奥山慎、ディタッチメントなジュエリー。

ひょん | ひと カルチャー
DATENov 12. 23


古い民家の玄関を入ると、広い土間を占領するかのように大きなモーターサイクルが鎮座していた。それは、ハーレー・ダビッドソンの半ば解体されたような姿だったから驚いた。なぜって、ここは”繊細な”ジュエリーを手がける工芸家である奥山慎さんのアトリエのはずだったからだ。
しばらく前だったか、organのスタッフから、興味深いジュエリーを作る作家がいると知らされ、実際に作品に触れ、その”エッジの効いた”作風に気を取られてしまい、連絡を取り、長崎県の大村市にある彼を訪れたのだ。
僕らは土間を上り、黒一色の砂漠の民のようなファッションの奥山さんに、和室を改装したガランとした部屋に案内された。すると、中央の作業台だけが、まるでインスタレーションのように置かれている。その卓上や周りには、大小さまざまな工具や素材らしきもの、そしてどう使うのかわからないいくつかの工作機械が置かれていて、まるで孤独な実験室のような空気が漂っていた。
この人は変で、いい。

奥山慎さんは、1990年代後期からデザインとファッションを「ストリート」という磁場を通して表現することを目指したという。
その後、東京芸大の工芸科を卒業し、ジュエリー製作を初めた頃になると、デンマークの洗練されたモダンデザインと、アメリカのナヴァホ・インディアンが生活のために作るバングルという、一見矛盾したふたつの要素に刺激され、彼なりの”フリーフォーム”を模索する挑戦をスタートさせる。
でもそれは簡単なことではなかった、と彼はいう。今では、さまざまな工法を使い、だから表現のレンジは広がっているが、基本である板状のシルヴァーを切り出し、形状をあらかじめ彫り込んだ木製の型に置いて、小さなハンマーで少しずつ叩きながら形造る日々が続いた。その結果としてできたのが独自のオーガニックな形状なのだ。しかも実は中空なので、見た目よりも身につけるととても「軽い」のが特徴であり腕の見せどころでもある。作り上げるまでの工程はとても多い。そのことを裏付けるかのように彼は言った。「アーティストになる気はない。シルヴァーの板を丹念に叩いて造るジュエリーが好きだから」と。暇を見つけては自分で少しずつ修理をしている玄関に置いてあるハーレー・ダビッドソンも彼らしい仕事の一つなのか。
この人は、やはり「自作人」なのだった。

ところで、気になっていた<BAUGO HEIAN>という「屋号」の由来を尋ねてみると、友人の中国人と話すうちに浮かんだ中国語を自分なりに英語表記したものらしく、したがって意味は正確とは言えないが、「暗闇を包む」というようなニュアンスとのこと。
なんだか意味深だ。
そしてこう続けた。
「日本を囲む状況は今、不安定です。でも、そうだからこそ、アジアと仲良くしたいね」という気持ちを込めていると。
この人は、やはり「相対性」の人なのか。

そういえば、奥山さんは、今、あらたな試みをしている。「鼈甲(ベッコウ)」とシルヴァーを合わせた作品作りに挑戦しているのだ。
鼈甲といえば、長崎の特産物でもあるが、広くは中国やアジアを含む古くからの特別な素材だ。それを使ってみたいという気持ちに、社会や歴史に対する彼なりの視野を感じるのは嬉しい。

そんな奥山さんのジュエリーだが、12月にはorganで皆さんにみていただく機会を持ちたいと思っている。
”アーティスト”としてではなく、できれば”クラフツマン”でありたいという思いから生まれるジュエリー。
その軽さと緊張感にぜひ出会ってみてください。






さて、どんな話が飛び出しますか…

info | ひと 映画・音楽
DATESep 28. 23

organの店主、武末充敏が1986年にMIDIレコードからFlat Face名義で発表したアルバム”Face”が、先ほどデジタルマスタリングされヴァイナル盤で発売されました。
このアルバムは、ミニマルでインディなヨーロッパの音楽を、シンガーソング&ライターの高取淑子さんとのコラボレイトを得て福岡で制作されたもの。後に「早すぎた渋谷系」と称され、時代を経ても、様々な世代から支持を得ています。
再発に際してはムーンライダースの鈴木慶一さん、編集者の岡本仁さん、ミュージシャンのカジヒデキさん、菓子研究家の福田里香さんたちからも嬉しいコメントをいただき、武末も東京に赴き、発売イヴェントに参加させていただきました。
その際、渋谷のDisk Unionで行われたトークイヴェントが先日YouTubeにアップされました。お相手はワールド・スタンダードの鈴木惣一朗さん。Flat Faceと同じ頃に細野晴臣プロデュースでノン・スタンダード・レーベルよりアルバムデビュー、その後、多くのアーティストや作品をプロデュース、日本のポップスを静かに牽引するミュージシャン。そして進行役はorganでもお馴染み小柳帝さん。鈴木惣一朗さんとの共著『モンド・ミュージック』をはじめ、『映画についての覚書』など、カルチャー横断的な活躍の人。
さて、どんな話が飛び出しますか、興味のある方はぜひ覗いてみてください。

勿論、organにてFlat Faceのアルバムを販売していますので、高取淑子さんの歌声、ぜひご視聴ください。
ヨロシクです!

