デザイン・建築

さて図書館だ。

ひょん | カルチャー デザイン・建築 旅 社会科
DATESep 9. 23

 コロナ禍も一段落したので、3年ぶりにフィンランドへ行ったのは2ヶ月前のことになる。今回はロヴァニエミという北の町へも行ってみた。おかげで、フィンランドが少し違って見えた。それにしても、何度も訪れたはずのこの国が、今回ことさら新鮮に感じられたのはなぜなのかを、日本へ戻ってからもずっと考えている。多分この国がいわゆるヨーロッパであり、ヨーロッパとは違う「ユニークな国」なのだということかもしれない。

 北極圏の入り口にあるロヴァニエミは、フィンランド北部の広大なラップランド地方の州都。といっても人口は6万人ほど。オーロラとサンタクロースや、地球で一番北にあったマクドナルドなどということで有名らしいが、それはそれ。アメリカの田舎町のように空が広いのだ。昼間は大通りでも人影はまばらで、夜ともなれば車さえ通らず、おまけに夏至の季節で夜中過ぎまで陽が沈まないからいたって静かなものだ。ちなみにフィンランドの国土は日本とほぼ同じくらいだが人口は560万人、大阪府より少ないと聞けば、この田舎感は納得せざるを得ない。そんな町へ何を好き好んでやってきたかといえば、アルヴァー・アアルトが手がけたという都市計画、中でも図書館を体感したかったからだ。
 この街は、第二次世界大戦のさなかにナチス・ドイツによる空爆で壊滅的なダメージを受けている。戦後の復興にあたって市街地のマスタープランを任されたのがアルヴァー・アアルトだ。その中で、彼は市庁舎と美術館、図書館、コンサートホールの建設に力を注いだ。いずれも市民生活に欠かせないものなのだが特に「庶民文化」の持つ力を発揮させたいと願ったに違いない。
 フィンランドは1917年にロシア革命に乗じて誕生した新しい国民国家だ。だから一瞬だけど共産主義政権だった。だが、すぐに自由主義派が政権を樹立してその後は資本主義体制を維持しながら、東と西とのバランスをとりつつ世界でも稀な経済発展と高福祉を成し遂げている。ただしGDPの規模が日本の北海道くらいなのだから驚く。少人口、少生産なのに一人当たりの所得はトップクラス。教育に関しては大学まで無償。「経済成長」をGDPや株価で推し量る日本とは土台が違うのだからしょうがない。税金は高いが、使い道を国民がちゃんと監視しているところも「政府任せ」ではない。自前の国家を得た国民には、それなりの自覚と選択肢が必要だったわけだ。

 さて図書館だ。そういえば、随分前にトルコのエフェソスという古代都市をウロウロして驚いたのはなにより図書館の遺跡がひときわ立派に残っていたことだ。エーゲ海文明の中心都市ならではの文化と知識の象徴としての建物だったのだろうが、面白いことに隣接したところに私娼窟や浴場があった。「頭を使った後はリラックスをド〜ゾ」といったところだったのだろう。
 話が脱線したが、要は図書館は誰でもが平等に利用できるだけではなく、頭に良い刺激を受け取れる場所であって欲しいという意味で、ロヴァニエミの図書館はその際たるものだったということ。アアルトならではの自然光の取り入れ方や、アアルトがデザインした椅子やテーブル、吹き抜けの空間から半地下へ降りると小さめの空間がアート関係のスペースだったり、まるで本を探すという冒険心をくすぐる仕掛けがあちこちに散りばめられているので飽きることがない。まるで資料室のように退屈な図書館とは別世界のワンダーランドなのだ。
 それに加えて、フィンランドが他のヨーロッパ諸国と違うユニークなところは、城と教会が少ないことだとぼくは思い始めている。城は少しあるけど、それは14世紀から400年以上にもわたり統治したスウェーデンか、その後スウェーデンと領地をめぐって戦争を繰り返したロシアが造ったものなので、自前の城というのはほぼないはずだ。それも戦争のための砦のような小規模なもので、他のヨーロッパのように豪壮な王さまの居城があちこちにあるとは思えない。
 教会については、あるにはあるが、これもヨーロッパ的な天を指すようなゴシック的なものは少ない。スウェーデンの支配下では確かにローマ・カソリックだったが、宗教改革後はプロテスタントが優勢となっている。だから、あったとしてもシンプルな教会だったり、一部に丸いドーム型のロシア正教会が見られるだけだ。そんなわけで、フィンランドは城やカソリック教会のような権力を象徴する観光名所が少なく、図書館や博物館、コンサートホールなどがその代わりに建築家の腕の見せ所となっているのだろう。
詰まるところ、歴史的に見ると、フィンランドのデザイン・カルチャーが「王室御用達」などとは無縁に、民衆の側からのニーズから生まれたことが想像できるというわけだ。確かに、アルヴァー・アアルトやカイ・フランクの頭のなかを覗いてみても、「ラグジュアリー」は見つかりそうにない。「民藝」にも通じる「フォークアート」が日本人の感覚に訴えている。
 つい最近知ったのだが、フィンランドでは自生している野生のベリー類やキノコ類などを採取して食することが、誰の土地であれ許されているらしい。そういえば、随分前に、アアルトの夏の実験住宅”コエタロ”を訪れ、その敷地内の森でブルーベリーを発見したうちの奥さんは「うわ、野生のブルーベリーだ!」と上機嫌に食べていたっけ。果たして彼女はそんなフィンランドの事情を知っていたのかは疑問なのだが。森はみんなの図書館だし。

ヴィンテージを巡るよもやま話。

info | ひと カルチャー デザイン・建築
DATEJun 26. 22

遅ればせですが、4月15-17日に開催したRHYTHMOSの47CARAVAN(ヨンナナキャラバン)の事後報告です。
と言っても、いつものようなぼくの駄文ではなく、RHYTHMOSの飯伏くんがポストしているポッドキャスト<出る杭とたんこぶ>(いいタイトル!)での生トーク。行きつけのピザ屋でワインの酔いも手伝っての「ヴィンテージを巡るよもやま話」、聴いてみてくださいな。

