ヴィンテージを巡るよもやま話。

info | ひと カルチャー デザイン・建築
DATEJun 26. 22

遅ればせですが、4月15-17日に開催したRHYTHMOSの47CARAVAN(ヨンナナキャラバン)の事後報告です。
と言っても、いつものようなぼくの駄文ではなく、RHYTHMOSの飯伏くんがポストしているポッドキャスト<出る杭とたんこぶ>(いいタイトル!)での生トーク。行きつけのピザ屋でワインの酔いも手伝っての「ヴィンテージを巡るよもやま話」、聴いてみてくださいな。

【Season2/EP.03】47CARAVAN vol.02 福岡県 @organ

あなたは「地球の日本人」ですか、それとも「日本の地球人」ですか?

ひょん | カルチャー 社会科
DATEApr 2. 22


 それは2014年のことでした。1月の鹿児島に始まり、2月ローマ〜ナポリ〜シシリア、3月はヴァンクーバー、6月北海道、7月ヘルシンキ〜ユヴァスキュラ、そして11月には台東〜花蓮、年越しには亡き犬ユキと一緒に四国へドライブと、あのころはよく動いたものです。北海道はアイヌ、台東は原住民、松山は漱石への興味からだったのですが、基本は買付けのため。おまけに4月からはラジオの生番組を始めたので、アタフタした1年だったようです。
 なぜ2014年を思い出したのかというと、ロシアのクリミアへの侵攻があった年だったからです。ニュースを知ったのはシシリアにいた時だったか。とっさに頭に浮かんだのは1853年のクリミア戦争でした。そして、戦場で献身的な働きをしたナイチンゲールとその後発足した国際赤十字社のことを思いました。ヨーロッパ全体を巻き込んだ悲惨な戦争で、国境を超えた看護の必要性が初めて世界で意識された場所だったからです。ところが、そんな場所でまた紛争が起きてしまったことを外国にいて知らされたわけで、なんだかリアルに感じたのかもしれません。
 19世紀に起きたクリミア戦争は、その後20世紀の第一次大戦へとつながったわけで、世界史の中の出来事が、現在にも引き継がれているという日常をつきつけられた気がしました。それから8年、突然そのクリミア半島のあるウクライナ自体で新たな戦争が起きてしまいました。
 人々はこの出来事に驚き、ロシアに対する経済制裁が各国から発出され、国連でも非難決議がなされました。しかしウラジーミル・プーチンの発言は、核兵器の使用をほのめかすまでにエスカレートしています。第三次世界大戦への危惧さえ感じてしまうのはキューバ危機以来のこと。そんな時、日本の前前首相などは、アメリカの核の使用を日本においても共有しようとする意見を表明した。いわゆる「核の抑止力論」ですが、時代錯誤の愚考だとしか言いようがありません。北朝鮮が持つ抑止力としての核軍備を非難しながらも、自分達も核で対抗しようとするヤクザな戦法でしかない。「抑止としての核兵器」とは相手への脅しの道具であり、その方法が世界に広がれば、使ってみたくなる為政者があらわれます。それは他国だけではなく自国の滅亡へと到る麻薬でしかないと思います。
 とまあ、古道具屋なりのボヤキはさておいても、案外古いものには馬鹿にできない発想があります。それは、二つの大戦を経て、設立された「世界共和国」への希求を込めた「国連」のことです。
 さまざまな機関を持つ国連ですが、重要であるはずの安保理が機能していません。それは、だれもが感じているはずです。決定権を持つ5大国の拒否権がその原因であることは確かなのですが、それに対する妙案はないと諦めているかのようです。しかし「常設の国連軍」を持つという案があります。でも、あまり知られていない。国連のガリ前事務総長などから提案されていたのですが、メディアがほとんど取り上げていない。そのためか僕らの関心を集めていません。それに対して、随分前に柄谷行人氏が以下のような考えを示しています。
 「日本の憲法9条は、守るという掛け声だけではだめだろう。このままでは、”抑止力”という名のもとに改憲されてしまう。それに対して日本ができる最良のことは、自衛隊を国連に差し出すことかもしれない。唯一の被爆国として我々にはそうする理由があり、そのことで世界は初めて日本を認めざるをえないからだ」。
 しかし、この提案を現実的にうけいれる日本人がいるのでしょうか。それはジョン・レノンの”Imagine”と同じように、夢想家の戯言として一蹴されるのでしょうか。
 ぼくは「国連」って「モダニズム」の政治版だと思っているのかもしれません。どちらも第二次大戦前後の出来事であり、どちらも「人類の自由と尊厳」みたいなものを望みながら、いまだ充分に成就していません。訳知り顔の政治家はいつも「それはユートピアンなイデアでしかない」としたり顔でのたまう。彼らは「結果」こそが「歴史」と思っています。しかし、「”未来”について考えることは、”まだ意識されないもの”を指しています。それは未来からやってくるもの、実現されることはないが、われわれがそれに近づこうと努めるような指標としてあり続けると」と柄谷氏は語ります。
 この戦争が一体どのような結末を迎えるのか。実のところ、この戦争は「国家」=「民族」という”幻想”のせめぎあいというやっかいな構造です。だから簡単には先は見えません。そんな中、ひとつだけかすかなヒントが示されました。それは、アメリカの宇宙飛行士が、ロシアの宇宙船で地球に無事帰還したことです。
 当初、日本を含む西欧の対ロシア経済制裁などに対して、ロシアは、米ロの3宇宙飛行士を乗せた国際宇宙ステーションから、アメリカの飛行士だけを残して帰還するという子どもじみた脅しをツイッターで表明したのですが、後に撤回せざるを得ませんでした。
 しばらく前に、アメリカ政府はUFOの調査の重要性を示唆する報告を発表し、だれもが「やっぱりそうだよなあ」と思ったのではないでしょうか。無限と思われる宇宙に地球外生物がいないとは思えないからです。そして彼らが地球にやってきた時、ぼくらはどんな反応をするのでしょうか。あなたは「地球の日本人」ですか、それとも「日本の地球人」ですか?
 