さて図書館だ。

ひょん | カルチャー デザイン・建築 旅 社会科
DATESep 9. 23

 コロナ禍も一段落したので、3年ぶりにフィンランドへ行ったのは2ヶ月前のことになる。今回はロヴァニエミという北の町へも行ってみた。おかげで、フィンランドが少し違って見えた。それにしても、何度も訪れたはずのこの国が、今回ことさら新鮮に感じられたのはなぜなのかを、日本へ戻ってからもずっと考えている。多分この国がいわゆるヨーロッパであり、ヨーロッパとは違う「ユニークな国」なのだということかもしれない。

 北極圏の入り口にあるロヴァニエミは、フィンランド北部の広大なラップランド地方の州都。といっても人口は6万人ほど。オーロラとサンタクロースや、地球で一番北にあったマクドナルドなどということで有名らしいが、それはそれ。アメリカの田舎町のように空が広いのだ。昼間は大通りでも人影はまばらで、夜ともなれば車さえ通らず、おまけに夏至の季節で夜中過ぎまで陽が沈まないからいたって静かなものだ。ちなみにフィンランドの国土は日本とほぼ同じくらいだが人口は560万人、大阪府より少ないと聞けば、この田舎感は納得せざるを得ない。そんな町へ何を好き好んでやってきたかといえば、アルヴァー・アアルトが手がけたという都市計画、中でも図書館を体感したかったからだ。
 この街は、第二次世界大戦のさなかにナチス・ドイツによる空爆で壊滅的なダメージを受けている。戦後の復興にあたって市街地のマスタープランを任されたのがアルヴァー・アアルトだ。その中で、彼は市庁舎と美術館、図書館、コンサートホールの建設に力を注いだ。いずれも市民生活に欠かせないものなのだが特に「庶民文化」の持つ力を発揮させたいと願ったに違いない。
 フィンランドは1917年にロシア革命に乗じて誕生した新しい国民国家だ。だから一瞬だけど共産主義政権だった。だが、すぐに自由主義派が政権を樹立してその後は資本主義体制を維持しながら、東と西とのバランスをとりつつ世界でも稀な経済発展と高福祉を成し遂げている。ただしGDPの規模が日本の北海道くらいなのだから驚く。少人口、少生産なのに一人当たりの所得はトップクラス。教育に関しては大学まで無償。「経済成長」をGDPや株価で推し量る日本とは土台が違うのだからしょうがない。税金は高いが、使い道を国民がちゃんと監視しているところも「政府任せ」ではない。自前の国家を得た国民には、それなりの自覚と選択肢が必要だったわけだ。

 さて図書館だ。そういえば、随分前にトルコのエフェソスという古代都市をウロウロして驚いたのはなにより図書館の遺跡がひときわ立派に残っていたことだ。エーゲ海文明の中心都市ならではの文化と知識の象徴としての建物だったのだろうが、面白いことに隣接したところに私娼窟や浴場があった。「頭を使った後はリラックスをド〜ゾ」といったところだったのだろう。
 話が脱線したが、要は図書館は誰でもが平等に利用できるだけではなく、頭に良い刺激を受け取れる場所であって欲しいという意味で、ロヴァニエミの図書館はその際たるものだったということ。アアルトならではの自然光の取り入れ方や、アアルトがデザインした椅子やテーブル、吹き抜けの空間から半地下へ降りると小さめの空間がアート関係のスペースだったり、まるで本を探すという冒険心をくすぐる仕掛けがあちこちに散りばめられているので飽きることがない。まるで資料室のように退屈な図書館とは別世界のワンダーランドなのだ。
 それに加えて、フィンランドが他のヨーロッパ諸国と違うユニークなところは、城と教会が少ないことだとぼくは思い始めている。城は少しあるけど、それは14世紀から400年以上にもわたり統治したスウェーデンか、その後スウェーデンと領地をめぐって戦争を繰り返したロシアが造ったものなので、自前の城というのはほぼないはずだ。それも戦争のための砦のような小規模なもので、他のヨーロッパのように豪壮な王さまの居城があちこちにあるとは思えない。
 教会については、あるにはあるが、これもヨーロッパ的な天を指すようなゴシック的なものは少ない。スウェーデンの支配下では確かにローマ・カソリックだったが、宗教改革後はプロテスタントが優勢となっている。だから、あったとしてもシンプルな教会だったり、一部に丸いドーム型のロシア正教会が見られるだけだ。そんなわけで、フィンランドは城やカソリック教会のような権力を象徴する観光名所が少なく、図書館や博物館、コンサートホールなどがその代わりに建築家の腕の見せ所となっているのだろう。
詰まるところ、歴史的に見ると、フィンランドのデザイン・カルチャーが「王室御用達」などとは無縁に、民衆の側からのニーズから生まれたことが想像できるというわけだ。確かに、アルヴァー・アアルトやカイ・フランクの頭のなかを覗いてみても、「ラグジュアリー」は見つかりそうにない。「民藝」にも通じる「フォークアート」が日本人の感覚に訴えている。
 つい最近知ったのだが、フィンランドでは自生している野生のベリー類やキノコ類などを採取して食することが、誰の土地であれ許されているらしい。そういえば、随分前に、アアルトの夏の実験住宅”コエタロ”を訪れ、その敷地内の森でブルーベリーを発見したうちの奥さんは「うわ、野生のブルーベリーだ!」と上機嫌に食べていたっけ。果たして彼女はそんなフィンランドの事情を知っていたのかは疑問なのだが。森はみんなの図書館だし。

