デザイン・建築

コルビュジェの風穴

info | デザイン・建築 旅 社会科
DATEApr 1. 20

 
 
 <ラ・トゥーレット>は、パリからTGVで2時間、リヨンでレンタカーを借り、西へ1時間ほど走った田園地帯の小高い丘の斜面にあった。ル・コルビュジェが晩年に設計したカソリックの修道院だ。ぼくらは”cell(細胞)”と呼ばれる小さなワンルームで、夫婦別々に2日間滞在した。コルビュジェ建築を体験するために。
 建築家になる前のコルビュジェが画家になることを目指していたことはよく知られているが、同時に詩や文章にもその才能を発揮していた。ということは、ダダイストだったハンス・アルプが詩から造形へ移行したように、コルビュジェも詩がスタートラインだったのではないだろうか。「建築は住むための機械である」という、彼を一躍有名にした言葉は詩人のものであるし、ダダイスト達が放った挑発的なマニフェストに似ている。だからこそ、時代の変革に敏感な一部の人々からは歓迎されたのだが、もちろん旧弊な保守層からは激しい批判を浴びることになる。「画一的で合理的すぎる」として。だが、本当にそうなのだろうか。
 シャルル=エドゥアール・ジャヌレ=グリは1887年スイスに生まれ、ほぼ独学で建築へ接近し、ペンネームであるル・コルビュジェとして、それまでのアカデミックな建築界になかった挑戦的な提案で旋風を起こした。が、その足跡をたどってみると、モダニズム建築の巨匠というよりも、多彩な才能を持ったアーティストの顔が見えてくるようだ。
 1988年に出版された「ユリイカ」のコルビュジェ特集号を引っ張りだしてみると、<直角の詩>という詩があった。読んでみると、なんだか肉声のコルビュジェに出会えた気がする。

<性格”caractères “>
僕は家や宮殿を
建てるひとだ
人間たちのあいだの
こんがらがった
糸桛(*いとかせ)の真っ只中に生きている
建築をつくる それは 生き物を一人つくることだ。
何かでいっぱいであって いっぱいになり いっぱいとなって
破裂して 複雑な事情のさなか 氷さながら冷たく はしゃいで喜ぶ 満足した若い犬になる。
秩序になる。
近代の大聖堂は 魚や馬やアマゾーヌたちのこうして 居並ぶ上に建てられることだろう
恒久性 廉直性 忍耐 
期待 欲望
と用心。
いずれ目にあらわれることだろう 
ぼくにはそう感じられる裸のコンクリートが壮観であること
それに 線と線の結婚を考えることや
形態を検討することが
どんなに偉大なことであったかが。
検討することが・・・・
 ”Poeme De L’Angle Drout 1955年” 與謝野文子・訳
 *つむいだ糸を一定の形に巻き整える道具。


 コルビュジェは、建築とは「生き物」を一人作ることで、それは機械のようなものだ、と言っている。でも「機械」といっても、決して完成型とは限らない。「恒久性 廉直性 忍耐 期待 欲望と用心」を必要とした、常に「検討」を要する新手の「テキスト」であることも承知している。たとえば、モダニズム建築の理論を具現化した傑作として語り継がれる<サヴォア邸>だが、多大な時間と費用を掛け竣工したものの、いざ住んでみると雨漏りが酷くて困ったらしいことをぼくは訪れた際に知ることになった。建物の「恒久性」に欠けたわけだが、失敗をものともしないガッツに触れた気がして、ようやく興味とシンパシーを持ってコルビュジェに向き合うことができるようになった。彼はシャルロット・ペリアンやピエール・ジャンヌレ、そして坂倉準三などにいつもこう言っていた。
 「良くなるならなんでも好きなことをやりなさい。説明しなくていい、ただやりなさい、前進しなさい」。

 