 
 
 

バウハウスはROCKなスタジオだった。

ひょん | デザイン・建築 映画・音楽
DATEDec 20. 21


 ”cheap enough for the worker and good enough for the rich”と言ったのは、Wilhelm Wagenfeld。日本語ではヴィルヘルム・ヴァーゲンフェルト(これまでヴァーゲンフェルドと表記してきましたが、どうやら濁音ではないらしい。まったくドイツ語はやっかいです)。意味としては「労働者も買えて、金持ちにもピッタリ」といったところか。この皮肉まじりの言葉は、モダニズムの定義にもぴったり、僕の問題意識のど真ん中を突くものだった。
 ヴァーゲンフェルトは1919年にドイツのワイマールに設立された初期バウハウスの学生であり、あの”バウハウスランプ”を生み出した若きプロダクト・デザイナーだった。スタートは「シルヴァースミス(銀細工師)」。といっても銀ばかりではなく、色々な金属を使い、装飾品、家庭用具などを製作するデザイナーでヨーロッパ伝統の、どちらかといえば富裕層へ向けた金属加工を営んでいた人たちだ。一方ヴァーゲンフェルトは、普通の人々も使えるデザインを目指してバウハウスへ入学、ドローイング、素描を重ねることを選択している。
 画家におけるデッサンと同じで、頭に描く形体が現れるまでひたすらさまざまなアイデアを描き続ける姿は、ある種の「錬金術師」を思わせる。そんなヴァーゲンフェルトのモットーは”More drawings!(もっと描け)”だったという。実際のところ、アルヴァー・アアルトにしろタピオ・ヴィルカラ、ル・コルビユジエにしても、例外なくデッサンがとても魅力的だ。きっと「指を動かし続ける」って、芸術家の基礎研究みたいなもので、やりたいことのエッセンスがいっぱい詰まっている。
 僕がヴァーゲンフェルトを知ったのは、モダンというよりアール・デコっぽい、極度に薄っぺらくデフォルメしたティーセットだった。でも最初に買ったのはハート型の花瓶のポスターだった。几帳面に引かれた縦横、斜めの直線の間隙を走る太く生々しい曲線は、よく見ると何度も修正を重ねているし、ガラス口縁の角度などポイントとなる箇所には赤く小さな文字で指示をいれているのが、いかにもドイツ的クラフツマンらしい。緊張感をかいくぐって現れた優しさという逆説が、ヴァーゲンフェルトにしか生み出せないシェイプとなって結実している。それは、ヴァーゲンフェルトだけの線なのだ。

ついこの間、ビートルズの『Get Back』を配信で観まくった。2時間あまりの未公開映像が3部に渡り計6時間強。映画は、後にも先にも現れないであろう革命家たちが見せる2週間に渡る制作現場のあからさまなドキュメントだ。そう、いわば音楽のデッサン作業に立ち会う6時間だった。
 ポール・マッカートニーの呼びかけに応じてガランとした映画スタジオに集まったものの、もはやバラバラになりつつあった4人の共同作業は容易には進まない。ところが、アップルビルの半地下に完成したばかりの自分たちのスタジオに場所を移し、リラックスして新曲のアレンジに取り掛かると、何かが変化していく。ロックンロールやR&Bなど彼らの初期衝動を突き動かした曲を心のままに延々ジャムっているうちに、「やれるだけやれば、まとまっていく」と促すポールに、多分二人の間で昔から繰り返されてきたように悪ふざけで答えるジョン・レノン。歯車が少しづつ回り始める。しかし、四人の異なる個性を一つのラインにまとめ上げるのは楽ではない。そもそもデビューからのビートルズの作品には、無難に仕上げたものは一つもない。常に変化へのトライアルだったといえる。それは、新曲のライブパフォーマンスをアップルビルの屋上でやるという、誰もやったことのない破天荒なアイデアへと向かった。

