「チイキすごい」なのだ。

ひょん | 旅 社会科
DATENov 25. 21


 壱岐へ行ってからもう2ヶ月近くなる。対馬のあとは壱岐と決めていたから、台風が接近していたのは承知の上で行ってみた。
 天気予報なんかだと「壱岐対馬地方」と一緒にされるけど、実際どうなんだろうという疑問があったので、事前に少し調べた。すると、まずサイズが違う。対馬は細長く、南北が82kmとそれなりに大きな島だが、壱岐は丸っこくて南北17kmと、整備された道をレンタカーで縦断したら30分位。思っていた以上にリアルな小島だった。なのに、山だらけの対馬に対して壱岐には平野があるという。二つの島は地政学的に正反対なのだ。
 博多埠頭を出て、能古島、志賀島の間を抜けるともう玄界灘。壱岐の郷ノ浦港まではフェリーで2.2時間。ジェットフォイルだとたった1時間だけど、甲板に出られないし、たったの2時間くらいで大陸に近い「島」に行けるっていうのになにもそう急ぐことはない。天気予報によると波の高さは1mで曇り空。大丈夫、ヨーソロ!

 郷ノ浦に着き、早速食べたアジフライは普通だった。ウニは不良で高値だったので3日間で一回だけ、それも妻が召し上がっただけ。泊まったのは、島の西の漁港に面した老舗温泉旅館。つまり釣り人向けの非ラグジュアリーな宿。若主人と思しき人にチェックインをお願いしていたら、手狭なロビーの端っこでテレビを見ていた老人がこちらをジロッとみて、やにわにぼくらの荷物を古びた階段をよっこらしょと部屋まで運んでくれた。
 その夜のこと。小雨の中、玄関横の喫煙場でひとりタバコをふかしているぼくに、どこからともなくその老人が現れ「せっかくやったのに、天気がねえ」、と話しかけてきた。「明日、辰の島へ渡りたいのですが船は出ますかねえ」と尋ねると、「これくらいの波なら出すやろが、まあ客が少ないけんどうやろか」とあいまい、かつ正直な返事。「じゃあ、あした案内所に電話してみます」といって部屋に戻った。
 翌日、中国へ向かうはずの台風が急に進路を東へ変えたので風雨が強まり、辰の島への船は欠航となり、代わりに壱岐の古代の足跡をたっぷり味わうことになった。なかでも、黒川紀章が設計した一支国博物館は「この小さな島でこの建物は」と思うほどポストモダンと言うか、とにかく立派だった。なにしろ、魏志倭人伝に登場する島である。収蔵物も豊富だったけど、一番の驚きは、豚の骨が大量に発掘されていたこと。それは「日本人は食肉はしていなかった」という日本史で教わったことを覆す発見なのだ。ましてや、食用とするために、人々が共同で飼育していたことの証なのだ。コメだけで生きていたわけないので安心した。そんな弥生時代の共同体が、すぐ隣にある「原の辻遺跡」。復元された環濠集落は思った以上に広大で見事に整備されている。人っ子一人いない中、曇り空を強風だけが吹き抜けていた。弥生の時代にも吹いていたであろうこの「島風」は、風力発電にもってつけだだろう。

