形としてではないBAUHAUS。

ひょん | カルチャー デザイン・建築 社会科
DATEAug 8. 21

 

 今organを営んでいるビルを建てることになったのは、かれこれ38年前。住んでいた平屋建ての家の目の前に突如私鉄の駅が移転してくることになり、区画整理に巻き込まれてしまい、ビルに建て替える羽目になったのだ。東京でのバンド暮らしをやめ、福岡に戻って人生初の大仕事に挑戦することになった。
 とは言っても、デザインやインテリアには興味はあったが、建築にはほとんど関心がなかったし、予算も乏しい。そこで、コンクリート素材むき出しで、余計なものがなく、地味変なものを目指した。その時、バウハウスを思い出した。雑誌で垣間見た丸っこいBAUHAUSというフォントと、ドイツにあった建築&芸術の学校だというところも気になっていたし、何よりも実験的な匂いがした。
 とは言っても、今このビルにバウハウスの影響を見て取る人はいないかもしれない。でも形状はさておき、自分なりの試みは色々やったつもりだ。例えば靴のままの生活をするということ。「日本人=畳」という法律があるじゃなし、誰にも迷惑をかけない自分なりの生活を選択できるチャンスだと思った。おかげというか、後年になって私的な空間だった4階を店にする時も、一切改装する必要がなかった。
 それはさておき、最近またぞろBAUHAUSのおさらいをして気がついたことがある。それは建築やデザイン、写真、工芸など様々な分野でモダニズムを模索、実行した多くのパイオニアにばかり目が眩んでいたことだ。それは、例えばヴァルター・グロピウス、ヨハネス・イッテン、ワシリー・カンディンスキー、パウル・クレー、ヨゼフ・アルバース、モホリ=ナジ・ラースロー、マルセル・ブロイヤー、ヘルベルト・バイヤー、マリアンネ・ブラント、ミース・ファン・デル・ローエと、枚挙にいとまがない。BAUHAUSがモダニズムの先駆けと言われる所以である。
 しかし、ポイントはそんなサクセスストーリーではないことをK氏の本を読み返して思った。「BAUHAUSが成し遂げたことはその構造自体にある。教官、生徒、職人という身分差を超えたコミューンの中で行われた試みこそが革新的だった」というわけだ。確かにそうかもしれない。
 例えば、上に挙げたスター達の中で、ヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエは校長であり、マイスター(教官)だったのはヨハネス・イッテン、ワシリー・カンディンスキー、パウル・クレー、ヨゼフ・アルバース、モホリ=ナジ・ラースローなどで、彼らは作家であり、また職人的な立場をも兼ねていただろう。そしてヘルベルト・バイヤー、マリアンネ・ブラント、マルセル・ブロイヤー、ヴィルヘルム・ヴァーゲンフェルドは学生だったが、在学中からその才能を開花、プロダクトを生み出し、後にマイスターとなっている。また、カール・オーボック2世は、金属職人でありつつBAUHAUSで学び、独自のモダンな作品を生み出している。言って見れば「変化へのチャレンジ」を互いにシェアするというまるで今的なアイデアだったのだ。
 BAUHAUSには、集まった人々の出自や個性が強く反映している。ドイツ、ロシア、スイス、オランダ、ハンガリー、アメリカ、日本などに加え、ユダヤ人という他者のメンタリティが同居していた。それは「国民国家」という幻想のナショナリズムにとらわれないアナーキーな運動の実験場だったのではないか。
 そんな自由で開かれた芸術学校がヴァイマールに設立されたのは決して偶然ではなかった。
 未曾有の第一次世界大戦で敗戦目前だったドイツ(実際は諸侯が乱立する連合国家)は1918年、兵士の反乱で帝政が崩壊し、翌1919年にはヴァイマールの議会で、男女平等の普通選挙や労働者の権利などを定めた、当時最も先進的な憲法を制定している(この憲法、第2時大戦後の日本国憲法にも影響を与えている)。同じ年に設立されたBAUHAUSにもヴァイマールの憲法理念が反映されていただろう(もちろん、戦後の復興のためにBAUHAUSを「産学協同」の大学にという目的もあったのだが)。
 例えば、開校時の学生募集に対し、予想を超える女性の入学があり、グロピウス校長もあわてたらしい。そんな中で、マリアンネ・ブラントは、当初、女性には認められなかった金工工房に入り、なんと責任者となって、ランプ、灰皿、ティーポットといった現代のインダストリアルデザインの先駆けとなる作品を生み出した。それどころか、フォトモンタージュなど写真においても革新的な表現を試みている。職人とともにアカデミックな国立の学校で女性が学ぶということ自体が異例だった時代である。まるで、アイリーン・グレイやシャルロット・ペリアンの先駆け、女性の社会進出だ。しかし革命にも変化は付きまとう。同志と呼ぶにはあまりにもキャラが強い同士だし、「産学協同」に反対する学生達の左翼的活動も激しさを増す中、1933年にはナチス政権からの抑圧もあって、BAUHAUSは14年間の歴史の幕を自ら降ろすことになる。
 その後のBAUHAUSに関わった人々だが、主だったメンバーはアメリカに渡り、ある人は著名な大学に招かれBAUHAUSの教育理念を広め、またある人は建築家やデザイナーとして活躍する。そして彼らが撒いた種が、戦後アメリカの好景気の中で花開き、やがてミッドセンチュリー・モダンというムーヴメントとして1990年代の日本のメディアを通して僕らに伝わったわけだ。
 そこで気がついたことがある。organをスタートして現在まで、扱っている様々な商品にはBAUHAUSのスピリットが受け継がれたものが多いことだ。いやいや、多いのではなく全てがそうなのかもしれない。でもそれは、必ずしも見える形としてではない。