ひと

奥山慎、ディタッチメントなジュエリー。

ひょん | ひと カルチャー
DATENov 12. 23


古い民家の玄関を入ると、広い土間を占領するかのように大きなモーターサイクルが鎮座していた。それは、ハーレー・ダビッドソンの半ば解体されたような姿だったから驚いた。なぜって、ここは”繊細な”ジュエリーを手がける工芸家である奥山慎さんのアトリエのはずだったからだ。
しばらく前だったか、organのスタッフから、興味深いジュエリーを作る作家がいると知らされ、実際に作品に触れ、その”エッジの効いた”作風に気を取られてしまい、連絡を取り、長崎県の大村市にある彼を訪れたのだ。
僕らは土間を上り、黒一色の砂漠の民のようなファッションの奥山さんに、和室を改装したガランとした部屋に案内された。すると、中央の作業台だけが、まるでインスタレーションのように置かれている。その卓上や周りには、大小さまざまな工具や素材らしきもの、そしてどう使うのかわからないいくつかの工作機械が置かれていて、まるで孤独な実験室のような空気が漂っていた。
この人は変で、いい。

奥山慎さんは、1990年代後期からデザインとファッションを「ストリート」という磁場を通して表現することを目指したという。
その後、東京芸大の工芸科を卒業し、ジュエリー製作を初めた頃になると、デンマークの洗練されたモダンデザインと、アメリカのナヴァホ・インディアンが生活のために作るバングルという、一見矛盾したふたつの要素に刺激され、彼なりの”フリーフォーム”を模索する挑戦をスタートさせる。
でもそれは簡単なことではなかった、と彼はいう。今では、さまざまな工法を使い、だから表現のレンジは広がっているが、基本である板状のシルヴァーを切り出し、形状をあらかじめ彫り込んだ木製の型に置いて、小さなハンマーで少しずつ叩きながら形造る日々が続いた。その結果としてできたのが独自のオーガニックな形状なのだ。しかも実は中空なので、見た目よりも身につけるととても「軽い」のが特徴であり腕の見せどころでもある。作り上げるまでの工程はとても多い。そのことを裏付けるかのように彼は言った。「アーティストになる気はない。シルヴァーの板を丹念に叩いて造るジュエリーが好きだから」と。暇を見つけては自分で少しずつ修理をしている玄関に置いてあるハーレー・ダビッドソンも彼らしい仕事の一つなのか。
この人は、やはり「自作人」なのだった。

ところで、気になっていた<BAUGO HEIAN>という「屋号」の由来を尋ねてみると、友人の中国人と話すうちに浮かんだ中国語を自分なりに英語表記したものらしく、したがって意味は正確とは言えないが、「暗闇を包む」というようなニュアンスとのこと。
なんだか意味深だ。
そしてこう続けた。
「日本を囲む状況は今、不安定です。でも、そうだからこそ、アジアと仲良くしたいね」という気持ちを込めていると。
この人は、やはり「相対性」の人なのか。

そういえば、奥山さんは、今、あらたな試みをしている。「鼈甲(ベッコウ)」とシルヴァーを合わせた作品作りに挑戦しているのだ。
鼈甲といえば、長崎の特産物でもあるが、広くは中国やアジアを含む古くからの特別な素材だ。それを使ってみたいという気持ちに、社会や歴史に対する彼なりの視野を感じるのは嬉しい。

そんな奥山さんのジュエリーだが、12月にはorganで皆さんにみていただく機会を持ちたいと思っている。
”アーティスト”としてではなく、できれば”クラフツマン”でありたいという思いから生まれるジュエリー。
その軽さと緊張感にぜひ出会ってみてください。