Hのオムライス。

ひょん | ひと
DATEMar 16. 23

年明けから、友人たちの訃報が続いたので、へしゃげた。
みんな60から70歳くらいで、早すぎたという人もいるだろうが、年齢のことではない。人にはそれぞれの寿命がある。ひと昔前なら還暦を越えれば長生きだったろうが、今では80を超えないと人並みではないご時世。プラス20年のハードルは高くないか。

大学で東京にいた頃、間借りしていた高円寺の六畳の部屋に一年に一度、三つ年上のいとこTetsuが訪ねてきてしばらく泊まっていた。諏訪之瀬島という、鹿児島の沖にある小さな島のコミューンから北海道のコミューン村への移動の途中に寄ってくれていた。
Tetsuは大学受験の前夜に突如出奔して四国の寺に行った。でもしばらくすると仏門の道を諦め、その後4,5年をかけて世界一周のヒッチハイク旅へ出た。インドから中東のイスラエルに行き「キブツ」という農業共同体に参加してユダヤ人や世界中からやってきた若者たちと生活を共にした。サハラ砂漠では先住民ベルベルとも暮らした。そして大西洋を渡りアメリカへ。そこで60年代アメリカのカウンターカルチャーの洗礼を受け日本へ戻ったというわけだ。
そんな話を、どちらかというと無口なTetsuは六畳間の万年こたつに座り、静かな口調で少しづつ話してくれた。意外だったのは、僕が当時好きだったThe Bandのレコードを聴かせると「この音楽は聴かないほうがいいよ」などと意味深なことを言ったりもした。彼の大きなオリーブ色のアーミーバッグにはいつもアンリ・ベルグソンの本が入っていた。
そんなある朝、北海道へ向かう彼が「Tシャツを一枚くれないかな。これから北海道は寒くなるのでよかったら…」と言った。それが彼とのお別れになった。諏訪之瀬島で遊泳中に心臓麻痺で亡くなったことを知ったのは、その一年ほど後だ。たしか26歳くらいだったはずだ。

つい最近、突然いなくなったHさんは70年生きた。46年間、Modern Timesというバーのマスターだった。店はカフェバー・ブームもあって、さながら福岡のキャラ立ち人や変人が集まるハイダウェイとなって密かに繁盛した。
「大人になったら一軒でいいから行きつけのバーが欲しい」と思っていた僕にとって、マーヴィン・ゲイやマイケル・フランクスに加えて、ヨーロッパのニューウエイヴィーな音楽を流し、濃くてうまいラムトニックが飲める気のおけない唯一の場所だった。
若きHは文化服装学院を出て、渋谷のBYGというロック喫茶や千駄ヶ谷にあったCul de Sacでバイトをして、1970年代後期の東京カルチャーを経験したひとだった。かといってそれをひけらかすでもなく、ひと懐っこい笑顔で女にモテた。カウンターで、前に付き合った二人と、今付き合っている三人がたまたま一緒だった時は、さすがに焦ったなんて話をしても、嫌味に聞こえない男だった。
店は夕方から朝の3時まで。Hは厨房でカレーライスやナポリタン、オムライスという洋食を作り、馴染みの客が来るとカウンターでそれなりに相手をする。話題は様々で話は尽きない。注文が入るたびに厨房へ消えるが、終わるとまた話に戻った。時に、閉店後まで付き合ってくれたが、最後はいつも「それがなんね、どーしたんね」と、屁理屈をこねる僕に引導を渡してお開きになった。
「長く生きたい」とは欲張りな人間様ならではの欲望だが、そうは問屋が卸さない。「より長く」か「より自分らしく」なのか、その選択は難しい。「死」は向こうからやって来るものだから。ああ、Hの気取りのないオムライスが食いたい。

