2020, October

こっけいで辛辣な、ひとりっきりのパンク。

ひょん | 映画・音楽
DATEOct 22. 20


 昨晩のこと、とんちピクルスをオルガンに迎えて、動画配信LIVEというものをやってみた。ぼくと朋子も参加するというので、事前にアアデモナイコウデモナイと考え、機材などは経験のある森重くんに協力をしてもらったものの、そこは素人がやるわけでミスもあったがそれはしようがない。画面が突然真っ黒になったり、ぼくはCDの頭出しを間違えてしまったり、据え置きカメラの前を手持ちカメラを持った野見山さんが横切ったり。さいわい、予定調和なんて考えず、アクシデントが起きても気分だけは「ゴダールで行こう」ノリだったのが良かったのか。協力してくれた森重さん、野見山さん、こよちゃん、偶然&必然に現れたKIDOSHIN、お疲れ様でした。
 内容は、とんちさんのLIVE半分で、あとは『ケツクセ』と題した私家版のコンピレーションCDからの曲を流した。1999年に、スタイルの違う4人の宅録ミュージシャンと一緒に作った、ポップで、ラップで、ラウンジーでヘタウマで、愛すべき一枚だ。その中にはとんちさんも松浦浩司という本名で参加、あの「どうだいドラえもん」の初期ヴァージョンが含まれていたり、”異才”倉地久美夫さんの「井草のスプレー」というシュルシュルな曲も収録されている。そんな「九州派」な音を交えながら、「見えるラジオ」を目指してとんちさんとアケスケな話を楽しくやらせてもらった。
 
 曲を作って自宅で多重録音できるという、夢の様なTEACの4チャンネル・カセット・テープレコーダーが出現したのは1980年始めころだった。自分ひとりで、4つのトラックに演奏や唄を録音できて、ステレオにトラックダウン出来るという、夢の様な機材だった。それがやがてデジタル化されトラック数も増え音質も向上し、あまつさえCD化する過程までをすべてセルフコントロールする自由を得るのには、それほど時間はかからなかった。自室にこもり、日夜を問わずヘッドホンを付けて自作の曲と格闘して「うん、これはいい!」と思っても、翌朝に聴くと「イケてないな、自己満足だな」となることも多い。画家にも通じる自分との果てしない格闘といえば聞こえはいいが、要は自身がプロデューサーでもあるわけで、「俺が俺がの世界」とのバランス、そこんところがムズカシイところでもある。

配信の途中、とんちさんの曲を聴いていてふいに早川義夫のアルバムタイトルのひっくり返し「かっこ悪いことはなんてかっこいいんだろう」という言葉が浮かんだ。松浦浩司の詩と唄には、今で言う「おしゃれな生活」への、彼ならではの返信がある。それは「こっけいで辛辣な、ひとりっきりのパンク」なのだ、といまさらのように気づいた。そういえば、彼のハードコアなもうひとつのユニット名はたしか「屠殺器」だったはず。興味津々。

ヒストリーとはストーリーなんだもの。

ひょん | 旅 社会科
DATEOct 19. 20

 