【Season2/EP.03】47CARAVAN vol.02 福岡県 @organ

バウハウスはROCKなスタジオだった。

ひょん | デザイン・建築 映画・音楽
DATEDec 20. 21


 ”cheap enough for the worker and good enough for the rich”と言ったのは、Wilhelm Wagenfeld。日本語ではヴィルヘルム・ヴァーゲンフェルト(これまでヴァーゲンフェルドと表記してきましたが、どうやら濁音ではないらしい。まったくドイツ語はやっかいです)。意味としては「労働者も買えて、金持ちにもピッタリ」といったところか。この皮肉まじりの言葉は、モダニズムの定義にもぴったり、僕の問題意識のど真ん中を突くものだった。
 ヴァーゲンフェルトは1919年にドイツのワイマールに設立された初期バウハウスの学生であり、あの”バウハウスランプ”を生み出した若きプロダクト・デザイナーだった。スタートは「シルヴァースミス(銀細工師)」。といっても銀ばかりではなく、色々な金属を使い、装飾品、家庭用具などを製作するデザイナーでヨーロッパ伝統の、どちらかといえば富裕層へ向けた金属加工を営んでいた人たちだ。一方ヴァーゲンフェルトは、普通の人々も使えるデザインを目指してバウハウスへ入学、ドローイング、素描を重ねることを選択している。
 画家におけるデッサンと同じで、頭に描く形体が現れるまでひたすらさまざまなアイデアを描き続ける姿は、ある種の「錬金術師」を思わせる。そんなヴァーゲンフェルトのモットーは”More drawings!(もっと描け)”だったという。実際のところ、アルヴァー・アアルトにしろタピオ・ヴィルカラ、ル・コルビユジエにしても、例外なくデッサンがとても魅力的だ。きっと「指を動かし続ける」って、芸術家の基礎研究みたいなもので、やりたいことのエッセンスがいっぱい詰まっている。
 僕がヴァーゲンフェルトを知ったのは、モダンというよりアール・デコっぽい、極度に薄っぺらくデフォルメしたティーセットだった。でも最初に買ったのはハート型の花瓶のポスターだった。几帳面に引かれた縦横、斜めの直線の間隙を走る太く生々しい曲線は、よく見ると何度も修正を重ねているし、ガラス口縁の角度などポイントとなる箇所には赤く小さな文字で指示をいれているのが、いかにもドイツ的クラフツマンらしい。緊張感をかいくぐって現れた優しさという逆説が、ヴァーゲンフェルトにしか生み出せないシェイプとなって結実している。それは、ヴァーゲンフェルトだけの線なのだ。

ついこの間、ビートルズの『Get Back』を配信で観まくった。2時間あまりの未公開映像が3部に渡り計6時間強。映画は、後にも先にも現れないであろう革命家たちが見せる2週間に渡る制作現場のあからさまなドキュメントだ。そう、いわば音楽のデッサン作業に立ち会う6時間だった。
 ポール・マッカートニーの呼びかけに応じてガランとした映画スタジオに集まったものの、もはやバラバラになりつつあった4人の共同作業は容易には進まない。ところが、アップルビルの半地下に完成したばかりの自分たちのスタジオに場所を移し、リラックスして新曲のアレンジに取り掛かると、何かが変化していく。ロックンロールやR&Bなど彼らの初期衝動を突き動かした曲を心のままに延々ジャムっているうちに、「やれるだけやれば、まとまっていく」と促すポールに、多分二人の間で昔から繰り返されてきたように悪ふざけで答えるジョン・レノン。歯車が少しづつ回り始める。しかし、四人の異なる個性を一つのラインにまとめ上げるのは楽ではない。そもそもデビューからのビートルズの作品には、無難に仕上げたものは一つもない。常に変化へのトライアルだったといえる。それは、新曲のライブパフォーマンスをアップルビルの屋上でやるという、誰もやったことのない破天荒なアイデアへと向かった。

 一見すると、ヴァーゲンフェルトのデッサンには破天荒さは見当たらないが、ビートルズと同じように、トライ&エラーを希求する自由への熱量を感じることはできる。それはバウハウスという極めて革新的な環境のなかで醸成されたエモーションであり、実はそれこそがモダニズムだった。「ポストモダン」などと、過去に起こった一過性のムーヴメントがあたかも終わってしまったかのような言説は勘弁だ。モダニズムは「永続的な運動」であり、過去に起こった一過性のムーヴメントではない。そこではたと気がついた。バウハウスとは、強い個性を持った他者が集い「安全なことだけやってもつまらない」というROCKなスタジオだったのだ。

形としてではないBAUHAUS。

ひょん | カルチャー デザイン・建築 社会科
DATEAug 8. 21

 