 一見すると、ヴァーゲンフェルトのデッサンには破天荒さは見当たらないが、ビートルズと同じように、トライ&エラーを希求する自由への熱量を感じることはできる。それはバウハウスという極めて革新的な環境のなかで醸成されたエモーションであり、実はそれこそがモダニズムだった。「ポストモダン」などと、過去に起こった一過性のムーヴメントがあたかも終わってしまったかのような言説は勘弁だ。モダニズムは「永続的な運動」であり、過去に起こった一過性のムーヴメントではない。そこではたと気がついた。バウハウスとは、強い個性を持った他者が集い「安全なことだけやってもつまらない」というROCKなスタジオだったのだ。

「チイキすごい」なのだ。

ひょん | 旅 社会科
DATENov 25. 21


 壱岐へ行ってからもう2ヶ月近くなる。対馬のあとは壱岐と決めていたから、台風が接近していたのは承知の上で行ってみた。
 天気予報なんかだと「壱岐対馬地方」と一緒にされるけど、実際どうなんだろうという疑問があったので、事前に少し調べた。すると、まずサイズが違う。対馬は細長く、南北が82kmとそれなりに大きな島だが、壱岐は丸っこくて南北17kmと、整備された道をレンタカーで縦断したら30分位。思っていた以上にリアルな小島だった。なのに、山だらけの対馬に対して壱岐には平野があるという。二つの島は地政学的に正反対なのだ。
 博多埠頭を出て、能古島、志賀島の間を抜けるともう玄界灘。壱岐の郷ノ浦港まではフェリーで2.2時間。ジェットフォイルだとたった1時間だけど、甲板に出られないし、たったの2時間くらいで大陸に近い「島」に行けるっていうのになにもそう急ぐことはない。天気予報によると波の高さは1mで曇り空。大丈夫、ヨーソロ!

 郷ノ浦に着き、早速食べたアジフライは普通だった。ウニは不良で高値だったので3日間で一回だけ、それも妻が召し上がっただけ。泊まったのは、島の西の漁港に面した老舗温泉旅館。つまり釣り人向けの非ラグジュアリーな宿。若主人と思しき人にチェックインをお願いしていたら、手狭なロビーの端っこでテレビを見ていた老人がこちらをジロッとみて、やにわにぼくらの荷物を古びた階段をよっこらしょと部屋まで運んでくれた。
 その夜のこと。小雨の中、玄関横の喫煙場でひとりタバコをふかしているぼくに、どこからともなくその老人が現れ「せっかくやったのに、天気がねえ」、と話しかけてきた。「明日、辰の島へ渡りたいのですが船は出ますかねえ」と尋ねると、「これくらいの波なら出すやろが、まあ客が少ないけんどうやろか」とあいまい、かつ正直な返事。「じゃあ、あした案内所に電話してみます」といって部屋に戻った。
 翌日、中国へ向かうはずの台風が急に進路を東へ変えたので風雨が強まり、辰の島への船は欠航となり、代わりに壱岐の古代の足跡をたっぷり味わうことになった。なかでも、黒川紀章が設計した一支国博物館は「この小さな島でこの建物は」と思うほどポストモダンと言うか、とにかく立派だった。なにしろ、魏志倭人伝に登場する島である。収蔵物も豊富だったけど、一番の驚きは、豚の骨が大量に発掘されていたこと。それは「日本人は食肉はしていなかった」という日本史で教わったことを覆す発見なのだ。ましてや、食用とするために、人々が共同で飼育していたことの証なのだ。コメだけで生きていたわけないので安心した。そんな弥生時代の共同体が、すぐ隣にある「原の辻遺跡」。復元された環濠集落は思った以上に広大で見事に整備されている。人っ子一人いない中、曇り空を強風だけが吹き抜けていた。弥生の時代にも吹いていたであろうこの「島風」は、風力発電にもってつけだだろう。