優しいアナキスト

info | カルチャー 旅 社会科
DATENov 1. 22


 2009年に初めてベトナムに行ったのはサイゴンのつもりだったけど、実はホーチミンという名前に変わっていた。
 高校生だったころ、キューバ危機、ケネディ暗殺に続いて1965年にアメリカは北爆を開始して、ベトナム戦争が本格化した。共産主義と資本主義の対立の中での、アメリカとソ連、中国による代理戦争だった。その戦争は泥沼化し10年くらいも続いて南北ベトナムは共産主義国家として統一された。その間、ぼくはビートルズやヒッピー達の平和へのアピールにシンパシーを持ちながら、サイゴンという名前をニュースで聞かない日はなかった。サイゴンはアジアでもっとも有名な場所になっていた。そして戦後、北ベトナムの英雄ホーチミンの名前に変えられたのだった。
 ホーチミンはバイクと喧騒が渦巻き、信号のない道路を渡るのも一苦労で、なんとかコツを掴んだのは帰国間近の事だった。そこには、映画やニュース映像で見た戦禍の跡はなく、忙しく働く人々の生命力であふれていたが、資本主義の残影だったかもしれない。
 その7年後、ベトナム中部にあるホイアンという世界遺産に登録された街へ行った。そこは、今ではリゾートホテルが立ち並んでいるが、ダナンというベトナム戦争時の激戦地からほど近いところだ。その旧市街を歩きながら、ぼくは骨董用語で”海揚がり”と呼ばれる安南焼の古陶器を探した。16世紀というから江戸時代、ホイアンは日本を含むアジアとインド、アラブ、ヨーロッパを繋ぐ”海のシルクロード”の中継地だったのだ。その交易ルートは琉球を経て博多へも伸びていたから血が騒いだ。日本人町もあったという古い町並みに残る骨董屋で、安南焼やタイのスンコロクなどを買った。海水と泥にさらされて絵付けが消えかかってしまった陶器は、この国の長い時間の結晶のように儚いことを知った。
 滞在中にホイアンの郊外の田園を巡る半日の自転車ツアーに参加した。といっても自転車に乗れないぼくは、ひとりだけバイクの後ろに乗っけてもらったからラクチンだった。
 ツアーを企画したのは若くハツラツとしたベトナム青年のガイドで、ぼくたちは古い寺院の遺跡跡やベトナム独特のお墓などに案内された。田園に散在するエビ養殖池では「これはほとんどが日本向けの輸出用です。実は、この池はベトナム戦争でアメリカが落とした爆弾の穴を利用しています」と物騒なことも教えてくれた。転んでもただでは起きない人たちなのか。さらに、ベトコンが仕掛けた罠や、地中に残された狭く長いトンネルも見せてくれた。最後は青年の家に招かれて、奥さんの手料理をいただいた。それは素朴な家庭料理で、食材は彼らが育てた鶏や無農薬野菜。彼はオーガニックな農業を本業とすることを目指していると言っていたっけ。たくましいなあ、と思わざるを得なかった。だからなのか、次はハノイへ!、と思った。
 福岡から4時間半くらいでハノイに着き、ホテルにチェックインしてまず向かったのは「ベトナム女性博物館」。今回の旅でまず行こう!と思っていたところ。なにせ”女性”に特化した博物館なんて聞いたこともない。社会主義国ならではの振る舞いなのか?
 1995年に開館した建物はちょっとヒナビタ感じだが旧宗主国フランスの残り香もある。全体のテーマは「家庭での女性」「歴史のなかの女性」「女性のファッション」となっているが、ぼくの目当てはベトナムの54の民族が受け継ぐ伝統的工芸品。なかでも籠や布、アクセサリーたちは、目をみはるほど美しい。そして川久保玲の作品と見間違うようなスタイリングを施した展示についシャターを切りまくった。
 一方、「歴史のなかの女性」のコーナーは「戦う女性」である。インドシナ戦争とベトナム戦争という、いわゆる民族自決運動に参加した兵士としての彼女たちが写真と一緒にズラリと並んでいた。とっさに頭に浮かんだのはスタンリー・キューブリックの映画『フルメタルジャケット』の終わり近くの女性スナイパーだった。おそらく彼女の頭にはジェンダー意識はなかっただろう。そんなことには関係なしに、生きることへのアナーキーな渇望だったのではないか。それは銃を持ちアメリカ兵を倒すことに他ならなかったのだろう。映画前半、海兵隊の厳しい新兵訓練に耐えられずにノイローゼとなり、ついには上官を射殺し、自らも自死する弱っちい男との対比を思い出した。
 旅の最終日、フォーは結構食べたことだしと、ハノイっ子が特別な日に訪れるという「田がに料理」を食べることにした。バナナの花や野菜、牛肉、厚揚げなどと米麺を鍋で火を通し、すり潰した田がにを投入して仕上げる田舎のごちそうだった。店内のしつらえも良く、器などは少し古いバッチャン焼を使っていて、もしハノイにまた来る機会があったらと、忘れないように店の写真を撮ろうと思って外に出てみると、さっき店にいた若いスタッフがバイクに寄りかかって休憩していた。店内で見かけた時も目立っていたのだが、柔和な顔立ちなので、一瞬、彼か彼女か判断しかねていた。カメラを向けても表情が変わらなかったのでシャッターを押した。ベトナムの軍服らしきものを着ていたが、どう見ても兵士には見えず、お洒落で着ているとしか思えない。ひょっとするとロシアとウクライナの戦争反対の意思表示なのだろうか。いや、優しいアナキストなのかも。
 