さて、どんな話が飛び出しますか…

info | ひと 映画・音楽
DATESep 28. 23

organの店主、武末充敏が1986年にMIDIレコードからFlat Face名義で発表したアルバム”Face”が、先ほどデジタルマスタリングされヴァイナル盤で発売されました。
このアルバムは、ミニマルでインディなヨーロッパの音楽を、シンガーソング&ライターの高取淑子さんとのコラボレイトを得て福岡で制作されたもの。後に「早すぎた渋谷系」と称され、時代を経ても、様々な世代から支持を得ています。
再発に際してはムーンライダースの鈴木慶一さん、編集者の岡本仁さん、ミュージシャンのカジヒデキさん、菓子研究家の福田里香さんたちからも嬉しいコメントをいただき、武末も東京に赴き、発売イヴェントに参加させていただきました。
その際、渋谷のDisk Unionで行われたトークイヴェントが先日YouTubeにアップされました。お相手はワールド・スタンダードの鈴木惣一朗さん。Flat Faceと同じ頃に細野晴臣プロデュースでノン・スタンダード・レーベルよりアルバムデビュー、その後、多くのアーティストや作品をプロデュース、日本のポップスを静かに牽引するミュージシャン。そして進行役はorganでもお馴染み小柳帝さん。鈴木惣一朗さんとの共著『モンド・ミュージック』をはじめ、『映画についての覚書』など、カルチャー横断的な活躍の人。
さて、どんな話が飛び出しますか、興味のある方はぜひ覗いてみてください。

勿論、organにてFlat Faceのアルバムを販売していますので、高取淑子さんの歌声、ぜひご視聴ください。
ヨロシクです!

Hのオムライス。

ひょん | ひと
DATEMar 16. 23

年明けから、友人たちの訃報が続いたので、へしゃげた。
みんな60から70歳くらいで、早すぎたという人もいるだろうが、年齢のことではない。人にはそれぞれの寿命がある。ひと昔前なら還暦を越えれば長生きだったろうが、今では80を超えないと人並みではないご時世。プラス20年のハードルは高くないか。

大学で東京にいた頃、間借りしていた高円寺の六畳の部屋に一年に一度、三つ年上のいとこTetsuが訪ねてきてしばらく泊まっていた。諏訪之瀬島という、鹿児島の沖にある小さな島のコミューンから北海道のコミューン村への移動の途中に寄ってくれていた。
Tetsuは大学受験の前夜に突如出奔して四国の寺に行った。でもしばらくすると仏門の道を諦め、その後4,5年をかけて世界一周のヒッチハイク旅へ出た。インドから中東のイスラエルに行き「キブツ」という農業共同体に参加してユダヤ人や世界中からやってきた若者たちと生活を共にした。サハラ砂漠では先住民ベルベルとも暮らした。そして大西洋を渡りアメリカへ。そこで60年代アメリカのカウンターカルチャーの洗礼を受け日本へ戻ったというわけだ。
そんな話を、どちらかというと無口なTetsuは六畳間の万年こたつに座り、静かな口調で少しづつ話してくれた。意外だったのは、僕が当時好きだったThe Bandのレコードを聴かせると「この音楽は聴かないほうがいいよ」などと意味深なことを言ったりもした。彼の大きなオリーブ色のアーミーバッグにはいつもアンリ・ベルグソンの本が入っていた。
そんなある朝、北海道へ向かう彼が「Tシャツを一枚くれないかな。これから北海道は寒くなるのでよかったら…」と言った。それが彼とのお別れになった。諏訪之瀬島で遊泳中に心臓麻痺で亡くなったことを知ったのは、その一年ほど後だ。たしか26歳くらいだったはずだ。

つい最近、突然いなくなったHさんは70年生きた。46年間、Modern Timesというバーのマスターだった。店はカフェバー・ブームもあって、さながら福岡のキャラ立ち人や変人が集まるハイダウェイとなって密かに繁盛した。
「大人になったら一軒でいいから行きつけのバーが欲しい」と思っていた僕にとって、マーヴィン・ゲイやマイケル・フランクスに加えて、ヨーロッパのニューウエイヴィーな音楽を流し、濃くてうまいラムトニックが飲める気のおけない唯一の場所だった。
若きHは文化服装学院を出て、渋谷のBYGというロック喫茶や千駄ヶ谷にあったCul de Sacでバイトをして、1970年代後期の東京カルチャーを経験したひとだった。かといってそれをひけらかすでもなく、ひと懐っこい笑顔で女にモテた。カウンターで、前に付き合った二人と、今付き合っている三人がたまたま一緒だった時は、さすがに焦ったなんて話をしても、嫌味に聞こえない男だった。
店は夕方から朝の3時まで。Hは厨房でカレーライスやナポリタン、オムライスという洋食を作り、馴染みの客が来るとカウンターでそれなりに相手をする。話題は様々で話は尽きない。注文が入るたびに厨房へ消えるが、終わるとまた話に戻った。時に、閉店後まで付き合ってくれたが、最後はいつも「それがなんね、どーしたんね」と、屁理屈をこねる僕に引導を渡してお開きになった。
「長く生きたい」とは欲張りな人間様ならではの欲望だが、そうは問屋が卸さない。「より長く」か「より自分らしく」なのか、その選択は難しい。「死」は向こうからやって来るものだから。ああ、Hの気取りのないオムライスが食いたい。