「うちはオヤジが町長だったとき、ここらを埋め立てて岸壁を作って旅館ばはじめたとよ」と、突然旅館の来歴を聞かされたのは、その夜のこと、やはり玄関脇でタバコを吸っていた時だった。老人は使用人どころか、この宿の主人だったのだ。
 「隣にあるでしょうが」と木造2階建ての家屋を指し、「いまはあたしたち家族が住んどるけど、最初はこれが旅館やった。そらあ客が多くて、じゃあちゅうことで、このコンクリートの新館を作ったとですよ。いっときは良かったばってん、今はコロナで客も減ってコンクリートの雨漏りはするし、木造のほうがよっぽど造りが良か」と力説。ぼくはといえば、町長によるインフラ整備に伴う旅館経営の顛末に、離島の実情を垣間見た気がしたが、「そうなんですか」と答えて部屋に戻った。
 「地方」という言葉がいつしか「ローカル」になったのはいつ頃からだろう。ここ壱岐も、島の北にある勝本港にはオシャレなB&Bや、地ビールが美味しい垢抜けたカフェもあって驚いた。この島は都会から身近に脱出する人のリゾートを目指しているようだ。寿司屋のおじさんも、お客さんはほとんど博多からだと言っていたっけ。
 壱岐に比べると、対馬は山だらけで、その昔、島内の移動手段はもっぱら船だったらしい。弥生時代、朝鮮半島から海路で伝わった稲作が、対馬では根付かなかったのもうなずける。一方の壱岐は、稲作が根付いたことで、対馬に比べると恵まれていた。したがって、「日本化」した度合いが強いともいえる。反対に対馬は幕府の重要な対外外交の場であり、対馬はそれを利用して朝鮮と独自の交易関係を築いていた。釜山に「倭館」という居留区を作るなど、ある意味で朝鮮化もしていただろう。なにしろ、日本が植民地化していた時代には、対馬の人は映画を見るのに博多ではなく船に乗り釜山の映画館へ日帰りするほど朝鮮は身近なところだった。コロナ前にはニュースが「対馬は韓国人観光客だらけ」と騒いでいたが、然もありなん、釜山までの距離50kmという身近さは半島に住む人々にとっても便利だったわけで、今に始まったことではない。
 コロナのおかげで、もう2年近く海外へ行けていない。代りに近場の、それも九州北部の旅が多くなっているのは意味不明の「ニッポンすごい」への疑問からだった。「海に囲まれ、資源に乏しいこの国」という悲しげな物語ではなく、四方が海だからこその自由な交通があったのだと思う。そのためには「ローカル」と美化せず「地域(コミューン)」でいい。大小の差はあっても、日本は「島の集まり」だ。海や山や平野にめぐまれた多様な地域の人々が、この島々に住み続けてきた。「チイキすごい」なのだ。
(P.S. 写真の牡蠣うどんはおいしかった。店内にずーっと流れていた70年代風フォークソングが気になって、ひよっとするとここの主人の自作自演かもと思い尋ねたところ、「ああ、これナガブチです」とのこと。なるほど「おだし」が強かった。)

 

Pierrot Le Fou

ひょん | 映画・音楽
DATESep 13. 21


 ジャン=ポール・ベルモンドの死亡記事を西日本新聞で見つけて「えっ、まだ生きていたんだ」と思った。つまり僕にとっての彼はフェルディナンであり、頭に巻きつけたダイナマイトにマッチで火をつけた瞬間、「ああ、またバカなのことを」との言葉を残して、とっくに地中海で永遠となったはずだった。
 『気狂いピエロ』という映画を大学の授業をサボって観たのは新宿にあったショボい三番館。洋画といえばすぐに無茶な邦題を付ける配給会社にしては、ジャン・リュック・ゴダール監督に恐れをなしたのか、原題”Pierrot Le Fou”のほぼ直訳だった。ところがその後、FM番組でこの映画を紹介しようとした僕は、「キチガイではなくキグルイでお願いします」と局の人に頼まれて、唖然としたことがあったがソレハソレ。
 この映画は、妻子持ちのプチブルで本好きな虚無男フェルディナンが、ある日、元カノだったマリアンヌと再会し出奔&逃亡しつつ事件に巻き込まれたうえに裏切ったマリアンヌを殺し、自らも命を絶つというありがちなストーリー。にもかかわらず、ゴダールの即興的演出や様々な引用&警句と室内のやっつけ装飾のモダンさ、何よりも鮮烈な映像美とテンポが素晴らしく、まったく退屈なシーンがない。それどころか、二人が松林で突如繰り広げるコミカルなミュージカルや、ベトナム戦争へのサタイアを込めた寸劇などがカットインされるからたまらない。それは、凡庸な映画的リアリティーを軽蔑する映画だった。
 「ジャン=ポール・ベルモンドはリアリズムに欠けているが、なぜかリアルな俳優だった」と、あるフランス人が言っていた。
 役者が作りこんだリアリズムは、時として観る者をシラケさせる。ところが、ベルモンドときたら”虚無だ虚無だと言いながら飯をかき込むような男”を難なく地で演じていた。観終わった後、焦った。愛された一流のピエロだった。
 
 

私の罪はなんですか?