 今organを営んでいるビルを建てることになったのは、かれこれ38年前。住んでいた平屋建ての家の目の前に突如私鉄の駅が移転してくることになり、区画整理に巻き込まれてしまい、ビルに建て替える羽目になったのだ。東京でのバンド暮らしをやめ、福岡に戻って人生初の大仕事に挑戦することになった。
 とは言っても、デザインやインテリアには興味はあったが、建築にはほとんど関心がなかったし、予算も乏しい。そこで、コンクリート素材むき出しで、余計なものがなく、地味変なものを目指した。その時、バウハウスを思い出した。雑誌で垣間見た丸っこいBAUHAUSというフォントと、ドイツにあった建築&芸術の学校だというところも気になっていたし、何よりも実験的な匂いがした。
 とは言っても、今このビルにバウハウスの影響を見て取る人はいないかもしれない。でも形状はさておき、自分なりの試みは色々やったつもりだ。例えば靴のままの生活をするということ。「日本人=畳」という法律があるじゃなし、誰にも迷惑をかけない自分なりの生活を選択できるチャンスだと思った。おかげというか、後年になって私的な空間だった4階を店にする時も、一切改装する必要がなかった。
 それはさておき、最近またぞろBAUHAUSのおさらいをして気がついたことがある。それは建築やデザイン、写真、工芸など様々な分野でモダニズムを模索、実行した多くのパイオニアにばかり目が眩んでいたことだ。それは、例えばヴァルター・グロピウス、ヨハネス・イッテン、ワシリー・カンディンスキー、パウル・クレー、ヨゼフ・アルバース、モホリ=ナジ・ラースロー、マルセル・ブロイヤー、ヘルベルト・バイヤー、マリアンネ・ブラント、ミース・ファン・デル・ローエと、枚挙にいとまがない。BAUHAUSがモダニズムの先駆けと言われる所以である。
 しかし、ポイントはそんなサクセスストーリーではないことをK氏の本を読み返して思った。「BAUHAUSが成し遂げたことはその構造自体にある。教官、生徒、職人という身分差を超えたコミューンの中で行われた試みこそが革新的だった」というわけだ。確かにそうかもしれない。
 例えば、上に挙げたスター達の中で、ヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエは校長であり、マイスター(教官)だったのはヨハネス・イッテン、ワシリー・カンディンスキー、パウル・クレー、ヨゼフ・アルバース、モホリ=ナジ・ラースローなどで、彼らは作家であり、また職人的な立場をも兼ねていただろう。そしてヘルベルト・バイヤー、マリアンネ・ブラント、マルセル・ブロイヤー、ヴィルヘルム・ヴァーゲンフェルドは学生だったが、在学中からその才能を開花、プロダクトを生み出し、後にマイスターとなっている。また、カール・オーボック2世は、金属職人でありつつBAUHAUSで学び、独自のモダンな作品を生み出している。言って見れば「変化へのチャレンジ」を互いにシェアするというまるで今的なアイデアだったのだ。
 BAUHAUSには、集まった人々の出自や個性が強く反映している。ドイツ、ロシア、スイス、オランダ、ハンガリー、アメリカ、日本などに加え、ユダヤ人という他者のメンタリティが同居していた。それは「国民国家」という幻想のナショナリズムにとらわれないアナーキーな運動の実験場だったのではないか。
 そんな自由で開かれた芸術学校がヴァイマールに設立されたのは決して偶然ではなかった。
 未曾有の第一次世界大戦で敗戦目前だったドイツ(実際は諸侯が乱立する連合国家)は1918年、兵士の反乱で帝政が崩壊し、翌1919年にはヴァイマールの議会で、男女平等の普通選挙や労働者の権利などを定めた、当時最も先進的な憲法を制定している(この憲法、第2時大戦後の日本国憲法にも影響を与えている)。同じ年に設立されたBAUHAUSにもヴァイマールの憲法理念が反映されていただろう(もちろん、戦後の復興のためにBAUHAUSを「産学協同」の大学にという目的もあったのだが)。
 例えば、開校時の学生募集に対し、予想を超える女性の入学があり、グロピウス校長もあわてたらしい。そんな中で、マリアンネ・ブラントは、当初、女性には認められなかった金工工房に入り、なんと責任者となって、ランプ、灰皿、ティーポットといった現代のインダストリアルデザインの先駆けとなる作品を生み出した。それどころか、フォトモンタージュなど写真においても革新的な表現を試みている。職人とともにアカデミックな国立の学校で女性が学ぶということ自体が異例だった時代である。まるで、アイリーン・グレイやシャルロット・ペリアンの先駆け、女性の社会進出だ。しかし革命にも変化は付きまとう。同志と呼ぶにはあまりにもキャラが強い同士だし、「産学協同」に反対する学生達の左翼的活動も激しさを増す中、1933年にはナチス政権からの抑圧もあって、BAUHAUSは14年間の歴史の幕を自ら降ろすことになる。
 その後のBAUHAUSに関わった人々だが、主だったメンバーはアメリカに渡り、ある人は著名な大学に招かれBAUHAUSの教育理念を広め、またある人は建築家やデザイナーとして活躍する。そして彼らが撒いた種が、戦後アメリカの好景気の中で花開き、やがてミッドセンチュリー・モダンというムーヴメントとして1990年代の日本のメディアを通して僕らに伝わったわけだ。
 そこで気がついたことがある。organをスタートして現在まで、扱っている様々な商品にはBAUHAUSのスピリットが受け継がれたものが多いことだ。いやいや、多いのではなく全てがそうなのかもしれない。でもそれは、必ずしも見える形としてではない。