「うちはオヤジが町長だったとき、ここらを埋め立てて岸壁を作って旅館ばはじめたとよ」と、突然旅館の来歴を聞かされたのは、その夜のこと、やはり玄関脇でタバコを吸っていた時だった。老人は使用人どころか、この宿の主人だったのだ。
 「隣にあるでしょうが」と木造2階建ての家屋を指し、「いまはあたしたち家族が住んどるけど、最初はこれが旅館やった。そらあ客が多くて、じゃあちゅうことで、このコンクリートの新館を作ったとですよ。いっときは良かったばってん、今はコロナで客も減ってコンクリートの雨漏りはするし、木造のほうがよっぽど造りが良か」と力説。ぼくはといえば、町長によるインフラ整備に伴う旅館経営の顛末に、離島の実情を垣間見た気がしたが、「そうなんですか」と答えて部屋に戻った。
 「地方」という言葉がいつしか「ローカル」になったのはいつ頃からだろう。ここ壱岐も、島の北にある勝本港にはオシャレなB&Bや、地ビールが美味しい垢抜けたカフェもあって驚いた。この島は都会から身近に脱出する人のリゾートを目指しているようだ。寿司屋のおじさんも、お客さんはほとんど博多からだと言っていたっけ。
 壱岐に比べると、対馬は山だらけで、その昔、島内の移動手段はもっぱら船だったらしい。弥生時代、朝鮮半島から海路で伝わった稲作が、対馬では根付かなかったのもうなずける。一方の壱岐は、稲作が根付いたことで、対馬に比べると恵まれていた。したがって、「日本化」した度合いが強いともいえる。反対に対馬は幕府の重要な対外外交の場であり、対馬はそれを利用して朝鮮と独自の交易関係を築いていた。釜山に「倭館」という居留区を作るなど、ある意味で朝鮮化もしていただろう。なにしろ、日本が植民地化していた時代には、対馬の人は映画を見るのに博多ではなく船に乗り釜山の映画館へ日帰りするほど朝鮮は身近なところだった。コロナ前にはニュースが「対馬は韓国人観光客だらけ」と騒いでいたが、然もありなん、釜山までの距離50kmという身近さは半島に住む人々にとっても便利だったわけで、今に始まったことではない。
 コロナのおかげで、もう2年近く海外へ行けていない。代りに近場の、それも九州北部の旅が多くなっているのは意味不明の「ニッポンすごい」への疑問からだった。「海に囲まれ、資源に乏しいこの国」という悲しげな物語ではなく、四方が海だからこその自由な交通があったのだと思う。そのためには「ローカル」と美化せず「地域(コミューン)」でいい。大小の差はあっても、日本は「島の集まり」だ。海や山や平野にめぐまれた多様な地域の人々が、この島々に住み続けてきた。「チイキすごい」なのだ。
(P.S. 写真の牡蠣うどんはおいしかった。店内にずーっと流れていた70年代風フォークソングが気になって、ひよっとするとここの主人の自作自演かもと思い尋ねたところ、「ああ、これナガブチです」とのこと。なるほど「おだし」が強かった。)

 