 久しぶりの旅は、パスポートがいらない国境の島「対馬」だった。一度は訪れてみたい場所だったのだが、行ってみると、勝手な想像と思い入れを軽く越えた、気の遠くなるような長い歴史を垣間見ることになった。
 対馬は、面積の95%は500mくらいの山々で、わずか5%の土地が散在するばかり。人々の暮らしは海を頼りにせざるを得なかった。そのためにはリアス式海岸の複雑な地形が役に立った。なかでも、外海から奥深く入り組んだ複雑な地形を持った浅茅湾(あそうわん)周辺では、縄文期からの暮らしの遺跡に事欠かないのだが、なにより驚くのは、そんな昔から人々は海を渡って交易をしていたことだ。いやそれどころか、何万年前だかには、大陸と地続きだったらしいのだ。
 峰(みね)というところにある、小さな民俗資料館には石器などが大量に保管展示されていて、中に魚や食物を切るための鋭利な黒曜石があった。それらは対馬にはないもので、九州の伊万里あたりから運ばれたとある。わが故郷の近くじゃないか。いきなり対馬が身近に感じられる。日本史の時間はたいくつで、世界史好きだった僕にとっては、ちょっとした発見だった。
 「最新の発見とは、最古の発見である」という説は、なにも考古学に限ったことではない。やれAIだ、次は5Gだといわれても、ああ、また新手のデジタル商品か、面倒くさいなあと思ってしまうのは、歳のせいだ。残された時間を使い、自分が存在していなかった時代のあれこれを上書きするのは、新たな発見なのだ。
 実のところ、対馬に興味を持った理由の一つは、自分の姓である武末がいったいどこらへんに多いのかをネット検索したことにある。すると、本籍である福岡市のはずれの他は対馬だけだった。うわっ”島”だ、もしかすると「自分は渡来人の末裔か」。行ってみることに何のためらいもなかった。
 で、話は対馬だ。
 弥生時代にかけて稲作の技術が伝わり、船による往来が盛んになる。南は沖縄や中国、北は遠く今のロシア領にまで渡っているのにも驚いたのだが、やはり島の北端から最短距離50kmの朝鮮半島との交流がメインだったはず。実際にその場所に行ってみると、水平線と見紛うように釜山が薄っすらと見える。そういえば、ここからすぐの海で日露戦争での日本海海戦が行われたわけで、なるほど東郷平八郎の「本日天気晴朗なれども波高し」そのままの良い天気。
 備え付けの望遠鏡が無料だったので覗いたら、いきなり釜山港の周辺のエノキ茸みたいな高層マンション群が目に飛び込んでくる。すごい倍率とはいえ、近すぎる。しかし、これなら楽に行き来が出来るかといえば、そうはいかなかったらしい。対馬海峡とも朝鮮海峡と呼ばれるこの公海は狭い分、海流が激しく不規則なので、難破する船も多かったのだ。遭難し、幸運にも救助された対馬と朝鮮半島の人たちは、いずれも双方の地元民により手厚く保護されたという。いわば海に生きる人々が発明した史上初の国際法とでもいうのか、「海民」としてのアティテュードなのだろう。
 対馬は神話誕生の地といわれる。島のアチラコチラにソレゾレの形で残っているのは、村々に伝わってきた「海と山(地)の神」の伝説だ。その一つを訪ねて、絶景とカーブと坂道だらけの島をレンタカーでひた走り、浅茅湾の奥深くにある「和多都美(わたつみ)神社」へ行ってみることにした。
 たどりついてみると、入り江の奥が陸につながりその先が神社になっている。安芸の宮島をずっと小型にしたような形態なのだが、こちらは質素というか天然だ。ちょうど引き潮だったので、少しぬかるむ砂地に降りて海に立つ鳥居のほうへ歩いてみたら、「ここは立ち入りを禁止します」との立て看板を見て、罰当たり者はあわてて引き返した。そう、ここは「聖地」なのであった。
 ぼくは立派な神社に行っても心が動かない。権威に裏打ちされたような美しさにはどうしても馴染めないのだ。でも、ここはリアルでイイ。今はコンクリートの鳥居だが、何十年か前までは、竹を4本立てただけだったらしい。できれば、そのまんまのほうがベターだったのに。
 いつ頃かわからない大昔、渡来人がこの湾にたどり着いた。やがて、この他者は様々な技術や知恵を持った「海彦」として「山彦」である地元民から恐れられつつ、畏敬の念を持たれ…、なんて「日本昔話」めいた逸話が頭をよぎる。それは7世紀頃に大和朝廷が誕生し、中央集権化を図る時の神話として機能してゆく際に、格好のストーリーに変換されに違いない、などと妄想する。だって、ヒストリーとはストーリーなんだもの。
 それにしても、アナゴ、旨かった。たまに食べるとしても、握り寿司の上に乗っかった焼きアナゴくらいだが、新鮮な刺し身は格別だった。あの異形をした魚は対馬によく似合う。
 食べたくなったら、また行くのだゾ。