「先行したもの」を発見する。

ひょん | デザイン・建築 社会科
DATEApr 20. 21


 コロナの渦中といっても、じっとしていては身体と頭に良くない。旅はしたいのだけれど、こんな時期に外国へ行くには制限が多すぎる。なんとか近場で面白い所はないものかと思案するうちに、福岡の周辺にはたくさんの遺跡があることに思い当たった。
 旅にはふたつのオプションがあることに気がついたのは歳のせいか、コロナのおかげ禍。たとえば7592kmの距離をジェット機で10時間かけてヘルシンキまで移動して、異国の風情に出会うという旅。もうひとつは、福岡の周辺を徘徊し、大昔の気配を自分なりに感じる旅。これはタイムマシーンなしで時間を遡る旅ともいえる。そこで出会うもの、とりわけ暮らしにまつわる道具、装身具、祭器など、いろいろな「用具」が持つ形態とその普遍性や一過性のようなものに驚くことができないものか。なにも体力と時間をかけて高度1万メートルを飛ばなくとも、「安・近・短」でいくしかない。
 そこで、お隣の春日市にある「奴国の丘歴史公園」へ行ってみることにした。後漢から贈られたというあの「金印」に記された弥生時代後期の国「奴国」が、なんと、ここ春日市周辺だという説がある。そこには大規模な集落共同体跡があり、その規模は吉野ヶ里遺跡を上回るといわれるが、まだ一部しか発掘調査が行われていない。都市の周辺部とはいえ、立ち並ぶ住宅の下に眠る遺跡の発掘はおいそれとは進まないだろう。にもかかわらず、資料館には石器や土器、祭器など色んなものが収蔵されていた。
 僕の場合、資料館で目にとまるのは、やはり「焼き物」になってしまう。陳列ケースを遠望しただけで、無意識にそこを目指して足が勝手に動き出し、ガラスに顔をくっつけ、なんとかその有り様を間近に見たいと目を凝らす。これじゃあ、まるで海外のフリーマーケットでの買い付けと同じだ。買えないんだけど、いや買えないからこそ目力(メヂカラ)が増す。資料館にあったのは、釉薬こそ施されていないけれど、とても美しい。その美しさとは、現代の日本やアジアをはじめ、フィンランド、スウェーデンやイギリス、いや世界中の陶芸作家たちが追求する「モダンな形状」に連なっていはしまいか?
 この国で、初めて「土器」が使われた始めたのはおよそ1万年前の縄文時代と言われる。そして2400年前の弥生時代になると、稲作のために定住が始まり、移動生活では必要なかった生活に寄り添うさまざまな「焼き物」が作られることになる。その後、気が遠くなるほどの時間がたったはずなのに、基本的なフォルムは変わっていない。一体なぜなんだろう。
 今では実際には見ることはできないし、すべてが「進化」や「発展」という神話で覆い尽くされ、忘れ去られ、存在しないはずなのに、無意識のうちに継承され、現在にも影響を与えているものがある。それがたとえば「焼き物」だったりする。そんな「先行したもの」を自分なりに発見することは、刺激的だ。”過去は「あった」ものではなく、「いる」ものかもしれない”というのは、誰の言葉だっただろう。たしか、柄谷行人の『憲法の無意識』という本の中で引用されたものだったか。そういえば、聞いたところでは、オードリー・タンは柄谷氏の愛読者らしい。若きデジタル担当大臣の頭のなかには、どんな先行するイメージがあるのだろう。台湾へ行きたくなった。 

フラジャイルな時代ながら、

ひょん | ひと デザイン・建築 社会科
DATEFeb 25. 21

When I was flipping through the pages of a foreign magazine on the theme of St. Petersburg on the table at Junji Tanaka’s underground interior exhibition, an Anne Wiazemsky look-alike appeared. Speaking of which , Anne was of Russian descent, and above all, she was a revolutionary unstable beauty.

田中純二のアンダーグラウンド・ディスプレイ展におじゃまして、テーブルに置いてあったセント・ペテルスブルグをテーマした洋雑誌のページをめくっていたら、アンヌ・ヴィアゼムスキーの「そっくりさん」が現れた。そういえばたしかアンヌ自身もロシア系だったし、何よりも革命的に不安定な美女だったことを思い出した。

考えてみれば、会場自体が妙だった。西新の雑踏から幾分オフな長屋みたいなところにあるNIYOLというコーヒーショップの地下のガレージを使ったインスタレーションは、田中さん得意の「やらかした感」が充満している。部屋のかべ全体を荒仕上げした杉材で覆い、そこには手作りの収納型のミラーや棚がしつらえられ、天井からは筒型の照明が思いっきり下がり、床には切り株のテーブルとイームズ・ワイヤーチェア・ラウンジ仕様という塩梅だ。これじゃ、まるでアンダーグラウンドな革命家の山小屋ハイダウェイ、いやシェルターのようじゃないか。

アンヌ・ヴィアゼムスキーを知ったのは小柳帝さんの耳打ちだった。
随分前にジャン・リュック・ゴダールの話をしているときだったか、「武末さんは、もちろんアンヌ・ヴィアゼムスキーはご存知ですよね」と丁寧な言葉で質問されたのだが、あいにく知らなかった。
アンヌは、商業映画に決別し、毛沢東のプロレタリア文化大革命に傾倒した一連の映画作りをするようになったゴダールのミューズだったのだ。それらはどれも1960年から70年代にかけてのなんともイデオロギー臭い映画で、たしか観たことはあるものの、途中で眠るか中座していたくちで、アンヌの存在はなんとなくキュートな娘がいたなあ、という程度の認識だった。ところが帝さんは、「というか、アンヌが素晴らしかったのはゴダールの映画じゃなく、ロベール・ブレッソンが撮った『バルタザールどこへ行く』なんです」と言った。当然ぼくはこのレアな映画のDVDを後日入手、そしてようやくアンヌのフラジャイルな魅力にめざめたというわけだ。

田中さんは、いっしょにENOUGHという”暮らし方プロジェクト”めいたことを始めた4人の仲間のひとりで、酔っ払うと「自由でいいんじゃないですか」と繰り返すブルータルな工務店経営者であり、カーニバル好きなデザイナーである。だから、羽目を外しすぎて顰蹙を買うこともあるが、革命好きなのは間違いない。
アンダーグラウンド・ディスプレイ展を訪れた夜は、ちょっとした内輪による集いが予定されていた。といってもウイルス禍でもあり、特に告知とかはしなかったのだが、三々五々、顔なじみやご無沙汰の友人が現れた。みんな、それぞれの道を、なにを置いても自分らしく歩きたい人たちだし、暮らし方革命を目指す同志だとしてもおかしくない連中ばかり。フラジャイルな時代ながら、元気そうな顔に会えて、ホッとした。
田中純二 WEB homeaid interior