”車は走るためにある止まるためじゃない”

info | ひと 映画・音楽
DATEOct 3. 22


 ジャン=リュック・ゴダールが逝ってしまった。死因は「自殺幇助」だという。しかし、関係者によると「彼は病気ではなく、疲れ切っていたんだ」とのこと。そのほうがゴダールらしいと思うのは僕だけだろうか。 
 あの昔、西鉄福岡駅南口側に「センターシネマ」という1本立て2番館の名画座があって、高校生だった僕は気の知れた友と一緒に、学割でヨーロッパ映画をたくさん見た。『恋するガリア』,『昼顔』,『獲物の分け前』,『ある晴れた朝突然に』などという”後味が悪い映画”にシビれかけていたわけだが、それにとどめを刺したのは『勝手にしやがれ』だった。
 ジャン=ポール・ベルモンド演じるチンピラ・ギャングのミシェルは死ぬことしか考えていない。ジーン・セバーグ演じるパトリシアはアメリカの留学生。生きることしか考えていない。一夜を共にした二人だが、お互いに理解し合えないのはしょうがない。パトリシアは警察に密告し、疲れっ切ったミシェルは警官に背中を撃たれ、「最低だ」という言葉を残して死ぬ。これは、その後の『気狂いピエロ』でやはり主人公ピエロを演じたベルモンドに「地中海にようやく永遠を見つけた」と独白させ、ダイナマイトを頭に巻きつけ自死させてしまう。ジャン=ポール・ベルモンドはゴダールの化身だった。
 『勝手にしやがれ』の古い映画パンフレットを探し出し、再録された1962年の《カイエ・デュ・シネマ誌》でのゴダールのインタヴューのページをめくってみた。そうしたら、こんなことを言っていた。
 「わたしは即興的にことをはこぶかもしれない。が、その材料となるのは、古い歴史を持っているのです。数年にわたって多くのものを蒐集する。そしていきなり、撮っている作品にそれをぶち込むのです」
 ゴダールは自身がアナーキーだった点を認めている。しかしそれは思いつきでの突飛な行動とは違うインテレクチュアルな行動原理に基づいていたと思う。ゴダールは、過去に累積するさまざまな歴史を自分なりに批評し、そこから抽出した視座を映画に投入し、その破天荒な撮影と編集スタイルでデビューした。ところが「ダメ元」を承知で作った映画が大成功してしまった。ゴダールは困った。苦痛だったとさえ言っている。『勝手にしやがれ』という映画は、ジャン=ポール・ベルモンドとジーン・セバーグのドキュメントであり、つまりゴダール自身を投影した擬似ドキュメントだったからだ。
 「映画に革命を起こした」ゴダール自身は、しかし、その後も幾つもの問題作を発表する。彼なりのサービスを提供した映画もあったが、『勝手にしやがれ』ほどの大衆の支持を得ることはなかった。それならばと、共産主義を礼賛する政治的映画を撮ったが「難解で退屈だ」といわれた。でも、自身の映画への熱情は終生変わることがなかった。そして、ダイナマイトを頭に巻きつけこそしなかったが、尊厳死を選ぶことで「自分自身のドキュメント」にエンドマークを記した。
 ジャン=リュック・ゴダールが天才と呼ばれることには違和感がある。確かに「映画に革命を起こした」かもしれない。いや違う。かれは、自分に与えられた休暇を、死者として、疲れ切るまで生きただけだ。そして勝手に帰還した。
 『勝手にしやがれ』の中で、ベルモンドにこんなセリフを言わせている。
 ”車は走るためにある止まるためじゃない”

※写真は〈SOFILM〉2015年#31より抜粋。
 
 