ひょん | カルチャー 映画・音楽 社会科
DATEAug 21. 21

 世論の反対を押し切り開催されたオリンピックが終わった。暇だったせいで、たっぷりテレビ中継を見てしまった。「ニッポン悲願の金メダル!」というアナウンサーの絶叫は相変わらずだが、何年も見ていなかったせいか、選手たちの多様な国籍と、彼らのキャラ立ちにびっくりした。The times they are a changing。
 まず、タトゥーが目立った。そして数は多くなかったもののサングラス。マラソンならわかるが走り高跳びの、多分有名な人なんだろうが、まるでロックスターみたいなサングラスがお似合いの褐色の選手だ。1回目のトライはクリアしたしサングラスも付いていたが、2回目は失敗でサングラスも顔から落ちてしまった。めげずにかけ直し3回目に挑戦したがやはり落ちてしまった。でも、彼は悪びれるでもなくサングラスをかけ直し、観衆(と言っても関係者くらいだが)に向けて拍手を促した。ちょっとジェイムズ・ブラウンの”マントかけ直しショー”を思い出した。どこの国の選手かは関係なく、天晴れだった。
 オリンピックで思い起こすのはレニ・リーフェンシュタールだ。彼女はヒトラーのオリンピックと言われた1936年のベルリン大会の記録映画『オリンピア』を監督したドイツ人。そのあまりにも斬新な手法の映像で世界をアッと言わせた。この大会でオリンピックが変わったと言ってもいい。創意工夫を凝らしたアーティスティックな撮影と編集で、スポーツがドラマになったからだ。ついでに言うと、その後1986年のロスアンジェルス大会ではtoo muchな演出が持ち込まれ、商業主義に走った。そして次のソウル大会ではプロ選手のオリンピック参加が始まった。もはやオリンピック憲章の理念はグローバル資本主義に飲み込まれた。
 一方、レニ・リーフェンシュタールは戦後になるとナチスのプロパガンダ映画に協力したとして激しいバッシングを受けることになる。「美しい肉体にファシズムを見る」というような、日本にも起こった戦争画を描いた藤田嗣治のことを思い出させるが、それはそれ。芸術家が国家の戦争協力に加担したかどうかが問われた時代だったわけだ。
 彼女自身は1995年に公開されたドキュメンタリー映画『レニ』の中で、「自分は政治には関心がなっかた」と明言している。ただし「私は自分の国を愛している」とも語っている。この辺はなんとも難しいところだが、ナチス側としては彼女の才能を利用した国策映画を狙っただろうし、レニとしては潤沢な予算で思う存分映画が撮れることに集中したことは想像できる。それにしても、ドキュメンタリー映画の中で語ったレニの言葉が強烈だった。
 「正気じゃなかったのよ」。
 僕がレニ・リーフェンシュタールを意識したのは”The Last of the Nuba”と題された1973年の写真集だったと思う。スーダンのヌバ族を美しいカラーで表現した古本を手にしたのは、音楽ではワールドミュージック、インテリアではサンタフェ・スタイルが話題になっていた1980年代。西欧より遅れた文明と言われた第三世界に”独自の洗練”を気付かされた瞬間だ。この本には、戦争協力の「誹り(そしり)」からようやく立ち直ったレニ・リーフェンシュタールが、ヌバの人々の「美しい肉体」に魅了され、夢中でシャッターを切った瞬間が記録さている。それはベルリンオリンピックの記録映画に充満していた「人間力の肯定」でもあるのだが、何よりも、ヌバという”素材”こそが彼女の美的直感を刺激したからだったのだろう。
 マーシャル・マクルーハンは芸術家を「感覚的認識の専門家」と呼んでいる。それに対してスーザン・ソンタグは述べている「そうした芸術は多数の人間の手の届くものを蔑視するような、エリートに基づいた実験のことを指すものではない」と。なるほど。しかし『オリンピア』は明らかに「多数の人間の手に届いた」はずだ。
 芸術を司る「感覚的認識の専門家」たちには、時に「正気じゃない状態」が必要だ。レニ・リーフェンシュタールは、ドキュメンタリー映画『レニ』の最後にこう述べている。
「私の罪はなんですか?」

P.S.もしも彼女が生きていたなら、もうすぐ始まるパラリンピックの方に「人間力」を感じたかもしれません。

形としてではないBAUHAUS。

ひょん | カルチャー デザイン・建築 社会科
DATEAug 8. 21

 