のっぴきならない偶然の美しさ。

ひょん | カルチャー デザイン・建築 旅 社会科
DATEDec 14. 20

 しばらく前、小浜と長崎に行ってみた。長崎県立美術館でやっている菊畑茂久馬展と、城谷耕生の作品展を一挙に観るのが目的といえばそうだが、小浜のちゃんぽんを食べ、温泉に浸かるのも忘れるわけにはいかない。でも、それだけではコロナ禍の遠出に気乗りしない運転手トモにはなにかが足りない。一計を案じ、雲仙岳に登って「樹氷」を見ないかと誘惑したら、あっさり了解してくれた。好奇心旺盛な女房はありがたい。
 小浜のちゃんぽんは薄味だが、魚介類の旨味がたっぷりだった。城谷耕生が手がけた「刈水庵」は海岸から続く細い路地を登ったところにあった。自身がデザインしたガラス器や奥さんの陶器などを展示販売する棟と、2階から海が見える喫茶室の棟が”くの字型”に並んでいて、まるで廃屋寸前の趣きがあって、とても好ましかった。
 小浜に一泊した朝、ホテルでテレビをつけると、昨夜初めて樹氷が確認されたらしい。いそぎ、妙見岳の頂上付近目指して車を走らせた。しかし木樹には氷の姿はなかった。すると、テレビ局の人らしい二人連れが僕らに近づき「今朝早くにはまだ所々あったですが…」と気のどくそうに言った。トモがなにか質問され、小枝にかろうじて残った氷を見せている。彼女はついに樹氷を発見したのだった。
 ぼくが「樹氷」を始めて見たのは武雄に住んでいた頃だから小学校2,3年生だったか。まだ自家用車を持っていない父が、どこかから借りてきただろう車に乗って家族3人で雲仙を目指した。ぼくも「樹氷」を見るということに興味を持ったのかもしれない。
 むかしの雲仙は遠かった。朝、家を出て、いったん有明海に抜け、海沿いの道を延々ガタゴト走り、お昼になったころようやく諫早に着く。昼飯は父の提案で「うな丼」だった。とんでもなく美味しかった。こんなに旨いものがあるなら、この先が期待できると思った。しかし、そのあとも遠かった。舗装されていない寒々とした道をひたすら走る車の中で、カーラジオから流れるザ・ピーナッツの『情熱の花』の日本人ばなれしたハーモニーのおかげでなんとか間が持てた。ようやく辿り着いた仁田峠のロープーウェイから見る一面の樹氷は豪華なアイスキャンディーのようで、たしかに見慣れない光景だった。
 長崎県立美術館では、菊畑茂久馬の作品を見ることができた。”九州派”というレッテルなしに絵に向きあってみると、彼はじつに真剣なひとであることが想像できる。『絵かきが語る近代美術』という彼の本を読んだばかりだったので、なおさらそう思った。ポルトガル人宣教師が持ち込んだ宗教画は”油画”と呼ばれ、江戸時代に長崎で独自の発展を遂げる。そのあと明治維新後”西洋画”となり、日進、日露戦争、そして太平洋戦期の”戦争画”へと変容してゆく様子が語られるこの本は、美術が日本の近代化に果たした功罪を教えてくれる。そして夏目漱石の「芸術は自己に表現に始まって自己の表現に終わるのである」という言葉を引用し、権力、権威へのソンタクをいましめている。菊畑茂久馬は、やはりバリバリの九州派だったのである。
 もう一つの展示では、城谷耕生がデザインしたプロダクトを通して、彼の仕事が俯瞰できるものだった。小浜に生まれ、イタリアでデザイナーとしてのキャリアをスタート、エンツォ・マリや色々な人と企業を繋ぎながら、「地域」に根ざす仕事を続けている。なにしろ形がいい。特にガラス作品。バウハウスやカイ・フランクにも通じる、機能と美しさが静かに呼応したアノニマスな様子は、見ても使っても、とても気持ちがいい。いつかお会いしていろいろ話を伺ってみたい人です。
 旅のポイントに「樹氷」を提案した時、朋子からカウンター提案があった。長崎の原爆資料館だ。広島は訪れたことがあるのだが、長崎はまだだったこともあり行くことにした。ただし、旅の最後にした。
 入場券売り場に行くと、入場前の中学生らしき団体さんが列をなしている。ぼくらは一般チケットを買い一足先に入ったものの、途中ですぐに追いつかれてしまい、結局彼らと一緒に見学することになった。
 高度9600mのB29からパラシュートで投下されたプルトニウム爆弾が地上500mで炸裂し、わずか数秒で広がってゆく様子がジオラマ上で再現されるシュミレーション映像に、一瞬にして心が凍った。爆弾のニックネームは”ファットマン”、笑えないジョークだ。実物大に再現された黄色いソレは、なんだかアッケラカンと滑稽な形をしている。史上最も醜悪なデザインだ。
 それにしても、惨禍を物語る展示物には、どれも所有者のオウラを感じることを要請されるようで、見つめ続けることが難しい。そんななかで、サイダーの瓶だろうか、ぐんなりとへしゃげたガラスの塊におもわず目を奪われた。そう言って良ければ、それは「オブジェ」だった。「もの」の存在と「ひと」の実存はちがうものだろう。しかし、意味や目的、そして機能を奪われたはずのオブジェが発する「のっぴきならない偶然の美しさ」から生まれるオウラも実存なのではないかと疑った。

・このブログを投稿した夜、友人のデザイナーから城谷耕生氏の訃報を聞きました。これからの氏の活躍を楽しみしていただけに、とても残念です。ご冥福をお祈りしします。

コルビュジェの風穴

ひょん | デザイン・建築 旅 社会科
DATEApr 1. 20

 
 
 <ラ・トゥーレット>は、パリからTGVで2時間、リヨンでレンタカーを借り、西へ1時間ほど走った田園地帯の小高い丘の斜面にあった。ル・コルビュジェが晩年に設計したカソリックの修道院だ。ぼくらは”cell(細胞)”と呼ばれる小さなワンルームで、夫婦別々に2日間滞在した。コルビュジェ建築を体験するために。
 建築家になる前のコルビュジェが画家になることを目指していたことはよく知られているが、同時に詩や文章にもその才能を発揮していた。ということは、ダダイストだったハンス・アルプが詩から造形へ移行したように、コルビュジェも詩がスタートラインだったのではないだろうか。「建築は住むための機械である」という、彼を一躍有名にした言葉は詩人のものであるし、ダダイスト達が放った挑発的なマニフェストに似ている。だからこそ、時代の変革に敏感な一部の人々からは歓迎されたのだが、もちろん旧弊な保守層からは激しい批判を浴びることになる。「画一的で合理的すぎる」として。だが、本当にそうなのだろうか。
 シャルル=エドゥアール・ジャヌレ=グリは1887年スイスに生まれ、ほぼ独学で建築へ接近し、ペンネームであるル・コルビュジェとして、それまでのアカデミックな建築界になかった挑戦的な提案で旋風を起こした。が、その足跡をたどってみると、モダニズム建築の巨匠というよりも、多彩な才能を持ったアーティストの顔が見えてくるようだ。
 1988年に出版された「ユリイカ」のコルビュジェ特集号を引っ張りだしてみると、<直角の詩>という詩があった。読んでみると、なんだか肉声のコルビュジェに出会えた気がする。