 ラ・トゥーレットはテキストの満載だった。ウナギの寝床のような部屋、クセナキスの不規則な窓、時として狭すぎる回廊の廊下、小さな祈り部屋にはペリアンのアンフォルムなテーブル。しかし、それにも増して圧巻だったのは礼拝堂だ。建物の最下層に位置する荒々しいむき出しのコンクリートの空間は、カソリックの礼拝堂とは思えない超現実的な世界。神聖で美しい。見上げるまでもなく目に飛び込んでくるのは、天井に並ぶ3つの巨大な円形の窓。待てよ、よく見ると、それぞれが違う角度で空へ開いた円筒形の穴だ。それらは、時間によって差し込む太陽の光の強弱によって、おのおのがレッド、ホワイト、ブルーに輝くという寸法なのだ。ところがこの穴、外から見てみると、3つがそれぞれ違う方向に向けた大砲のように見えなくもない。ひょっとすると、「詩」,「絵」,「造形」によって、コルビュジェの目指したユートピアへ向けた風穴だったとしたら…。
 はたして、コルビュジェは画家になれなかった建築家なのか、それとも建築家の振る舞いをした詩人だったのか。彼のテキストは、注意深く、読む者に委ねられている。そう、モダニズムの巨匠は、決してシンプルではない。

なんとナウい画家だったことか。

info | カルチャー デザイン・建築
DATEMar 14. 20


 藤田嗣治に興味を持ったのは80年代の半ば頃だったか。バブル時代が終りを迎えつつあるというのに、ぼくは”おフランス”への片思い真っ最中だった。きっかけは絵ではなく、おかっぱ頭に丸メガネをかけ、ジロリとレンズに目をやるポートレイト。こんなお茶目な日本人・イン・フランスとあっては、もちろん捨てては置けぬということで、すぐさま下関市立美術館へ駆けつけようやく「猫」や「ヌード」などの実作品に触れた。そして日本画と西洋画がミックスしたような肉感的な線描の素晴らしさにあっけにとられたのであった。それから何度もフランスへ買付に行ったのだけれど、今回ようやく自宅とアトリエを訪れることができた。そしてそこで出会ったのは、Fuojitaの作品にふさわしい暮らしぶりだった。

 古い農家の改装を自ら手がけ、気に入る服がないからとミシンを踏み、額縁ももちろん自作、焼き物も作り、日本製の電気釜でご飯も炊いたFoujitaは、みずからをアーティストではなく、アルティザンと呼ぶことにこだわったという。アルティザンとは職人という意味だろう。似た表現の英語にクラフツマンというのもあるが、その場合は似たような製品を手作りするニュアンスがある一方、アルティザンには工夫をこらしたオリジナルをこしらえる一匹狼の趣がある。そんな画家たちがモンパルナスの安下宿で交友を結び、後にエコール・ド・パリと呼ばれる自由で新しい絵画の発展に寄与したのは1910年代、第一次世界大戦直前のことだった。それはパブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、モイズ・キスリング、ジャン・コクトーなどだったのだが、その中でFoujitaが親友と呼んだのはアメディオ・モディリアーニだったことを知り「我が意を得たり」とばかり、ぼくは密かに喜んだ。 
 何を隠そうモディリアーニは、ぼくが初めて恋に落ちた画家だったのだ。その挙げ句、高校の美術部でモディリアーニ風の油彩画をたった一枚描き上げ、文化祭に出品したところ、あろうことか譲ってほしいという見ず知らずのおじさんのオファーを受けたのだ。どんな絵かというと、当時好きだったマリー・ラフォレの写真をながめつつ、首をやたら長くして、目は灰色で虚ろに、そして両手でりんごを捧げ持たせたもので、青臭い退廃感を醸していたと思う。(お代はいくらだったか忘れたけれど、父に相談の上、確かキャンバスと絵の具代金ほど、つまりメルカリ価格に決定。今思えば、これはぼくのオークション・デビューだったのか)。 