のっぴきならない偶然の美しさ。

ひょん | カルチャー デザイン・建築 旅 社会科
DATEDec 14. 20

 しばらく前、小浜と長崎に行ってみた。長崎県立美術館でやっている菊畑茂久馬展と、城谷耕生の作品展を一挙に観るのが目的といえばそうだが、小浜のちゃんぽんを食べ、温泉に浸かるのも忘れるわけにはいかない。でも、それだけではコロナ禍の遠出に気乗りしない運転手トモにはなにかが足りない。一計を案じ、雲仙岳に登って「樹氷」を見ないかと誘惑したら、あっさり了解してくれた。好奇心旺盛な女房はありがたい。
 小浜のちゃんぽんは薄味だが、魚介類の旨味がたっぷりだった。城谷耕生が手がけた「刈水庵」は海岸から続く細い路地を登ったところにあった。自身がデザインしたガラス器や奥さんの陶器などを展示販売する棟と、2階から海が見える喫茶室の棟が”くの字型”に並んでいて、まるで廃屋寸前の趣きがあって、とても好ましかった。
 小浜に一泊した朝、ホテルでテレビをつけると、昨夜初めて樹氷が確認されたらしい。いそぎ、妙見岳の頂上付近目指して車を走らせた。しかし木樹には氷の姿はなかった。すると、テレビ局の人らしい二人連れが僕らに近づき「今朝早くにはまだ所々あったですが…」と気のどくそうに言った。トモがなにか質問され、小枝にかろうじて残った氷を見せている。彼女はついに樹氷を発見したのだった。
 ぼくが「樹氷」を始めて見たのは武雄に住んでいた頃だから小学校2,3年生だったか。まだ自家用車を持っていない父が、どこかから借りてきただろう車に乗って家族3人で雲仙を目指した。ぼくも「樹氷」を見るということに興味を持ったのかもしれない。
 むかしの雲仙は遠かった。朝、家を出て、いったん有明海に抜け、海沿いの道を延々ガタゴト走り、お昼になったころようやく諫早に着く。昼飯は父の提案で「うな丼」だった。とんでもなく美味しかった。こんなに旨いものがあるなら、この先が期待できると思った。しかし、そのあとも遠かった。舗装されていない寒々とした道をひたすら走る車の中で、カーラジオから流れるザ・ピーナッツの『情熱の花』の日本人ばなれしたハーモニーのおかげでなんとか間が持てた。ようやく辿り着いた仁田峠のロープーウェイから見る一面の樹氷は豪華なアイスキャンディーのようで、たしかに見慣れない光景だった。
 長崎県立美術館では、菊畑茂久馬の作品を見ることができた。”九州派”というレッテルなしに絵に向きあってみると、彼はじつに真剣なひとであることが想像できる。『絵かきが語る近代美術』という彼の本を読んだばかりだったので、なおさらそう思った。ポルトガル人宣教師が持ち込んだ宗教画は”油画”と呼ばれ、江戸時代に長崎で独自の発展を遂げる。そのあと明治維新後”西洋画”となり、日進、日露戦争、そして太平洋戦期の”戦争画”へと変容してゆく様子が語られるこの本は、美術が日本の近代化に果たした功罪を教えてくれる。そして夏目漱石の「芸術は自己に表現に始まって自己の表現に終わるのである」という言葉を引用し、権力、権威へのソンタクをいましめている。菊畑茂久馬は、やはりバリバリの九州派だったのである。
 もう一つの展示では、城谷耕生がデザインしたプロダクトを通して、彼の仕事が俯瞰できるものだった。小浜に生まれ、イタリアでデザイナーとしてのキャリアをスタート、エンツォ・マリや色々な人と企業を繋ぎながら、「地域」に根ざす仕事を続けている。なにしろ形がいい。特にガラス作品。バウハウスやカイ・フランクにも通じる、機能と美しさが静かに呼応したアノニマスな様子は、見ても使っても、とても気持ちがいい。いつかお会いしていろいろ話を伺ってみたい人です。
 旅のポイントに「樹氷」を提案した時、朋子からカウンター提案があった。長崎の原爆資料館だ。広島は訪れたことがあるのだが、長崎はまだだったこともあり行くことにした。ただし、旅の最後にした。
 入場券売り場に行くと、入場前の中学生らしき団体さんが列をなしている。ぼくらは一般チケットを買い一足先に入ったものの、途中ですぐに追いつかれてしまい、結局彼らと一緒に見学することになった。
 高度9600mのB29からパラシュートで投下されたプルトニウム爆弾が地上500mで炸裂し、わずか数秒で広がってゆく様子がジオラマ上で再現されるシュミレーション映像に、一瞬にして心が凍った。爆弾のニックネームは”ファットマン”、笑えないジョークだ。実物大に再現された黄色いソレは、なんだかアッケラカンと滑稽な形をしている。史上最も醜悪なデザインだ。
 それにしても、惨禍を物語る展示物には、どれも所有者のオウラを感じることを要請されるようで、見つめ続けることが難しい。そんななかで、サイダーの瓶だろうか、ぐんなりとへしゃげたガラスの塊におもわず目を奪われた。そう言って良ければ、それは「オブジェ」だった。「もの」の存在と「ひと」の実存はちがうものだろう。しかし、意味や目的、そして機能を奪われたはずのオブジェが発する「のっぴきならない偶然の美しさ」から生まれるオウラも実存なのではないかと疑った。

・このブログを投稿した夜、友人のデザイナーから城谷耕生氏の訃報を聞きました。これからの氏の活躍を楽しみしていただけに、とても残念です。ご冥福をお祈りしします。

ヒストリーとはストーリーなんだもの。

ひょん | 旅 社会科
DATEOct 19. 20

 