<性格”caractères “>
僕は家や宮殿を
建てるひとだ
人間たちのあいだの
こんがらがった
糸桛(*いとかせ)の真っ只中に生きている
建築をつくる それは 生き物を一人つくることだ。
何かでいっぱいであって いっぱいになり いっぱいとなって
破裂して 複雑な事情のさなか 氷さながら冷たく はしゃいで喜ぶ 満足した若い犬になる。
秩序になる。
近代の大聖堂は 魚や馬やアマゾーヌたちのこうして 居並ぶ上に建てられることだろう
恒久性 廉直性 忍耐 
期待 欲望
と用心。
いずれ目にあらわれることだろう 
ぼくにはそう感じられる裸のコンクリートが壮観であること
それに 線と線の結婚を考えることや
形態を検討することが
どんなに偉大なことであったかが。
検討することが・・・・
 ”Poeme De L’Angle Drout 1955年” 與謝野文子・訳
 *つむいだ糸を一定の形に巻き整える道具。


 コルビュジェは、建築とは「生き物」を一人作ることで、それは機械のようなものだ、と言っている。でも「機械」といっても、決して完成型とは限らない。「恒久性 廉直性 忍耐 期待 欲望と用心」を必要とした、常に「検討」を要する新手の「テキスト」であることも承知している。たとえば、モダニズム建築の理論を具現化した傑作として語り継がれる<サヴォア邸>だが、多大な時間と費用を掛け竣工したものの、いざ住んでみると雨漏りが酷くて困ったらしいことをぼくは訪れた際に知ることになった。建物の「恒久性」に欠けたわけだが、失敗をものともしないガッツに触れた気がして、ようやく興味とシンパシーを持ってコルビュジェに向き合うことができるようになった。彼はシャルロット・ペリアンやピエール・ジャンヌレ、そして坂倉準三などにいつもこう言っていた。
 「良くなるならなんでも好きなことをやりなさい。説明しなくていい、ただやりなさい、前進しなさい」。

 

 ラ・トゥーレットはテキストの満載だった。ウナギの寝床のような部屋、クセナキスの不規則な窓、時として狭すぎる回廊の廊下、小さな祈り部屋にはペリアンのアンフォルムなテーブル。しかし、それにも増して圧巻だったのは礼拝堂だ。建物の最下層に位置する荒々しいむき出しのコンクリートの空間は、カソリックの礼拝堂とは思えない超現実的な世界。神聖で美しい。見上げるまでもなく目に飛び込んでくるのは、天井に並ぶ3つの巨大な円形の窓。待てよ、よく見ると、それぞれが違う角度で空へ開いた円筒形の穴だ。それらは、時間によって差し込む太陽の光の強弱によって、おのおのがレッド、ホワイト、ブルーに輝くという寸法なのだ。ところがこの穴、外から見てみると、3つがそれぞれ違う方向に向けた大砲のように見えなくもない。ひょっとすると、「詩」,「絵」,「造形」によって、コルビュジェの目指したユートピアへ向けた風穴だったとしたら…。
 はたして、コルビュジェは画家になれなかった建築家なのか、それとも建築家の振る舞いをした詩人だったのか。彼のテキストは、注意深く、読む者に委ねられている。そう、モダニズムの巨匠は、決してシンプルではない。

なんとナウい画家だったことか。

ひょん | カルチャー デザイン・建築
DATEMar 14. 20


 藤田嗣治に興味を持ったのは80年代の半ば頃だったか。バブル時代が終りを迎えつつあるというのに、ぼくは”おフランス”への片思い真っ最中だった。きっかけは絵ではなく、おかっぱ頭に丸メガネをかけ、ジロリとレンズに目をやるポートレイト。こんなお茶目な日本人・イン・フランスとあっては、もちろん捨てては置けぬということで、すぐさま下関市立美術館へ駆けつけようやく「猫」や「ヌード」などの実作品に触れた。そして日本画と西洋画がミックスしたような肉感的な線描の素晴らしさにあっけにとられたのであった。それから何度もフランスへ買付に行ったのだけれど、今回ようやく自宅とアトリエを訪れることができた。そしてそこで出会ったのは、Fuojitaの作品にふさわしい暮らしぶりだった。

 古い農家の改装を自ら手がけ、気に入る服がないからとミシンを踏み、額縁ももちろん自作、焼き物も作り、日本製の電気釜でご飯も炊いたFoujitaは、みずからをアーティストではなく、アルティザンと呼ぶことにこだわったという。アルティザンとは職人という意味だろう。似た表現の英語にクラフツマンというのもあるが、その場合は似たような製品を手作りするニュアンスがある一方、アルティザンには工夫をこらしたオリジナルをこしらえる一匹狼の趣がある。そんな画家たちがモンパルナスの安下宿で交友を結び、後にエコール・ド・パリと呼ばれる自由で新しい絵画の発展に寄与したのは1910年代、第一次世界大戦直前のことだった。それはパブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、モイズ・キスリング、ジャン・コクトーなどだったのだが、その中でFoujitaが親友と呼んだのはアメディオ・モディリアーニだったことを知り「我が意を得たり」とばかり、ぼくは密かに喜んだ。 
 何を隠そうモディリアーニは、ぼくが初めて恋に落ちた画家だったのだ。その挙げ句、高校の美術部でモディリアーニ風の油彩画をたった一枚描き上げ、文化祭に出品したところ、あろうことか譲ってほしいという見ず知らずのおじさんのオファーを受けたのだ。どんな絵かというと、当時好きだったマリー・ラフォレの写真をながめつつ、首をやたら長くして、目は灰色で虚ろに、そして両手でりんごを捧げ持たせたもので、青臭い退廃感を醸していたと思う。(お代はいくらだったか忘れたけれど、父に相談の上、確かキャンバスと絵の具代金ほど、つまりメルカリ価格に決定。今思えば、これはぼくのオークション・デビューだったのか)。 