カゴンマ、行ってきたバイ。

info | ひと 旅 社会科
DATESep 6. 22


 ずいぶん久しぶりに鹿児島へ行ってきた。気晴らし半分、仕事半分(いや3割か)だったのだが、結局、色んな人に会う旅だったと思う。言葉が通じるということはあるものの、パスポートなしで外国へ行ったかのような気分だった。他国(といっても日本)の人間には意味不明だった昔の薩摩弁だが、今ではほぼ消滅しているから、言葉は通じるものの、その分、イントネーションの違いが際立つ。ざっくり言えば、奄美や沖縄からフィリピン、インドネシアあたりに通じるような「鷹揚なのにレスポンスは迅速」という、つまり北部九州の「せっかちな割に態度は曖昧」とは真逆の有り様なのだ。
 鹿児島に着き、まずイラストレーターの江夏潤一さんと一緒に、黒豚のとんかつランチの後に鹿児島名物の白熊を食べながら、来年はぜひ個展のようなことをやりましょうとオファーして了解してもらった。彼の絵は可愛いだけでなく、ペーソスがあるから、僕は昔からファンなのだ。語り口はおとなしい。しかし、時々チクリとする。まるで絵を地でいくような人なのだ。毎年開く台湾での個展が好評で、本人ものんびりとした風土が性に合うらしく、ついつい長居してしまうらしい。そういえば「江夏」と書いて「えなつ」ではなく、「こうか」と発音するところからすると、渡来人の末裔かもである。
 次に会ったのは、先日organでポップアップ・イベントをやってくれたリュトモスの飯伏正一郎くん。風貌はどこかネイティブ・アメリカンで、実際、彼が作る革製品には「動物の生きた証し」を受け継いでいきたいという、ロマンティックだが、しっかりとした思いが込められている。語り口が雄弁なだけに、時折混じる鹿児島イントネーションがチャーミングだ。そんな彼だからか、鹿児島の色んなクラフト仲間とのコラボレーションを通して、作品にも面白い化学反応を起こすことだ出来るのだろう。その際のポイントは、「お互いに、いつもの作風ではないものをあえて出し合う」ことらしい。いいなあ、他者感が生み出す異化作用。
 盛永省治くんは、そんなクラフト仲間の一人。木の塊から形を生み出すウッドターナーとして知られている。久しぶりの再会だったが、いつもの笑顔で快く近作を見せてくれた。それは旋盤を使った作品とは違って、手を使って削り出した彫刻だった。僕はいつか彼のそんな作品を見たいと思っていたから嬉しかった。展示会用に準備したという数点の中から、迷った挙句、ハンス・アルプへのトリビュートを勝手に感じたものを、一つだけ頂戴した。しかし案の定、店で販売するか今もためらっている始末。
 締めは、タイミングよく鹿児島に滞在中だった岡本仁さんとの夕食。編集者として鹿児島の魅力を伝えてくれた人なのだが、北海道の出身である。本人は「寒いのが苦手だったので、温かいところへのあこがれが…」と仰るが、果たしてそれだけの理由だったとは思えない。岡本さんは確か、外国、中でもアメリカのカルチャーに強い人だったのだが、それが鹿児島とシンクロしたにちがいない。その証拠ではないけれど、現在の岡本さんは、国内を旅しながら、自分の目を通した地域の魅力を、その歩くようなテンポの文章で”暮しの手帖”に連載中だ。自分が知らないことを隠さず、知ることの面白さを発見することは、なんだかアメリカっぽい気がする。
 そういえば、鹿児島県歴史・美術センターを訪れて思ったことがある。同じ九州だが、北と南ではその歴史に大きな違いがあるということだ。古来から中国、朝鮮の体制や文化を東シナ海もしくは対馬海峡という、地理的にはそれほど遠くない地域から取り入れた北部と、近世になって、はるか遠くヨーロッパからの南蛮文化に遭遇した南の薩摩は、違っていて当たり前だ。それは、仏教を受容し、後に日本と呼ばれる「律令国家」を建設理念とした大和政権と、「クニ」という自治の観念を持つ薩摩が、鉄砲伝来を期に「近代国家」を構想した違いにあるようか気がする。なにしろ、薩摩は1867年のパリ万博では徳川幕府に対抗して参加したわけだから。きっとアメリカでいえば「州」のような独自の存在を自負していたに違いない。
気が付くと、濃厚な2泊3日があっという間に終わっていた。終わってしまうと、旧知の友人と会い、話をした余韻がぐるぐる頭のなかで巡っている。