 久しぶりの旅は、パスポートがいらない国境の島「対馬」だった。一度は訪れてみたい場所だったのだが、行ってみると、勝手な想像と思い入れを軽く越えた、気の遠くなるような長い歴史を垣間見ることになった。
 対馬は、面積の95%は500mくらいの山々で、わずか5%の土地が散在するばかり。人々の暮らしは海を頼りにせざるを得なかった。そのためにはリアス式海岸の複雑な地形が役に立った。なかでも、外海から奥深く入り組んだ複雑な地形を持った浅茅湾(あそうわん)周辺では、縄文期からの暮らしの遺跡に事欠かないのだが、なにより驚くのは、そんな昔から人々は海を渡って交易をしていたことだ。いやそれどころか、何万年前だかには、大陸と地続きだったらしいのだ。
 峰(みね)というところにある、小さな民俗資料館には石器などが大量に保管展示されていて、中に魚や食物を切るための鋭利な黒曜石があった。それらは対馬にはないもので、九州の伊万里あたりから運ばれたとある。わが故郷の近くじゃないか。いきなり対馬が身近に感じられる。日本史の時間はたいくつで、世界史好きだった僕にとっては、ちょっとした発見だった。
 「最新の発見とは、最古の発見である」という説は、なにも考古学に限ったことではない。やれAIだ、次は5Gだといわれても、ああ、また新手のデジタル商品か、面倒くさいなあと思ってしまうのは、歳のせいだ。残された時間を使い、自分が存在していなかった時代のあれこれを上書きするのは、新たな発見なのだ。
 実のところ、対馬に興味を持った理由の一つは、自分の姓である武末がいったいどこらへんに多いのかをネット検索したことにある。すると、本籍である福岡市のはずれの他は対馬だけだった。うわっ”島”だ、もしかすると「自分は渡来人の末裔か」。行ってみることに何のためらいもなかった。
 で、話は対馬だ。
 弥生時代にかけて稲作の技術が伝わり、船による往来が盛んになる。南は沖縄や中国、北は遠く今のロシア領にまで渡っているのにも驚いたのだが、やはり島の北端から最短距離50kmの朝鮮半島との交流がメインだったはず。実際にその場所に行ってみると、水平線と見紛うように釜山が薄っすらと見える。そういえば、ここからすぐの海で日露戦争での日本海海戦が行われたわけで、なるほど東郷平八郎の「本日天気晴朗なれども波高し」そのままの良い天気。
 備え付けの望遠鏡が無料だったので覗いたら、いきなり釜山港の周辺のエノキ茸みたいな高層マンション群が目に飛び込んでくる。すごい倍率とはいえ、近すぎる。しかし、これなら楽に行き来が出来るかといえば、そうはいかなかったらしい。対馬海峡とも朝鮮海峡と呼ばれるこの公海は狭い分、海流が激しく不規則なので、難破する船も多かったのだ。遭難し、幸運にも救助された対馬と朝鮮半島の人たちは、いずれも双方の地元民により手厚く保護されたという。いわば海に生きる人々が発明した史上初の国際法とでもいうのか、「海民」としてのアティテュードなのだろう。
 対馬は神話誕生の地といわれる。島のアチラコチラにソレゾレの形で残っているのは、村々に伝わってきた「海と山(地)の神」の伝説だ。その一つを訪ねて、絶景とカーブと坂道だらけの島をレンタカーでひた走り、浅茅湾の奥深くにある「和多都美(わたつみ)神社」へ行ってみることにした。
 たどりついてみると、入り江の奥が陸につながりその先が神社になっている。安芸の宮島をずっと小型にしたような形態なのだが、こちらは質素というか天然だ。ちょうど引き潮だったので、少しぬかるむ砂地に降りて海に立つ鳥居のほうへ歩いてみたら、「ここは立ち入りを禁止します」との立て看板を見て、罰当たり者はあわてて引き返した。そう、ここは「聖地」なのであった。
 ぼくは立派な神社に行っても心が動かない。権威に裏打ちされたような美しさにはどうしても馴染めないのだ。でも、ここはリアルでイイ。今はコンクリートの鳥居だが、何十年か前までは、竹を4本立てただけだったらしい。できれば、そのまんまのほうがベターだったのに。
 いつ頃かわからない大昔、渡来人がこの湾にたどり着いた。やがて、この他者は様々な技術や知恵を持った「海彦」として「山彦」である地元民から恐れられつつ、畏敬の念を持たれ…、なんて「日本昔話」めいた逸話が頭をよぎる。それは7世紀頃に大和朝廷が誕生し、中央集権化を図る時の神話として機能してゆく際に、格好のストーリーに変換されに違いない、などと妄想する。だって、ヒストリーとはストーリーなんだもの。
 それにしても、アナゴ、旨かった。たまに食べるとしても、握り寿司の上に乗っかった焼きアナゴくらいだが、新鮮な刺し身は格別だった。あの異形をした魚は対馬によく似合う。
 食べたくなったら、また行くのだゾ。 