 それはさておき、丸メガネのアルティザン画家、Foujitaは赤貧の時代から一気に画壇の寵児として、パリっ子の耳目を集めることになる。元来オリエンタリズムに多大な関心を持つフランス人にとって、精緻で美しい線描と乳白色の画面の合体は、さぞかしエキゾティックに映ったことだろう。それにあの自作のアヴァンな服装である。実のところ、そのころのFoujitaはフランス語で「FouFou」と呼ばれる人気者だったらしい。「Fou」といえばゴダールの映画『気狂いピエロ』の原題『Pierrot Le Fou』を思い出す。「クレイジー」というか、日本的には「風狂」というところか。それにも増して、Foujitaがプライヴェートでモダンな感覚を兼ね備えていたことを知ることができたのは、生前の暮らしぶりが保存されたこの家を見学できたおかげだ。 
 それについてFoujitaは随筆集『地を泳ぐ』のなかでこんなことを述べているので、ちょっと長いけど概略引用してみよう。

「仕事場は仕事本位に、光線は勿論の事設備の万端が、勝手都合宜く出来ていれば物足りる筈で、申し分はないわけであるが、やはり、生活の殆ど一生涯をこの仕事場で暮らすからには、雰囲気を考慮して、自己の趣向を取り入れておきたいのである。(中略)居間から改まった気分で、戦場に臨むような気がしたり、屠殺場にでも行くような、概して日本等の寒い画室陰気な仕事場に、改まって行くという感じが嫌である。生活の延長、生活が流れ込んだ画室、始終いて別に画室にいるという気分のしない仕事場が理想である。華美豪奢は望みたくないのである。余りかけ離れたモダーンも不自然である。(中略)と言って、普通の座敷なり洋室も好ましくないのである。多少風変わりな、自分だけの好みの、特殊の空気がほしいのである。私は田舎家風な、質朴な、頑丈な、散らかしてもいい、汚しても差し支えのない、気のおけない、安心していられる様な仕事場が好きである。」

 この、何というのか「反対の反対」をつらぬく独創性が絵に通底しているのは明らかだろう。Foujitaは、当時の日本画壇の主流だった”西洋画もどき”を拒否し、パリにおいて”ジャポニズム”をも拒否し、”自前の”作風を展開したといってもいい。それをハイでポップなスタイルでやっちゃったナウい画家だったわけだ。
 ところで、今回日本へ戻ってすぐに『地を泳ぐ』を再読したところ、すっかり忘れていた(というより、30年ほど前にはあまり関心を持っていなかった)画家との交友が記述されていた。猪熊弦一郎である。
 Foujitaは、猪熊の芸大の先輩にあたり、パリにやってきた猪熊はモンパルナス、Foujitaはモンマルトルとアパルトマンは離れていたものの、密な交際を続けていて、それは終生変わることがなかった。以下はまたまた長めの引用だが、ふたりのパリぐらしが垣間見えるようだ。

「モンパルナスから猪熊夫妻が、日曜毎に必ず近くの蚤の市に通勤して、この三人のアトリエを順々に訪れてくれる。寧ろ買い物の自慢である、針金細工の大砲やら、古靴下で拵えた鶏やら、南京虫退治の鞴やらを、古新聞紙の包みから一々大事そうに取り出して、おやじさん、どうだい、見てくださいって言うんだ——日本へ持って行きゃ素敵なもんだ、と独り悦に入って見せてくれるが、私達は又額縁を並べ立てて、この演題の客へ一通りのお説教を繰り返さねば胸がすかぬ。」

 ドイツ軍が今にもパリへ侵攻してこようかという非常時に、蚤の市で見つけてきたガラクタを披露する猪熊の物好きぶりがブラボー過ぎる。多分、丸亀にある彼の美術館所蔵のコレクションの中にはきっとその時の戦利品が混じっているかと思うと嬉しくなってしまった。
 そんな二人のFouがその後、太平洋戦争下で共に「戦争画」を描く羽目になるとは、なんという運命のいたずらか。ましてFoujitaは、戦後の日本で「戦争協力者」のレッテルを貼られてしまう。パリへ戻ったFoujitaは、レオナルド・フジタとしてカソリックの洗礼を受け、その後二度と日本の土を踏むことはなかった。いつだったか、Foujitaが描いた戦争画の一枚「アッツ島の玉砕」をテレビで観たが、鬼気迫る悲壮な形相の兵士たちの姿には、戦争賛美は感じられず、これを見たら、誰しも戦争に参加する気にはなれなかったのではないか、と思った。フジタは後年、このようなことを言っている。
「僕が日本を捨てたのではなく、日本が捨てたのだ」。

 

 

フランス買い付けから戻りました

ひょん | カルチャー デザイン・建築 旅
DATEFeb 27. 20

こんにちは、看板妻(以前、岡本敬子さんに命名頂きましたので、ひらきなおって自分でそのように申しますのであしからず)の朋子です。一昨日の夜フランスに買い付けから帰国し、店のパソコンの前にドンと座って皆様のご来店をお待ちしております。
余談ですが、ちょうど2週間前の出国直前、新型コロナウィルスに対するテレビ報道で、遠方に住む母親から「フランスではアジア系人種への差別、乗車拒否や入店拒否が…etc,」と心配の電話があり、とうとう「行くのを止めたら?」とまで言われる始末。とはいえ買付けとは簡単に言うものの、これらは何ヶ月も前から仕事はもちろんその他諸々のスケジュール調整にはじまり、リサーチとアポイントまで、けっこう面倒な思いをしながら準備完了し(これらはほぼ夫の仕事)やっと行けるわけで、それらすべてを棒に振ってやめるわけにはいきません。親の心配を振り切り、たどり着いたフランスでは…。実際には拍子抜けするほどにそんな対応はまったくうけませんでした。「え?まったく違うよ!?」と思ったと同時に、報道って、真実の切り取り方ひとつ、さじ加減でどうにでも人の心理をコントロールできるものなんだなぁ、怖っ、て改めて思いました。