 今organを営んでいるビルを建てることになったのは、かれこれ38年前。住んでいた平屋建ての家の目の前に突如私鉄の駅が移転してくることになり、区画整理に巻き込まれてしまい、ビルに建て替える羽目になったのだ。東京でのバンド暮らしをやめ、福岡に戻って人生初の大仕事に挑戦することになった。
 とは言っても、デザインやインテリアには興味はあったが、建築にはほとんど関心がなかったし、予算も乏しい。そこで、コンクリート素材むき出しで、余計なものがなく、地味変なものを目指した。その時、バウハウスを思い出した。雑誌で垣間見た丸っこいBAUHAUSというフォントと、ドイツにあった建築&芸術の学校だというところも気になっていたし、何よりも実験的な匂いがした。
 とは言っても、今このビルにバウハウスの影響を見て取る人はいないかもしれない。でも形状はさておき、自分なりの試みは色々やったつもりだ。例えば靴のままの生活をするということ。「日本人=畳」という法律があるじゃなし、誰にも迷惑をかけない自分なりの生活を選択できるチャンスだと思った。おかげというか、後年になって私的な空間だった4階を店にする時も、一切改装する必要がなかった。
 それはさておき、最近またぞろBAUHAUSのおさらいをして気がついたことがある。それは建築やデザイン、写真、工芸など様々な分野でモダニズムを模索、実行した多くのパイオニアにばかり目が眩んでいたことだ。それは、例えばヴァルター・グロピウス、ヨハネス・イッテン、ワシリー・カンディンスキー、パウル・クレー、ヨゼフ・アルバース、モホリ=ナジ・ラースロー、マルセル・ブロイヤー、ヘルベルト・バイヤー、マリアンネ・ブラント、ミース・ファン・デル・ローエと、枚挙にいとまがない。BAUHAUSがモダニズムの先駆けと言われる所以である。
 しかし、ポイントはそんなサクセスストーリーではないことをK氏の本を読み返して思った。「BAUHAUSが成し遂げたことはその構造自体にある。教官、生徒、職人という身分差を超えたコミューンの中で行われた試みこそが革新的だった」というわけだ。確かにそうかもしれない。
 例えば、上に挙げたスター達の中で、ヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエは校長であり、マイスター(教官)だったのはヨハネス・イッテン、ワシリー・カンディンスキー、パウル・クレー、ヨゼフ・アルバース、モホリ=ナジ・ラースローなどで、彼らは作家であり、また職人的な立場をも兼ねていただろう。そしてヘルベルト・バイヤー、マリアンネ・ブラント、マルセル・ブロイヤー、ヴィルヘルム・ヴァーゲンフェルドは学生だったが、在学中からその才能を開花、プロダクトを生み出し、後にマイスターとなっている。また、カール・オーボック2世は、金属職人でありつつBAUHAUSで学び、独自のモダンな作品を生み出している。言って見れば「変化へのチャレンジ」を互いにシェアするというまるで今的なアイデアだったのだ。
 BAUHAUSには、集まった人々の出自や個性が強く反映している。ドイツ、ロシア、スイス、オランダ、ハンガリー、アメリカ、日本などに加え、ユダヤ人という他者のメンタリティが同居していた。それは「国民国家」という幻想のナショナリズムにとらわれないアナーキーな運動の実験場だったのではないか。
 そんな自由で開かれた芸術学校がヴァイマールに設立されたのは決して偶然ではなかった。
 未曾有の第一次世界大戦で敗戦目前だったドイツ(実際は諸侯が乱立する連合国家)は1918年、兵士の反乱で帝政が崩壊し、翌1919年にはヴァイマールの議会で、男女平等の普通選挙や労働者の権利などを定めた、当時最も先進的な憲法を制定している(この憲法、第2時大戦後の日本国憲法にも影響を与えている)。同じ年に設立されたBAUHAUSにもヴァイマールの憲法理念が反映されていただろう(もちろん、戦後の復興のためにBAUHAUSを「産学協同」の大学にという目的もあったのだが)。
 例えば、開校時の学生募集に対し、予想を超える女性の入学があり、グロピウス校長もあわてたらしい。そんな中で、マリアンネ・ブラントは、当初、女性には認められなかった金工工房に入り、なんと責任者となって、ランプ、灰皿、ティーポットといった現代のインダストリアルデザインの先駆けとなる作品を生み出した。それどころか、フォトモンタージュなど写真においても革新的な表現を試みている。職人とともにアカデミックな国立の学校で女性が学ぶということ自体が異例だった時代である。まるで、アイリーン・グレイやシャルロット・ペリアンの先駆け、女性の社会進出だ。しかし革命にも変化は付きまとう。同志と呼ぶにはあまりにもキャラが強い同士だし、「産学協同」に反対する学生達の左翼的活動も激しさを増す中、1933年にはナチス政権からの抑圧もあって、BAUHAUSは14年間の歴史の幕を自ら降ろすことになる。
 その後のBAUHAUSに関わった人々だが、主だったメンバーはアメリカに渡り、ある人は著名な大学に招かれBAUHAUSの教育理念を広め、またある人は建築家やデザイナーとして活躍する。そして彼らが撒いた種が、戦後アメリカの好景気の中で花開き、やがてミッドセンチュリー・モダンというムーヴメントとして1990年代の日本のメディアを通して僕らに伝わったわけだ。
 そこで気がついたことがある。organをスタートして現在まで、扱っている様々な商品にはBAUHAUSのスピリットが受け継がれたものが多いことだ。いやいや、多いのではなく全てがそうなのかもしれない。でもそれは、必ずしも見える形としてではない。