 
 
 

コルビュジェの風穴

ひょん | デザイン・建築 旅 社会科
DATEApr 1. 20

 
 
 <ラ・トゥーレット>は、パリからTGVで2時間、リヨンでレンタカーを借り、西へ1時間ほど走った田園地帯の小高い丘の斜面にあった。ル・コルビュジェが晩年に設計したカソリックの修道院だ。ぼくらは”cell(細胞)”と呼ばれる小さなワンルームで、夫婦別々に2日間滞在した。コルビュジェ建築を体験するために。
 建築家になる前のコルビュジェが画家になることを目指していたことはよく知られているが、同時に詩や文章にもその才能を発揮していた。ということは、ダダイストだったハンス・アルプが詩から造形へ移行したように、コルビュジェも詩がスタートラインだったのではないだろうか。「建築は住むための機械である」という、彼を一躍有名にした言葉は詩人のものであるし、ダダイスト達が放った挑発的なマニフェストに似ている。だからこそ、時代の変革に敏感な一部の人々からは歓迎されたのだが、もちろん旧弊な保守層からは激しい批判を浴びることになる。「画一的で合理的すぎる」として。だが、本当にそうなのだろうか。
 シャルル=エドゥアール・ジャヌレ=グリは1887年スイスに生まれ、ほぼ独学で建築へ接近し、ペンネームであるル・コルビュジェとして、それまでのアカデミックな建築界になかった挑戦的な提案で旋風を起こした。が、その足跡をたどってみると、モダニズム建築の巨匠というよりも、多彩な才能を持ったアーティストの顔が見えてくるようだ。
 1988年に出版された「ユリイカ」のコルビュジェ特集号を引っ張りだしてみると、<直角の詩>という詩があった。読んでみると、なんだか肉声のコルビュジェに出会えた気がする。

<性格”caractères “>
僕は家や宮殿を
建てるひとだ
人間たちのあいだの
こんがらがった
糸桛(*いとかせ)の真っ只中に生きている
建築をつくる それは 生き物を一人つくることだ。
何かでいっぱいであって いっぱいになり いっぱいとなって
破裂して 複雑な事情のさなか 氷さながら冷たく はしゃいで喜ぶ 満足した若い犬になる。
秩序になる。
近代の大聖堂は 魚や馬やアマゾーヌたちのこうして 居並ぶ上に建てられることだろう
恒久性 廉直性 忍耐 
期待 欲望
と用心。
いずれ目にあらわれることだろう 
ぼくにはそう感じられる裸のコンクリートが壮観であること
それに 線と線の結婚を考えることや
形態を検討することが
どんなに偉大なことであったかが。
検討することが・・・・
 ”Poeme De L’Angle Drout 1955年” 與謝野文子・訳
 *つむいだ糸を一定の形に巻き整える道具。