 
 
 
 

”車は走るためにある止まるためじゃない”

info | ひと 映画・音楽
DATEOct 3. 22


 ジャン=リュック・ゴダールが逝ってしまった。死因は「自殺幇助」だという。しかし、関係者によると「彼は病気ではなく、疲れ切っていたんだ」とのこと。そのほうがゴダールらしいと思うのは僕だけだろうか。 
 あの昔、西鉄福岡駅南口側に「センターシネマ」という1本立て2番館の名画座があって、高校生だった僕は気の知れた友と一緒に、学割でヨーロッパ映画をたくさん見た。『恋するガリア』,『昼顔』,『獲物の分け前』,『ある晴れた朝突然に』などという”後味が悪い映画”にシビれかけていたわけだが、それにとどめを刺したのは『勝手にしやがれ』だった。
 ジャン=ポール・ベルモンド演じるチンピラ・ギャングのミシェルは死ぬことしか考えていない。ジーン・セバーグ演じるパトリシアはアメリカの留学生。生きることしか考えていない。一夜を共にした二人だが、お互いに理解し合えないのはしょうがない。パトリシアは警察に密告し、疲れっ切ったミシェルは警官に背中を撃たれ、「最低だ」という言葉を残して死ぬ。これは、その後の『気狂いピエロ』でやはり主人公ピエロを演じたベルモンドに「地中海にようやく永遠を見つけた」と独白させ、ダイナマイトを頭に巻きつけ自死させてしまう。ジャン=ポール・ベルモンドはゴダールの化身だった。
 『勝手にしやがれ』の古い映画パンフレットを探し出し、再録された1962年の《カイエ・デュ・シネマ誌》でのゴダールのインタヴューのページをめくってみた。そうしたら、こんなことを言っていた。
 「わたしは即興的にことをはこぶかもしれない。が、その材料となるのは、古い歴史を持っているのです。数年にわたって多くのものを蒐集する。そしていきなり、撮っている作品にそれをぶち込むのです」
 ゴダールは自身がアナーキーだった点を認めている。しかしそれは思いつきでの突飛な行動とは違うインテレクチュアルな行動原理に基づいていたと思う。ゴダールは、過去に累積するさまざまな歴史を自分なりに批評し、そこから抽出した視座を映画に投入し、その破天荒な撮影と編集スタイルでデビューした。ところが「ダメ元」を承知で作った映画が大成功してしまった。ゴダールは困った。苦痛だったとさえ言っている。『勝手にしやがれ』という映画は、ジャン=ポール・ベルモンドとジーン・セバーグのドキュメントであり、つまりゴダール自身を投影した擬似ドキュメントだったからだ。
 「映画に革命を起こした」ゴダール自身は、しかし、その後も幾つもの問題作を発表する。彼なりのサービスを提供した映画もあったが、『勝手にしやがれ』ほどの大衆の支持を得ることはなかった。それならばと、共産主義を礼賛する政治的映画を撮ったが「難解で退屈だ」といわれた。でも、自身の映画への熱情は終生変わることがなかった。そして、ダイナマイトを頭に巻きつけこそしなかったが、尊厳死を選ぶことで「自分自身のドキュメント」にエンドマークを記した。
 ジャン=リュック・ゴダールが天才と呼ばれることには違和感がある。確かに「映画に革命を起こした」かもしれない。いや違う。かれは、自分に与えられた休暇を、死者として、疲れ切るまで生きただけだ。そして勝手に帰還した。
 『勝手にしやがれ』の中で、ベルモンドにこんなセリフを言わせている。
 ”車は走るためにある止まるためじゃない”

※写真は〈SOFILM〉2015年#31より抜粋。
 
 