さて、今回このタイミングでパリに立ち寄ったのは、買付け以外にもいくつかの目的がありました。そのひとつが、フォンダシオン ルイ・ヴィトンでシャルロット・ペリアンの回顧展を見ること。会期は終了間近で滑り込みセーフなスケジュールでした。
すでに訪れた人々のレポートから、その内容の充実ぶりは予測していましたが、想像以上の再現空間と資料内容に感激。写真を少しご覧あれ。

会場ではヴィンテージ家具を数多く見られる贅沢は勿論のことですが、展覧会とあらば、ここでしか見られない関連作品や多くの紙資料にも心奪われて落ち着いていられません。欲を言えば時間がもっと欲しかった。

階層を分けての展示の中でも、特に興味を惹かれたのは最初期1920年代〜30年代頃のゾーン。ここはいわゆる彼女の最初の活動が紹介されていて、ル・コルビュジエのアトリエに入所した彼女が、ピエール・ジャンヌレやフェルナン・レジェ、ピカソといったアーティストたちと出会い、もともと持ち合わせていた大胆な感性をさらに磨き上げ変化してゆく様子に感激です。

サロン・ドートンヌで発表された共同作品『居住設備』(ここはいわゆるクロームメッキのパイプと革、ガラス、ミラーといった無機質な素材で作られたクールな空間)や、内装空間とインテリア、家具すべての調和が素晴らしい『青年の家』(ここで一挙に藁編み木製椅子が登場!)もそのままに再現されていました。中でも以前書籍で読んでいた若かりしペリアンのコミュニスト的活動からなるレジェとの共作など、興味深いものがリアルな大きさで再現されていました。当時の最先端を行くモダニスト達のコラボレーションがそこここに散りばめられた、刺激的な空間でかなりの時間と体力を消耗。


階層が上がると年代も上がっていく展示で、その後は1940年代の日本滞在で影響を受けた作品紹介や、ここらでジャン・プルーヴェとの関わりあるシステム家具などがちらほら登場。初めて見た時にはあまりの素っ気なさに「これでいいのよ!」とペリアンからパンチを食らった気がしたほど衝撃的だった構造むき出しの引き出し棚も、ガラスケースの向こう側に各種並んでいました。

1950年代に日本で開催された『ル・コルビュジエ、レジェ、ペリアン3人展』の会場も再現されていました。会場構成には少なくない数の復刻品も使われていたと思うのですが、どうしても目がいくのはヴィンテージの家具類と、あまり見たことのないコルビュジエやレジェの絵画やタペストリー、涎です。

そしてそられヴィンテージの家具類は、各ギャラリーから貸し出されているものもチラホラありました。てことは後日展示が終われば、あれらは買えるんですね、お値段不明。聞いてもいいけどユーロの数字から日本円に換算できないほどの桁でしょう。途中、突然にカルダーの特大モビール彫刻もありました、そういった並びがとても魅力的な展示が、続くのです。

ペリアンがデザインしたウォールランプもずらりと、そんな中にorganでも販売しているレアなシェードの長いバージョンも展示されていました。あれ、いいですよ。お客様、うちにあります、いかがですか?(セールス)。
その後、レザルクの設計コーナーや、いわゆるブラジルもの関連コーナー、ペリアンの茶室、と、こんな様子で興奮撮影してきた写真は枚数不明。夫婦合わせたら、きっと呆れるほど撮ってます。

最期に、展覧会場で心躍った展示をもうひとつ。それはペリアンが愛用していたネックレス!でっかいベアリングボウルを自身で繋げたそれは、彼女が手がけた名作椅子”シェーズロング”に横たわる有名なペリアンのポートレイト写真でも身につけられているものです。展示会場にはこれまで見たことのない写真も多く展示されていたのですが、ファッションはつねにショートヘアでアヴァンギャルドなスタイル。雪山では男性のような登山スタイルにビーチでのトップレスと、やることが豪快で、見ていて爽快愉快。あのネックレスは、シャープで大胆な発想と表現をしつづけたペリアンの象徴だと思います。拝むように凝視しパワーをいただいてきました。
展覧会関連の書籍やポスターなども持ち帰りました。少しずつ店頭に並べ始めていますので、ぜひどうぞ。

フィンランドの色

ひょん | デザイン・建築
DATESep 7. 19

フィンランドから買い付けたものを店内にズラリと並べはじめると、他の国から買い付けたものとはひと味違う、なんというか、とても清々しい色合いがたくさんあるなぁ、と改めて感じる。
それらをフリッツ・ハンセンの白いダイニングテーブルやアアルトのバーチ素材の天板に置いていくと、すとんと収まってくれるので、その様子にうっとりとても嬉しくなる。今回の目玉はタピオ・ヴィルカラのパートナーでもあるセラミック・アーティスト、ルート・ブリュックのテキスタイル!その希少さも含め次にいつ出会えるかわからない数枚のテキスタイルは正直なところ全部コレクションしときたいほど。でも、ダメです。ちゃんとお客さまに紹介しなきゃ、ってことで。出しました。

古いヌータヤルヴィ社のヴィンテージ・グラスウェアにも通じる微妙な色。マテリアルにかかわらず共通したその色味には、私、思い当たるところがあります。
ヘルシンキ郊外で見た夕暮れ時の空の色、
オーロラ(これはまだ未体験。飛行機の機内から空の彼方にイッタラ・カラーを見つけて感激したことはあります)、
静かな湖に映る樹々の景色。

フィンランドを旅すると、これらの景色に出会う瞬間があるはず。
だから、もしも、フィンランドに行くことがあるなら、街をそぞろ歩きつつも空を見上げたり、湖や水面に映る景色なんかを見て欲しいです。きっと多くのデザイナーやアーティスト達も眺めてインスパイアされただろうその景色は、静かに心を揺さぶってくれます。もしかすると、見えない色も見えてくるかも。ついでにムーミントロールに会えたりして…?と、小さく脳内トリップ!