 コルビュジェは、建築とは「生き物」を一人作ることで、それは機械のようなものだ、と言っている。でも「機械」といっても、決して完成型とは限らない。「恒久性 廉直性 忍耐 期待 欲望と用心」を必要とした、常に「検討」を要する新手の「テキスト」であることも承知している。たとえば、モダニズム建築の理論を具現化した傑作として語り継がれる<サヴォア邸>だが、多大な時間と費用を掛け竣工したものの、いざ住んでみると雨漏りが酷くて困ったらしいことをぼくは訪れた際に知ることになった。建物の「恒久性」に欠けたわけだが、失敗をものともしないガッツに触れた気がして、ようやく興味とシンパシーを持ってコルビュジェに向き合うことができるようになった。彼はシャルロット・ペリアンやピエール・ジャンヌレ、そして坂倉準三などにいつもこう言っていた。
 「良くなるならなんでも好きなことをやりなさい。説明しなくていい、ただやりなさい、前進しなさい」。

 

 ラ・トゥーレットはテキストの満載だった。ウナギの寝床のような部屋、クセナキスの不規則な窓、時として狭すぎる回廊の廊下、小さな祈り部屋にはペリアンのアンフォルムなテーブル。しかし、それにも増して圧巻だったのは礼拝堂だ。建物の最下層に位置する荒々しいむき出しのコンクリートの空間は、カソリックの礼拝堂とは思えない超現実的な世界。神聖で美しい。見上げるまでもなく目に飛び込んでくるのは、天井に並ぶ3つの巨大な円形の窓。待てよ、よく見ると、それぞれが違う角度で空へ開いた円筒形の穴だ。それらは、時間によって差し込む太陽の光の強弱によって、おのおのがレッド、ホワイト、ブルーに輝くという寸法なのだ。ところがこの穴、外から見てみると、3つがそれぞれ違う方向に向けた大砲のように見えなくもない。ひょっとすると、「詩」,「絵」,「造形」によって、コルビュジェの目指したユートピアへ向けた風穴だったとしたら…。
 はたして、コルビュジェは画家になれなかった建築家なのか、それとも建築家の振る舞いをした詩人だったのか。彼のテキストは、注意深く、読む者に委ねられている。そう、モダニズムの巨匠は、決してシンプルではない。

フランス買い付けから戻りました

ひょん | カルチャー デザイン・建築 旅
DATEFeb 27. 20

こんにちは、看板妻(以前、岡本敬子さんに命名頂きましたので、ひらきなおって自分でそのように申しますのであしからず)の朋子です。一昨日の夜フランスに買い付けから帰国し、店のパソコンの前にドンと座って皆様のご来店をお待ちしております。
余談ですが、ちょうど2週間前の出国直前、新型コロナウィルスに対するテレビ報道で、遠方に住む母親から「フランスではアジア系人種への差別、乗車拒否や入店拒否が…etc,」と心配の電話があり、とうとう「行くのを止めたら?」とまで言われる始末。とはいえ買付けとは簡単に言うものの、これらは何ヶ月も前から仕事はもちろんその他諸々のスケジュール調整にはじまり、リサーチとアポイントまで、けっこう面倒な思いをしながら準備完了し(これらはほぼ夫の仕事)やっと行けるわけで、それらすべてを棒に振ってやめるわけにはいきません。親の心配を振り切り、たどり着いたフランスでは…。実際には拍子抜けするほどにそんな対応はまったくうけませんでした。「え?まったく違うよ!?」と思ったと同時に、報道って、真実の切り取り方ひとつ、さじ加減でどうにでも人の心理をコントロールできるものなんだなぁ、怖っ、て改めて思いました。

さて、今回このタイミングでパリに立ち寄ったのは、買付け以外にもいくつかの目的がありました。そのひとつが、フォンダシオン ルイ・ヴィトンでシャルロット・ペリアンの回顧展を見ること。会期は終了間近で滑り込みセーフなスケジュールでした。
すでに訪れた人々のレポートから、その内容の充実ぶりは予測していましたが、想像以上の再現空間と資料内容に感激。写真を少しご覧あれ。