カゴンマ、行ってきたバイ。

info | ひと 旅 社会科
DATESep 6. 22


 ずいぶん久しぶりに鹿児島へ行ってきた。気晴らし半分、仕事半分(いや3割か)だったのだが、結局、色んな人に会う旅だったと思う。言葉が通じるということはあるものの、パスポートなしで外国へ行ったかのような気分だった。他国(といっても日本)の人間には意味不明だった昔の薩摩弁だが、今ではほぼ消滅しているから、言葉は通じるものの、その分、イントネーションの違いが際立つ。ざっくり言えば、奄美や沖縄からフィリピン、インドネシアあたりに通じるような「鷹揚なのにレスポンスは迅速」という、つまり北部九州の「せっかちな割に態度は曖昧」とは真逆の有り様なのだ。
 鹿児島に着き、まずイラストレーターの江夏潤一さんと一緒に、黒豚のとんかつランチの後に鹿児島名物の白熊を食べながら、来年はぜひ個展のようなことをやりましょうとオファーして了解してもらった。彼の絵は可愛いだけでなく、ペーソスがあるから、僕は昔からファンなのだ。語り口はおとなしい。しかし、時々チクリとする。まるで絵を地でいくような人なのだ。毎年開く台湾での個展が好評で、本人ものんびりとした風土が性に合うらしく、ついつい長居してしまうらしい。そういえば「江夏」と書いて「えなつ」ではなく、「こうか」と発音するところからすると、渡来人の末裔かもである。
 次に会ったのは、先日organでポップアップ・イベントをやってくれたリュトモスの飯伏正一郎くん。風貌はどこかネイティブ・アメリカンで、実際、彼が作る革製品には「動物の生きた証し」を受け継いでいきたいという、ロマンティックだが、しっかりとした思いが込められている。語り口が雄弁なだけに、時折混じる鹿児島イントネーションがチャーミングだ。そんな彼だからか、鹿児島の色んなクラフト仲間とのコラボレーションを通して、作品にも面白い化学反応を起こすことだ出来るのだろう。その際のポイントは、「お互いに、いつもの作風ではないものをあえて出し合う」ことらしい。いいなあ、他者感が生み出す異化作用。
 盛永省治くんは、そんなクラフト仲間の一人。木の塊から形を生み出すウッドターナーとして知られている。久しぶりの再会だったが、いつもの笑顔で快く近作を見せてくれた。それは旋盤を使った作品とは違って、手を使って削り出した彫刻だった。僕はいつか彼のそんな作品を見たいと思っていたから嬉しかった。展示会用に準備したという数点の中から、迷った挙句、ハンス・アルプへのトリビュートを勝手に感じたものを、一つだけ頂戴した。しかし案の定、店で販売するか今もためらっている始末。
 締めは、タイミングよく鹿児島に滞在中だった岡本仁さんとの夕食。編集者として鹿児島の魅力を伝えてくれた人なのだが、北海道の出身である。本人は「寒いのが苦手だったので、温かいところへのあこがれが…」と仰るが、果たしてそれだけの理由だったとは思えない。岡本さんは確か、外国、中でもアメリカのカルチャーに強い人だったのだが、それが鹿児島とシンクロしたにちがいない。その証拠ではないけれど、現在の岡本さんは、国内を旅しながら、自分の目を通した地域の魅力を、その歩くようなテンポの文章で”暮しの手帖”に連載中だ。自分が知らないことを隠さず、知ることの面白さを発見することは、なんだかアメリカっぽい気がする。
 そういえば、鹿児島県歴史・美術センターを訪れて思ったことがある。同じ九州だが、北と南ではその歴史に大きな違いがあるということだ。古来から中国、朝鮮の体制や文化を東シナ海もしくは対馬海峡という、地理的にはそれほど遠くない地域から取り入れた北部と、近世になって、はるか遠くヨーロッパからの南蛮文化に遭遇した南の薩摩は、違っていて当たり前だ。それは、仏教を受容し、後に日本と呼ばれる「律令国家」を建設理念とした大和政権と、「クニ」という自治の観念を持つ薩摩が、鉄砲伝来を期に「近代国家」を構想した違いにあるようか気がする。なにしろ、薩摩は1867年のパリ万博では徳川幕府に対抗して参加したわけだから。きっとアメリカでいえば「州」のような独自の存在を自負していたに違いない。
気が付くと、濃厚な2泊3日があっという間に終わっていた。終わってしまうと、旧知の友人と会い、話をした余韻がぐるぐる頭のなかで巡っている。

 以下は、カゴンマ弁を借りた私的おみやげです。
ほんなごつ、よんなかはちんがらっじゃ。そいじゃが、なこよかひっとべ!ぎをゆな、てげでよかが。
…本当に世の中はめちゃくちゃだ。しかし、泣くより飛んでみろ!文句を言うな、適当でいいよ。
(写真:鹿児島県歴史・美術センター蔵)

ヴィンテージを巡るよもやま話。

info | ひと カルチャー デザイン・建築
DATEJun 26. 22

遅ればせですが、4月15-17日に開催したRHYTHMOSの47CARAVAN(ヨンナナキャラバン)の事後報告です。
と言っても、いつものようなぼくの駄文ではなく、RHYTHMOSの飯伏くんがポストしているポッドキャスト<出る杭とたんこぶ>(いいタイトル!)での生トーク。行きつけのピザ屋でワインの酔いも手伝っての「ヴィンテージを巡るよもやま話」、聴いてみてくださいな。

【Season2/EP.03】47CARAVAN vol.02 福岡県 @organ

あなたは「地球の日本人」ですか、それとも「日本の地球人」ですか?