 それはさておき、丸メガネのアルティザン画家、Foujitaは赤貧の時代から一気に画壇の寵児として、パリっ子の耳目を集めることになる。元来オリエンタリズムに多大な関心を持つフランス人にとって、精緻で美しい線描と乳白色の画面の合体は、さぞかしエキゾティックに映ったことだろう。それにあの自作のアヴァンな服装である。実のところ、そのころのFoujitaはフランス語で「FouFou」と呼ばれる人気者だったらしい。「Fou」といえばゴダールの映画『気狂いピエロ』の原題『Pierrot Le Fou』を思い出す。「クレイジー」というか、日本的には「風狂」というところか。それにも増して、Foujitaがプライヴェートでモダンな感覚を兼ね備えていたことを知ることができたのは、生前の暮らしぶりが保存されたこの家を見学できたおかげだ。 
 それについてFoujitaは随筆集『地を泳ぐ』のなかでこんなことを述べているので、ちょっと長いけど概略引用してみよう。

「仕事場は仕事本位に、光線は勿論の事設備の万端が、勝手都合宜く出来ていれば物足りる筈で、申し分はないわけであるが、やはり、生活の殆ど一生涯をこの仕事場で暮らすからには、雰囲気を考慮して、自己の趣向を取り入れておきたいのである。(中略)居間から改まった気分で、戦場に臨むような気がしたり、屠殺場にでも行くような、概して日本等の寒い画室陰気な仕事場に、改まって行くという感じが嫌である。生活の延長、生活が流れ込んだ画室、始終いて別に画室にいるという気分のしない仕事場が理想である。華美豪奢は望みたくないのである。余りかけ離れたモダーンも不自然である。(中略)と言って、普通の座敷なり洋室も好ましくないのである。多少風変わりな、自分だけの好みの、特殊の空気がほしいのである。私は田舎家風な、質朴な、頑丈な、散らかしてもいい、汚しても差し支えのない、気のおけない、安心していられる様な仕事場が好きである。」

 この、何というのか「反対の反対」をつらぬく独創性が絵に通底しているのは明らかだろう。Foujitaは、当時の日本画壇の主流だった”西洋画もどき”を拒否し、パリにおいて”ジャポニズム”をも拒否し、”自前の”作風を展開したといってもいい。それをハイでポップなスタイルでやっちゃったナウい画家だったわけだ。
 ところで、今回日本へ戻ってすぐに『地を泳ぐ』を再読したところ、すっかり忘れていた(というより、30年ほど前にはあまり関心を持っていなかった)画家との交友が記述されていた。猪熊弦一郎である。
 Foujitaは、猪熊の芸大の先輩にあたり、パリにやってきた猪熊はモンパルナス、Foujitaはモンマルトルとアパルトマンは離れていたものの、密な交際を続けていて、それは終生変わることがなかった。以下はまたまた長めの引用だが、ふたりのパリぐらしが垣間見えるようだ。

「モンパルナスから猪熊夫妻が、日曜毎に必ず近くの蚤の市に通勤して、この三人のアトリエを順々に訪れてくれる。寧ろ買い物の自慢である、針金細工の大砲やら、古靴下で拵えた鶏やら、南京虫退治の鞴やらを、古新聞紙の包みから一々大事そうに取り出して、おやじさん、どうだい、見てくださいって言うんだ——日本へ持って行きゃ素敵なもんだ、と独り悦に入って見せてくれるが、私達は又額縁を並べ立てて、この演題の客へ一通りのお説教を繰り返さねば胸がすかぬ。」

 ドイツ軍が今にもパリへ侵攻してこようかという非常時に、蚤の市で見つけてきたガラクタを披露する猪熊の物好きぶりがブラボー過ぎる。多分、丸亀にある彼の美術館所蔵のコレクションの中にはきっとその時の戦利品が混じっているかと思うと嬉しくなってしまった。
 そんな二人のFouがその後、太平洋戦争下で共に「戦争画」を描く羽目になるとは、なんという運命のいたずらか。ましてFoujitaは、戦後の日本で「戦争協力者」のレッテルを貼られてしまう。パリへ戻ったFoujitaは、レオナルド・フジタとしてカソリックの洗礼を受け、その後二度と日本の土を踏むことはなかった。いつだったか、Foujitaが描いた戦争画の一枚「アッツ島の玉砕」をテレビで観たが、鬼気迫る悲壮な形相の兵士たちの姿には、戦争賛美は感じられず、これを見たら、誰しも戦争に参加する気にはなれなかったのではないか、と思った。フジタは後年、このようなことを言っている。
「僕が日本を捨てたのではなく、日本が捨てたのだ」。