会場ではヴィンテージ家具を数多く見られる贅沢は勿論のことですが、展覧会とあらば、ここでしか見られない関連作品や多くの紙資料にも心奪われて落ち着いていられません。欲を言えば時間がもっと欲しかった。

階層を分けての展示の中でも、特に興味を惹かれたのは最初期1920年代〜30年代頃のゾーン。ここはいわゆる彼女の最初の活動が紹介されていて、ル・コルビュジエのアトリエに入所した彼女が、ピエール・ジャンヌレやフェルナン・レジェ、ピカソといったアーティストたちと出会い、もともと持ち合わせていた大胆な感性をさらに磨き上げ変化してゆく様子に感激です。

サロン・ドートンヌで発表された共同作品『居住設備』(ここはいわゆるクロームメッキのパイプと革、ガラス、ミラーといった無機質な素材で作られたクールな空間)や、内装空間とインテリア、家具すべての調和が素晴らしい『青年の家』(ここで一挙に藁編み木製椅子が登場!)もそのままに再現されていました。中でも以前書籍で読んでいた若かりしペリアンのコミュニスト的活動からなるレジェとの共作など、興味深いものがリアルな大きさで再現されていました。当時の最先端を行くモダニスト達のコラボレーションがそこここに散りばめられた、刺激的な空間でかなりの時間と体力を消耗。


階層が上がると年代も上がっていく展示で、その後は1940年代の日本滞在で影響を受けた作品紹介や、ここらでジャン・プルーヴェとの関わりあるシステム家具などがちらほら登場。初めて見た時にはあまりの素っ気なさに「これでいいのよ!」とペリアンからパンチを食らった気がしたほど衝撃的だった構造むき出しの引き出し棚も、ガラスケースの向こう側に各種並んでいました。

1950年代に日本で開催された『ル・コルビュジエ、レジェ、ペリアン3人展』の会場も再現されていました。会場構成には少なくない数の復刻品も使われていたと思うのですが、どうしても目がいくのはヴィンテージの家具類と、あまり見たことのないコルビュジエやレジェの絵画やタペストリー、涎です。

そしてそられヴィンテージの家具類は、各ギャラリーから貸し出されているものもチラホラありました。てことは後日展示が終われば、あれらは買えるんですね、お値段不明。聞いてもいいけどユーロの数字から日本円に換算できないほどの桁でしょう。途中、突然にカルダーの特大モビール彫刻もありました、そういった並びがとても魅力的な展示が、続くのです。

ペリアンがデザインしたウォールランプもずらりと、そんな中にorganでも販売しているレアなシェードの長いバージョンも展示されていました。あれ、いいですよ。お客様、うちにあります、いかがですか?(セールス)。
その後、レザルクの設計コーナーや、いわゆるブラジルもの関連コーナー、ペリアンの茶室、と、こんな様子で興奮撮影してきた写真は枚数不明。夫婦合わせたら、きっと呆れるほど撮ってます。

最期に、展覧会場で心躍った展示をもうひとつ。それはペリアンが愛用していたネックレス!でっかいベアリングボウルを自身で繋げたそれは、彼女が手がけた名作椅子”シェーズロング”に横たわる有名なペリアンのポートレイト写真でも身につけられているものです。展示会場にはこれまで見たことのない写真も多く展示されていたのですが、ファッションはつねにショートヘアでアヴァンギャルドなスタイル。雪山では男性のような登山スタイルにビーチでのトップレスと、やることが豪快で、見ていて爽快愉快。あのネックレスは、シャープで大胆な発想と表現をしつづけたペリアンの象徴だと思います。拝むように凝視しパワーをいただいてきました。
展覧会関連の書籍やポスターなども持ち帰りました。少しずつ店頭に並べ始めていますので、ぜひどうぞ。