The Art Of T-Shirts & Glasses

info | new item カルチャー
DATEJun 5. 21

サクッとシャツを着たい季節を迎えて、90年代にL.A.から世界に向けて発信されたTシャツのプチセールを行います。
ウォーホルやバスキア、バウハウスからビューティフルルーザー、小野洋子、奈良美智、村上隆など、アーティーなヴィンテージ Tシャツを限定販売。
他にもジェンダーフリーなシャツや古着もあります。メッセージを込めた気分転換です。
同じタイミングで、レスカの新しい眼鏡フレームとサングラス、ヨーロッパのヴィンテージフレームといったアイウェアもご覧いただけます。どうぞ足をお運びください。
一部アイテムをオンラインショップにも紹介しました。 アイウェア>>

*期間中は、コロナ対策を行いながらの展示販売になります。ご協力をお願い致します。

06/12(土) – 06/27(日)
木&金 14:00-18:00 土&日 13:00-19:00 ( 定休日 / 月曜日 – 水曜日 )

「先行したもの」を発見する、その 2 。

ひょん | カルチャー 社会科
DATEMay 28. 21

 ワクチンの先行予約は済ませたものの、接種がいつになるのか未だに先が見えない。『博多祝い唄』じゃないが、”しょんがねえ”気分が毎日続くのはまったくやりきれない。マスクを付けて外へ出るのも億劫だし、こうなりゃ、読んだ本をまた読むのにいいタイミングかも知れない。巣ごもりなんだもの。
 読み直すのは以前気に入った本なのだが、どうな風に気に入っていたかが判然としない。大筋は気に入っていたのだが、なにか大事なことを忘れていて、その何かが今の自分には欠けている気がするのだ。その場合、パラパラとページをめくり、自分が引いた線が目安になる。それも適度に多い方が引きが強い。ほー、そんなに引いてたのか、なになに…、ってな感じ。
 今回は田中優子の『近世アジア漂流』。以前読んだのは5、6年前だから、”おさらい”するインターバルも悪くない。ずっと古い本より、近過去の方が自分には効き目があるからだ。
 最初に読んだ時には「近世」というのがいつの時代を指すのかがよくわからないまま読んでみたのだが、今回はそこから掘ってみた。「古代・中世・近代」で良さそうなものなのになぜなのか、WIKIに尋ねてみた。すると、どうやらルネッサンス以降に考え出された時代区分らしく、西洋では15~16世紀、日本では17世紀あたりに始まり、どちらも19世紀には近代へ移行したとされているようだ。中世とは封建的な時代であり、「民主的な近代が訪れる前段階」といった過渡期的な時代設定なのだろう。
 そんな近世における日本は鎖国状態だったはず。しかし実は中国・朝鮮・タイ・ヴェトナム・インドネシアなど、ほぼアジア各地域との繋がりが盛んだったというのがこの本のキモ。それも、色んなカルチャーの視点からだから面白い。しかも、そこにヨーロッパ人も加わって、アジア人と入り乱れた仲介貿易が行われていたわけだから、さらに面白い。たとえば海賊と思われている「倭寇」も、日本人は2割程度で、中国人、ポルトガル人や東南アジア人との混成貿易商人だったと知り、「へーえ」となる。当時の日本は約90もの国々からなる島国であり、後の近代国民国家ではない。例えば、ボクの国は「筑前」でしかなかった。つまり、海には国境や排他的経済水域などなしの貿易だ、スリルとサスペンス満載だったはず。そんな荒くれどもに審美眼があったかどうか知らないが、おかげで様々なお宝が遠くジャポネに流れ込んだというわけだ。
 18世紀後半の江戸は,どうやら最新の消費生活を求める世界有数のメガシティだったようだ。「洒落本」や「黄表紙」と呼ばれる出版物は早くもメディアの役割を果たし、人々は「ブランド物」に血道を上げていたという。中国や南蛮渡来の輸入品と、国内生産の高価でレアものが、読み物や浮世絵などのビジュアル紙を通して、数寄者たちの欲望を喚起した時代だったのだ。そんな中、TSUTAYAの創始蔦屋重三郎などが、海外の図版にある蚤の絵を”疫病の親玉”としておどろおどろしく誇張してしまった黄表紙などは、当時の幕府の無策ぶりへの不満のはけ口としてのメディアの役割も担っていたわけだ。
 お洒落物としては、たとえば写真にあるたばこ入れのキセルを包んだ革。イギリス東インド会社が長崎商人を通して日本へ売り込み、馬具や屏風、そしてこのような小物に応用してプレミアムな舶来品として商品化したもの。また、江戸の粋の象徴である縦縞のタバコ入れはインドやインドネシアからやってきた更紗の影響だし、下は日光東照宮に取り付けられた当時オランダで流行していたイルカの飾り。近世の日本は、僕らの想像を超えた世界市場と直結した国内市場の時代だったとは驚き桃の木、エルメスの木なのだ。
 となると、「日本=島国」というクリシェがネガティヴにしか使われなかったのには、大いなる疑問を持たざるを得ない。 島国であることは、ヨーロッパ大陸のような否応無しの地続、地縁の絶え間ない戦いとは無縁であり得た幸運でもある。何より、海という交易空間を使って、先祖たちはアジア地域を縦横無尽に交通していたことを忘れるわけにはいかない。江戸時代とは、近代の訪れを待たずに、独自のポストモダニズムを、それも無意識のうちになし得た世界的にも摩訶不思議な時代だったのかもしれない。
(写真は田中優子著『近世アジア漂流』朝日出版社1990年より)
 