 

 

フランス買い付けから戻りました

ひょん | カルチャー デザイン・建築 旅
DATEFeb 27. 20

こんにちは、看板妻(以前、岡本敬子さんに命名頂きましたので、ひらきなおって自分でそのように申しますのであしからず)の朋子です。一昨日の夜フランスに買い付けから帰国し、店のパソコンの前にドンと座って皆様のご来店をお待ちしております。
余談ですが、ちょうど2週間前の出国直前、新型コロナウィルスに対するテレビ報道で、遠方に住む母親から「フランスではアジア系人種への差別、乗車拒否や入店拒否が…etc,」と心配の電話があり、とうとう「行くのを止めたら?」とまで言われる始末。とはいえ買付けとは簡単に言うものの、これらは何ヶ月も前から仕事はもちろんその他諸々のスケジュール調整にはじまり、リサーチとアポイントまで、けっこう面倒な思いをしながら準備完了し(これらはほぼ夫の仕事)やっと行けるわけで、それらすべてを棒に振ってやめるわけにはいきません。親の心配を振り切り、たどり着いたフランスでは…。実際には拍子抜けするほどにそんな対応はまったくうけませんでした。「え?まったく違うよ!?」と思ったと同時に、報道って、真実の切り取り方ひとつ、さじ加減でどうにでも人の心理をコントロールできるものなんだなぁ、怖っ、て改めて思いました。

さて、今回このタイミングでパリに立ち寄ったのは、買付け以外にもいくつかの目的がありました。そのひとつが、フォンダシオン ルイ・ヴィトンでシャルロット・ペリアンの回顧展を見ること。会期は終了間近で滑り込みセーフなスケジュールでした。
すでに訪れた人々のレポートから、その内容の充実ぶりは予測していましたが、想像以上の再現空間と資料内容に感激。写真を少しご覧あれ。

会場ではヴィンテージ家具を数多く見られる贅沢は勿論のことですが、展覧会とあらば、ここでしか見られない関連作品や多くの紙資料にも心奪われて落ち着いていられません。欲を言えば時間がもっと欲しかった。

階層を分けての展示の中でも、特に興味を惹かれたのは最初期1920年代〜30年代頃のゾーン。ここはいわゆる彼女の最初の活動が紹介されていて、ル・コルビュジエのアトリエに入所した彼女が、ピエール・ジャンヌレやフェルナン・レジェ、ピカソといったアーティストたちと出会い、もともと持ち合わせていた大胆な感性をさらに磨き上げ変化してゆく様子に感激です。

サロン・ドートンヌで発表された共同作品『居住設備』(ここはいわゆるクロームメッキのパイプと革、ガラス、ミラーといった無機質な素材で作られたクールな空間)や、内装空間とインテリア、家具すべての調和が素晴らしい『青年の家』(ここで一挙に藁編み木製椅子が登場!)もそのままに再現されていました。中でも以前書籍で読んでいた若かりしペリアンのコミュニスト的活動からなるレジェとの共作など、興味深いものがリアルな大きさで再現されていました。当時の最先端を行くモダニスト達のコラボレーションがそこここに散りばめられた、刺激的な空間でかなりの時間と体力を消耗。


階層が上がると年代も上がっていく展示で、その後は1940年代の日本滞在で影響を受けた作品紹介や、ここらでジャン・プルーヴェとの関わりあるシステム家具などがちらほら登場。初めて見た時にはあまりの素っ気なさに「これでいいのよ!」とペリアンからパンチを食らった気がしたほど衝撃的だった構造むき出しの引き出し棚も、ガラスケースの向こう側に各種並んでいました。