冷奴がコロッケに変わっただけ

ひょん | 旅 映画・音楽
DATENov 24. 19

東京に行くことになってホテルを探すうちに、できれば知らない界隈に泊まってみたくなり、それも「江戸」っぽいところとを検索し、築地に決めた。朝飯を築地市場で食べるのもいいだろうと思ったし、訪れる予定の門前仲町も近いからだ。
前夜のアフター・パーティーで飲み疲れた体に活を入れ、朝7時頃ホテルを出て大通りを歩いていると突然不思議な建物が現れた。築地本願寺らしい。想像していたのとは程遠く、モスクとギリシャ神殿が合体したかのように面妖な建造物だ。むかしは違っていただろうに、惜しいことをしたものだ。でも、諸宗教の人々に門戸を開いたと仮定すれば、悪いことでもない。記念に一枚撮ってみたら、逆光で真っ黒なシルエットだけが写っていた。
少し歩くと、交差点の向こうが築地市場であることが見て取れた。外人らしき人たちがワンサカいたからすぐわかったのだ。人気スポットなので、予想しなかったわけでもないけど、早くも戦意喪失しそうになる。But、朝飯は必要だから突進した。
まずは計画通り「玉子焼き」から。しかし、事前調査で候補だった店の名前が思い出せない。そのうえ、世界各国の腹ペコ達の勢いが凄すぎる。ままよと、一軒に当たりをつけて焼きたてを口に放り込んだ。とりあえず旨い。だが、その後が続かない。いくら日本人の端くれとはいえ、朝の起き抜けからトロやウニの握りや海鮮丼は、さすがに触指が動かない。敗残兵のような気分でホテルへ戻る道すがら、元祖木村屋築地店を発見し、アンパンを手に入れ朝飯とした。
門前仲町にあるwatariは、店主の息遣いを感じることができる小さな店だ。品数は多くはないのだが、かならず手にとってみたくなるものがある。久しぶりにおじゃますると、イラン製の敷物が色とりどりに入荷していた。どれにしようかと迷ったが、うちの食卓で使っているアルヴァー・アアルトの木製イスにちょうどよいサイズで、色も好みの朱赤というのか臙脂を見つけ、いただくことにした。
そのあと、watariから歩いて10分とかからない所にある古石場文化センターという公共施設に向かった。そこには小津安二郎の展示コーナーがあるらしく、ぜひ覗いてみたかったからだ。なにしろ小津はすぐ近くの深川の生まれである。ファンの端くれとして見逃せない。
さすがに小さなスペースだったが、愛用の美しい着物や、達者な絵、大学受験に失敗した旨を父に報告する葉書、それに「へその緒」まであり、つい見入ってしまう。肝心のへその緒は小さな箱に入っていて見ることはかなわなかったが、小津の生い立ちや映画を紹介した15分ほどのヴィデオは3回観直してしまった。なぜなら、その最後に小津の短いコメントを聞くことができたからだ。初めて聞く彼の肉声は、勝手に想像していた洗練とはちがい、落語家のような独特の発声とイントネーションは下町風というのか、結構聞き取りづらい。うろ覚えだが、それはこんなふうだった。
「ぼくは深川で生まれて、ウチの近所に(映画の)モデルになるような人間を知ってまして、昔はフンドシひとつで、冷奴で酒飲んでいたけど、今じゃそのへんでコロッケ買っておまんま食べてるわけで…」。
聞きながら、ふいに夏目漱石の『硝子戸の中』という、漱石にしては珍しく自身の心情を吐露したエッセイ集の言葉を思い出した。
「進歩もしない代わりに、退歩もしていなかった。」
明治大正期の著名な講釈師、宝井馬琴の声を久しぶりに聞いた漱石の印象なのだが、期せずしてふたりの江戸人の「ためいき」が聞こえた気がした。「進歩」とは美辞麗句でしかない。良くも悪くも、功罪相半ばの「変化」くらいがせいぜいだろう。”騙されちゃいけないよ”というところか。
もうすぐ師走。歳をとるのに理屈はいらないけれど、自分自身の改築だけは迫られている気がする。それがトタン屋根に落ちてくるそぼ降る雨の音に、耳をそばだてるだけだとしても。