ひょん | カルチャー 社会科
DATEApr 2. 22


 それは2014年のことでした。1月の鹿児島に始まり、2月ローマ〜ナポリ〜シシリア、3月はヴァンクーバー、6月北海道、7月ヘルシンキ〜ユヴァスキュラ、そして11月には台東〜花蓮、年越しには亡き犬ユキと一緒に四国へドライブと、あのころはよく動いたものです。北海道はアイヌ、台東は原住民、松山は漱石への興味からだったのですが、基本は買付けのため。おまけに4月からはラジオの生番組を始めたので、アタフタした1年だったようです。
 なぜ2014年を思い出したのかというと、ロシアのクリミアへの侵攻があった年だったからです。ニュースを知ったのはシシリアにいた時だったか。とっさに頭に浮かんだのは1853年のクリミア戦争でした。そして、戦場で献身的な働きをしたナイチンゲールとその後発足した国際赤十字社のことを思いました。ヨーロッパ全体を巻き込んだ悲惨な戦争で、国境を超えた看護の必要性が初めて世界で意識された場所だったからです。ところが、そんな場所でまた紛争が起きてしまったことを外国にいて知らされたわけで、なんだかリアルに感じたのかもしれません。
 19世紀に起きたクリミア戦争は、その後20世紀の第一次大戦へとつながったわけで、世界史の中の出来事が、現在にも引き継がれているという日常をつきつけられた気がしました。それから8年、突然そのクリミア半島のあるウクライナ自体で新たな戦争が起きてしまいました。
 人々はこの出来事に驚き、ロシアに対する経済制裁が各国から発出され、国連でも非難決議がなされました。しかしウラジーミル・プーチンの発言は、核兵器の使用をほのめかすまでにエスカレートしています。第三次世界大戦への危惧さえ感じてしまうのはキューバ危機以来のこと。そんな時、日本の前前首相などは、アメリカの核の使用を日本においても共有しようとする意見を表明した。いわゆる「核の抑止力論」ですが、時代錯誤の愚考だとしか言いようがありません。北朝鮮が持つ抑止力としての核軍備を非難しながらも、自分達も核で対抗しようとするヤクザな戦法でしかない。「抑止としての核兵器」とは相手への脅しの道具であり、その方法が世界に広がれば、使ってみたくなる為政者があらわれます。それは他国だけではなく自国の滅亡へと到る麻薬でしかないと思います。
 とまあ、古道具屋なりのボヤキはさておいても、案外古いものには馬鹿にできない発想があります。それは、二つの大戦を経て、設立された「世界共和国」への希求を込めた「国連」のことです。
 さまざまな機関を持つ国連ですが、重要であるはずの安保理が機能していません。それは、だれもが感じているはずです。決定権を持つ5大国の拒否権がその原因であることは確かなのですが、それに対する妙案はないと諦めているかのようです。しかし「常設の国連軍」を持つという案があります。でも、あまり知られていない。国連のガリ前事務総長などから提案されていたのですが、メディアがほとんど取り上げていない。そのためか僕らの関心を集めていません。それに対して、随分前に柄谷行人氏が以下のような考えを示しています。
 「日本の憲法9条は、守るという掛け声だけではだめだろう。このままでは、”抑止力”という名のもとに改憲されてしまう。それに対して日本ができる最良のことは、自衛隊を国連に差し出すことかもしれない。唯一の被爆国として我々にはそうする理由があり、そのことで世界は初めて日本を認めざるをえないからだ」。
 しかし、この提案を現実的にうけいれる日本人がいるのでしょうか。それはジョン・レノンの”Imagine”と同じように、夢想家の戯言として一蹴されるのでしょうか。
 ぼくは「国連」って「モダニズム」の政治版だと思っているのかもしれません。どちらも第二次大戦前後の出来事であり、どちらも「人類の自由と尊厳」みたいなものを望みながら、いまだ充分に成就していません。訳知り顔の政治家はいつも「それはユートピアンなイデアでしかない」としたり顔でのたまう。彼らは「結果」こそが「歴史」と思っています。しかし、「”未来”について考えることは、”まだ意識されないもの”を指しています。それは未来からやってくるもの、実現されることはないが、われわれがそれに近づこうと努めるような指標としてあり続けると」と柄谷氏は語ります。
 この戦争が一体どのような結末を迎えるのか。実のところ、この戦争は「国家」=「民族」という”幻想”のせめぎあいというやっかいな構造です。だから簡単には先は見えません。そんな中、ひとつだけかすかなヒントが示されました。それは、アメリカの宇宙飛行士が、ロシアの宇宙船で地球に無事帰還したことです。
 当初、日本を含む西欧の対ロシア経済制裁などに対して、ロシアは、米ロの3宇宙飛行士を乗せた国際宇宙ステーションから、アメリカの飛行士だけを残して帰還するという子どもじみた脅しをツイッターで表明したのですが、後に撤回せざるを得ませんでした。
 しばらく前に、アメリカ政府はUFOの調査の重要性を示唆する報告を発表し、だれもが「やっぱりそうだよなあ」と思ったのではないでしょうか。無限と思われる宇宙に地球外生物がいないとは思えないからです。そして彼らが地球にやってきた時、ぼくらはどんな反応をするのでしょうか。あなたは「地球の日本人」ですか、それとも「日本の地球人」ですか?
 

