだったハンス・アルプが詩から造形へ移行したように、コルビュジェも詩がスタートラインだったのではないだろうか。「建築は住むための機械である」という、彼を一躍有名にした言葉は詩人のものであるし、ダダイスト達が放った挑発的なマニフェストに似ている。だからこそ、時代の変革に敏感な一部の人々からは歓迎されたのだが、もちろん旧弊な保守層からは激しい批判を浴びることになる。「画一的で合理的すぎる」として。だが、本当にそうなのだろうか。
 シャルル=エドゥアール・ジャヌレ=グリは1887年スイスに生まれ、ほぼ独学で建築へ接近し、ペンネームであるル・コルビュジェとして、それまでのアカデミックな建築界になかった挑戦的な提案で旋風を起こした。が、その足跡をたどってみると、モダニズム建築の巨匠というよりも、多彩な才能を持ったアーティストの顔が見えてくるようだ。
 1988年に出版された「ユリイカ」のコルビュジェ特集号を引っ張りだしてみると、<直角の詩>という詩があった。読んでみると、なんだか肉声のコルビュジェに出会えた気がする。

<性格”caractères “>
僕は家や宮殿を
建てるひとだ
人間たちのあいだの
こんがらがった
糸桛(*いとかせ)の真っ只中に生きている
建築をつくる それは 生き物を一人つくることだ。
何かでいっぱいであって いっぱいになり いっぱいとなって
破裂して 複雑な事情のさなか 氷さながら冷たく はしゃいで喜ぶ 満足した若い犬になる。
秩序になる。
近代の大聖堂は 魚や馬やアマゾーヌたちのこうして 居並ぶ上に建てられることだろう
恒久性 廉直性 忍耐 
期待 欲望
と用心。
いずれ目にあらわれることだろう 
ぼくにはそう感じられる裸のコンクリートが壮観であること
それに 線と線の結婚を考えることや
形態を検討することが
どんなに偉大なことであったかが。
検討することが・・・・
 ”Poeme De L’Angle Drout 1955年” 與謝野文子・訳
 *つむいだ糸を一定の形に巻き整える道具。


 コルビュジェは、建築とは「生き物」を一人作ることで、それは機械のようなものだ、と言っている。でも「機械」といっても、決して完成型とは限らない。「恒久性 廉直性 忍耐 期待 欲望と用心」を必要とした、常に「検討」を要する新手の「テキスト」であることも承知している。たとえば、モダニズム建築の理論を具現化した傑作として語り継がれる<サヴォア邸>だが、多大な時間と費用を掛け竣工したものの、いざ住んでみると雨漏りが酷くて困ったらしいことをぼくは訪れた際に知ることになった。建物の「恒久性」に欠けたわけだが、失敗をものともしないガッツに触れた気がして、ようやく興味とシンパシーを持ってコルビュジェに向き合うことができるようになった。彼はシャルロット・ペリアンやピエール・ジャンヌレ、そして坂倉準三などにいつもこう言っていた。
 「良くなるならなんでも好きなことをやりなさい。説明しなくていい、ただやりなさい、前進しなさい」。

 

 ラ・トゥーレットはテキストの満載だった。ウナギの寝床のような部屋、クセナキスの不規則な窓、時として狭すぎる回廊の廊下、小さな祈り部屋にはペリアンのアンフォルムなテーブル。しかし、それにも増して圧巻だったのは礼拝堂だ。建物の最下層に位置する荒々しいむき出しのコンクリートの空間は、カソリックの礼拝堂とは思えない超現実的な世界。神聖で美しい。見上げるまでもなく目に飛び込んでくるのは、天井に並ぶ3つの巨大な円形の窓。待てよ、よく見ると、それぞれが違う角度で空へ開いた円筒形の穴だ。それらは、時間によって差し込む太陽の光の強弱によって、おのおのがレッド、ホワイト、ブルーに輝くという寸法なのだ。ところがこの穴、外から見てみると、3つがそれぞれ違う方向に向けた大砲のように見えなくもない。ひょっとすると、「詩」,「絵」,「造形」によって、コルビュジェの目指したユートピアへ向けた風穴だったとしたら…。
 はたして、コルビュジェは画家になれなかった建築家なのか、それとも建築家の振る舞いをした詩人だったのか。彼のテキストは、注意深く、読む者に委ねられている。そう、モダニズムの巨匠は、決してシンプルではない。