1950年代に日本で開催された『ル・コルビュジエ、レジェ、ペリアン3人展』の会場も再現されていました。会場構成には少なくない数の復刻品も使われていたと思うのですが、どうしても目がいくのはヴィンテージの家具類と、あまり見たことのないコルビュジエやレジェの絵画やタペストリー、涎です。

そしてそられヴィンテージの家具類は、各ギャラリーから貸し出されているものもチラホラありました。てことは後日展示が終われば、あれらは買えるんですね、お値段不明。聞いてもいいけどユーロの数字から日本円に換算できないほどの桁でしょう。途中、突然にカルダーの特大モビール彫刻もありました、そういった並びがとても魅力的な展示が、続くのです。

ペリアンがデザインしたウォールランプもずらりと、そんな中にorganでも販売しているレアなシェードの長いバージョンも展示されていました。あれ、いいですよ。お客様、うちにあります、いかがですか?(セールス)。
その後、レザルクの設計コーナーや、いわゆるブラジルもの関連コーナー、ペリアンの茶室、と、こんな様子で興奮撮影してきた写真は枚数不明。夫婦合わせたら、きっと呆れるほど撮ってます。

最期に、展覧会場で心躍った展示をもうひとつ。それはペリアンが愛用していたネックレス!でっかいベアリングボウルを自身で繋げたそれは、彼女が手がけた名作椅子”シェーズロング”に横たわる有名なペリアンのポートレイト写真でも身につけられているものです。展示会場にはこれまで見たことのない写真も多く展示されていたのですが、ファッションはつねにショートヘアでアヴァンギャルドなスタイル。雪山では男性のような登山スタイルにビーチでのトップレスと、やることが豪快で、見ていて爽快愉快。あのネックレスは、シャープで大胆な発想と表現をしつづけたペリアンの象徴だと思います。拝むように凝視しパワーをいただいてきました。
展覧会関連の書籍やポスターなども持ち帰りました。少しずつ店頭に並べ始めていますので、ぜひどうぞ。

フィンランドの色

ひょん | デザイン・建築
DATESep 7. 19

フィンランドから買い付けたものを店内にズラリと並べはじめると、他の国から買い付けたものとはひと味違う、なんというか、とても清々しい色合いがたくさんあるなぁ、と改めて感じる。
それらをフリッツ・ハンセンの白いダイニングテーブルやアアルトのバーチ素材の天板に置いていくと、すとんと収まってくれるので、その様子にうっとりとても嬉しくなる。今回の目玉はタピオ・ヴィルカラのパートナーでもあるセラミック・アーティスト、ルート・ブリュックのテキスタイル!その希少さも含め次にいつ出会えるかわからない数枚のテキスタイルは正直なところ全部コレクションしときたいほど。でも、ダメです。ちゃんとお客さまに紹介しなきゃ、ってことで。出しました。

古いヌータヤルヴィ社のヴィンテージ・グラスウェアにも通じる微妙な色。マテリアルにかかわらず共通したその色味には、私、思い当たるところがあります。
ヘルシンキ郊外で見た夕暮れ時の空の色、
オーロラ(これはまだ未体験。飛行機の機内から空の彼方にイッタラ・カラーを見つけて感激したことはあります)、
静かな湖に映る樹々の景色。

フィンランドを旅すると、これらの景色に出会う瞬間があるはず。
だから、もしも、フィンランドに行くことがあるなら、街をそぞろ歩きつつも空を見上げたり、湖や水面に映る景色なんかを見て欲しいです。きっと多くのデザイナーやアーティスト達も眺めてインスパイアされただろうその景色は、静かに心を揺さぶってくれます。もしかすると、見えない色も見えてくるかも。ついでにムーミントロールに会えたりして…?と、小さく脳内トリップ!