 以下は、カゴンマ弁を借りた私的おみやげです。
ほんなごつ、よんなかはちんがらっじゃ。そいじゃが、なこよかひっとべ!ぎをゆな、てげでよかが。
…本当に世の中はめちゃくちゃだ。しかし、泣くより飛んでみろ!文句を言うな、適当でいいよ。
(写真:鹿児島県歴史・美術センター蔵)

ヴィンテージを巡るよもやま話。

info | ひと カルチャー デザイン・建築
DATEJun 26. 22

遅ればせですが、4月15-17日に開催したRHYTHMOSの47CARAVAN(ヨンナナキャラバン)の事後報告です。
と言っても、いつものようなぼくの駄文ではなく、RHYTHMOSの飯伏くんがポストしているポッドキャスト<出る杭とたんこぶ>(いいタイトル!)での生トーク。行きつけのピザ屋でワインの酔いも手伝っての「ヴィンテージを巡るよもやま話」、聴いてみてくださいな。

【Season2/EP.03】47CARAVAN vol.02 福岡県 @organ

フラジャイルな時代ながら、

ひょん | ひと デザイン・建築 社会科
DATEFeb 25. 21

When I was flipping through the pages of a foreign magazine on the theme of St. Petersburg on the table at Junji Tanaka’s underground interior exhibition, an Anne Wiazemsky look-alike appeared. Speaking of which , Anne was of Russian descent, and above all, she was a revolutionary unstable beauty.

田中純二のアンダーグラウンド・ディスプレイ展におじゃまして、テーブルに置いてあったセント・ペテルスブルグをテーマした洋雑誌のページをめくっていたら、アンヌ・ヴィアゼムスキーの「そっくりさん」が現れた。そういえばたしかアンヌ自身もロシア系だったし、何よりも革命的に不安定な美女だったことを思い出した。

考えてみれば、会場自体が妙だった。西新の雑踏から幾分オフな長屋みたいなところにあるNIYOLというコーヒーショップの地下のガレージを使ったインスタレーションは、田中さん得意の「やらかした感」が充満している。部屋のかべ全体を荒仕上げした杉材で覆い、そこには手作りの収納型のミラーや棚がしつらえられ、天井からは筒型の照明が思いっきり下がり、床には切り株のテーブルとイームズ・ワイヤーチェア・ラウンジ仕様という塩梅だ。これじゃ、まるでアンダーグラウンドな革命家の山小屋ハイダウェイ、いやシェルターのようじゃないか。

アンヌ・ヴィアゼムスキーを知ったのは小柳帝さんの耳打ちだった。
随分前にジャン・リュック・ゴダールの話をしているときだったか、「武末さんは、もちろんアンヌ・ヴィアゼムスキーはご存知ですよね」と丁寧な言葉で質問されたのだが、あいにく知らなかった。
アンヌは、商業映画に決別し、毛沢東のプロレタリア文化大革命に傾倒した一連の映画作りをするようになったゴダールのミューズだったのだ。それらはどれも1960年から70年代にかけてのなんともイデオロギー臭い映画で、たしか観たことはあるものの、途中で眠るか中座していたくちで、アンヌの存在はなんとなくキュートな娘がいたなあ、という程度の認識だった。ところが帝さんは、「というか、アンヌが素晴らしかったのはゴダールの映画じゃなく、ロベール・ブレッソンが撮った『バルタザールどこへ行く』なんです」と言った。当然ぼくはこのレアな映画のDVDを後日入手、そしてようやくアンヌのフラジャイルな魅力にめざめたというわけだ。

田中さんは、いっしょにENOUGHという”暮らし方プロジェクト”めいたことを始めた4人の仲間のひとりで、酔っ払うと「自由でいいんじゃないですか」と繰り返すブルータルな工務店経営者であり、カーニバル好きなデザイナーである。だから、羽目を外しすぎて顰蹙を買うこともあるが、革命好きなのは間違いない。
アンダーグラウンド・ディスプレイ展を訪れた夜は、ちょっとした内輪による集いが予定されていた。といってもウイルス禍でもあり、特に告知とかはしなかったのだが、三々五々、顔なじみやご無沙汰の友人が現れた。みんな、それぞれの道を、なにを置いても自分らしく歩きたい人たちだし、暮らし方革命を目指す同志だとしてもおかしくない連中ばかり。フラジャイルな時代ながら、元気そうな顔に会えて、ホッとした。
田中純二 WEB homeaid interior