2021, April

「先行したもの」を発見する。

ひょん | デザイン・建築 社会科
DATEApr 20. 21


 コロナの渦中といっても、じっとしていては身体と頭に良くない。旅はしたいのだけれど、こんな時期に外国へ行くには制限が多すぎる。なんとか近場で面白い所はないものかと思案するうちに、福岡の周辺にはたくさんの遺跡があることに思い当たった。
 旅にはふたつのオプションがあることに気がついたのは歳のせいか、コロナのおかげ禍。たとえば7592kmの距離をジェット機で10時間かけてヘルシンキまで移動して、異国の風情に出会うという旅。もうひとつは、福岡の周辺を徘徊し、大昔の気配を自分なりに感じる旅。これはタイムマシーンなしで時間を遡る旅ともいえる。そこで出会うもの、とりわけ暮らしにまつわる道具、装身具、祭器など、いろいろな「用具」が持つ形態とその普遍性や一過性のようなものに驚くことができないものか。なにも体力と時間をかけて高度1万メートルを飛ばなくとも、「安・近・短」でいくしかない。
 そこで、お隣の春日市にある「奴国の丘歴史公園」へ行ってみることにした。後漢から贈られたというあの「金印」に記された弥生時代後期の国「奴国」が、なんと、ここ春日市周辺だという説がある。そこには大規模な集落共同体跡があり、その規模は吉野ヶ里遺跡を上回るといわれるが、まだ一部しか発掘調査が行われていない。都市の周辺部とはいえ、立ち並ぶ住宅の下に眠る遺跡の発掘はおいそれとは進まないだろう。にもかかわらず、資料館には石器や土器、祭器など色んなものが収蔵されていた。
 僕の場合、資料館で目にとまるのは、やはり「焼き物」になってしまう。陳列ケースを遠望しただけで、無意識にそこを目指して足が勝手に動き出し、ガラスに顔をくっつけ、なんとかその有り様を間近に見たいと目を凝らす。これじゃあ、まるで海外のフリーマーケットでの買い付けと同じだ。買えないんだけど、いや買えないからこそ目力(メヂカラ)が増す。資料館にあったのは、釉薬こそ施されていないけれど、とても美しい。その美しさとは、現代の日本やアジアをはじめ、フィンランド、スウェーデンやイギリス、いや世界中の陶芸作家たちが追求する「モダンな形状」に連なっていはしまいか?
 この国で、初めて「土器」が使われた始めたのはおよそ1万年前の縄文時代と言われる。そして2400年前の弥生時代になると、稲作のために定住が始まり、移動生活では必要なかった生活に寄り添うさまざまな「焼き物」が作られることになる。その後、気が遠くなるほどの時間がたったはずなのに、基本的なフォルムは変わっていない。一体なぜなんだろう。
 今では実際には見ることはできないし、すべてが「進化」や「発展」という神話で覆い尽くされ、忘れ去られ、存在しないはずなのに、無意識のうちに継承され、現在にも影響を与えているものがある。それがたとえば「焼き物」だったりする。そんな「先行したもの」を自分なりに発見することは、刺激的だ。”過去は「あった」ものではなく、「いる」ものかもしれない”というのは、誰の言葉だっただろう。たしか、柄谷行人の『憲法の無意識』という本の中で引用されたものだったか。そういえば、聞いたところでは、オードリー・タンは柄谷氏の愛読者らしい。若きデジタル担当大臣の頭のなかには、どんな先行するイメージがあるのだろう。台湾へ行きたくなった。