 
 
 

バウハウスはROCKなスタジオだった。

ひょん | デザイン・建築 映画・音楽
DATEDec 20. 21


 ”cheap enough for the worker and good enough for the rich”と言ったのは、Wilhelm Wagenfeld。日本語ではヴィルヘルム・ヴァーゲンフェルト(これまでヴァーゲンフェルドと表記してきましたが、どうやら濁音ではないらしい。まったくドイツ語はやっかいです)。意味としては「労働者も買えて、金持ちにもピッタリ」といったところか。この皮肉まじりの言葉は、モダニズムの定義にもぴったり、僕の問題意識のど真ん中を突くものだった。
 ヴァーゲンフェルトは1919年にドイツのワイマールに設立された初期バウハウスの学生であり、あの”バウハウスランプ”を生み出した若きプロダクト・デザイナーだった。スタートは「シルヴァースミス(銀細工師)」。といっても銀ばかりではなく、色々な金属を使い、装飾品、家庭用具などを製作するデザイナーでヨーロッパ伝統の、どちらかといえば富裕層へ向けた金属加工を営んでいた人たちだ。一方ヴァーゲンフェルトは、普通の人々も使えるデザインを目指してバウハウスへ入学、ドローイング、素描を重ねることを選択している。
 画家におけるデッサンと同じで、頭に描く形体が現れるまでひたすらさまざまなアイデアを描き続ける姿は、ある種の「錬金術師」を思わせる。そんなヴァーゲンフェルトのモットーは”More drawings!(もっと描け)”だったという。実際のところ、アルヴァー・アアルトにしろタピオ・ヴィルカラ、ル・コルビユジエにしても、例外なくデッサンがとても魅力的だ。きっと「指を動かし続ける」って、芸術家の基礎研究みたいなもので、やりたいことのエッセンスがいっぱい詰まっている。
 僕がヴァーゲンフェルトを知ったのは、モダンというよりアール・デコっぽい、極度に薄っぺらくデフォルメしたティーセットだった。でも最初に買ったのはハート型の花瓶のポスターだった。几帳面に引かれた縦横、斜めの直線の間隙を走る太く生々しい曲線は、よく見ると何度も修正を重ねているし、ガラス口縁の角度などポイントとなる箇所には赤く小さな文字で指示をいれているのが、いかにもドイツ的クラフツマンらしい。緊張感をかいくぐって現れた優しさという逆説が、ヴァーゲンフェルトにしか生み出せないシェイプとなって結実している。それは、ヴァーゲンフェルトだけの線なのだ。

ついこの間、ビートルズの『Get Back』を配信で観まくった。2時間あまりの未公開映像が3部に渡り計6時間強。映画は、後にも先にも現れないであろう革命家たちが見せる2週間に渡る制作現場のあからさまなドキュメントだ。そう、いわば音楽のデッサン作業に立ち会う6時間だった。
 ポール・マッカートニーの呼びかけに応じてガランとした映画スタジオに集まったものの、もはやバラバラになりつつあった4人の共同作業は容易には進まない。ところが、アップルビルの半地下に完成したばかりの自分たちのスタジオに場所を移し、リラックスして新曲のアレンジに取り掛かると、何かが変化していく。ロックンロールやR&Bなど彼らの初期衝動を突き動かした曲を心のままに延々ジャムっているうちに、「やれるだけやれば、まとまっていく」と促すポールに、多分二人の間で昔から繰り返されてきたように悪ふざけで答えるジョン・レノン。歯車が少しづつ回り始める。しかし、四人の異なる個性を一つのラインにまとめ上げるのは楽ではない。そもそもデビューからのビートルズの作品には、無難に仕上げたものは一つもない。常に変化へのトライアルだったといえる。それは、新曲のライブパフォーマンスをアップルビルの屋上でやるという、誰もやったことのない破天荒なアイデアへと向かった。

 一見すると、ヴァーゲンフェルトのデッサンには破天荒さは見当たらないが、ビートルズと同じように、トライ&エラーを希求する自由への熱量を感じることはできる。それはバウハウスという極めて革新的な環境のなかで醸成されたエモーションであり、実はそれこそがモダニズムだった。「ポストモダン」などと、過去に起こった一過性のムーヴメントがあたかも終わってしまったかのような言説は勘弁だ。モダニズムは「永続的な運動」であり、過去に起こった一過性のムーヴメントではない。そこではたと気がついた。バウハウスとは、強い個性を持った他者が集い「安全なことだけやってもつまらない」というROCKなスタジオだったのだ。