「先行したもの」を発見する。

ひょん | デザイン・建築 社会科
DATEApr 20. 21


 コロナの渦中といっても、じっとしていては身体と頭に良くない。旅はしたいのだけれど、こんな時期に外国へ行くには制限が多すぎる。なんとか近場で面白い所はないものかと思案するうちに、福岡の周辺にはたくさんの遺跡があることに思い当たった。
 旅にはふたつのオプションがあることに気がついたのは歳のせいか、コロナのおかげ禍。たとえば7592kmの距離をジェット機で10時間かけてヘルシンキまで移動して、異国の風情に出会うという旅。もうひとつは、福岡の周辺を徘徊し、大昔の気配を自分なりに感じる旅。これはタイムマシーンなしで時間を遡る旅ともいえる。そこで出会うもの、とりわけ暮らしにまつわる道具、装身具、祭器など、いろいろな「用具」が持つ形態とその普遍性や一過性のようなものに驚くことができないものか。なにも体力と時間をかけて高度1万メートルを飛ばなくとも、「安・近・短」でいくしかない。
 そこで、お隣の春日市にある「奴国の丘歴史公園」へ行ってみることにした。後漢から贈られたというあの「金印」に記された弥生時代後期の国「奴国」が、なんと、ここ春日市周辺だという説がある。そこには大規模な集落共同体跡があり、その規模は吉野ヶ里遺跡を上回るといわれるが、まだ一部しか発掘調査が行われていない。都市の周辺部とはいえ、立ち並ぶ住宅の下に眠る遺跡の発掘はおいそれとは進まないだろう。にもかかわらず、資料館には石器や土器、祭器など色んなものが収蔵されていた。
 僕の場合、資料館で目にとまるのは、やはり「焼き物」になってしまう。陳列ケースを遠望しただけで、無意識にそこを目指して足が勝手に動き出し、ガラスに顔をくっつけ、なんとかその有り様を間近に見たいと目を凝らす。これじゃあ、まるで海外のフリーマーケットでの買い付けと同じだ。買えないんだけど、いや買えないからこそ目力(メヂカラ)が増す。資料館にあったのは、釉薬こそ施されていないけれど、とても美しい。その美しさとは、現代の日本やアジアをはじめ、フィンランド、スウェーデンやイギリス、いや世界中の陶芸作家たちが追求する「モダンな形状」に連なっていはしまいか?
 この国で、初めて「土器」が使われた始めたのはおよそ1万年前の縄文時代と言われる。そして2400年前の弥生時代になると、稲作のために定住が始まり、移動生活では必要なかった生活に寄り添うさまざまな「焼き物」が作られることになる。その後、気が遠くなるほどの時間がたったはずなのに、基本的なフォルムは変わっていない。一体なぜなんだろう。
 今では実際には見ることはできないし、すべてが「進化」や「発展」という神話で覆い尽くされ、忘れ去られ、存在しないはずなのに、無意識のうちに継承され、現在にも影響を与えているものがある。それがたとえば「焼き物」だったりする。そんな「先行したもの」を自分なりに発見することは、刺激的だ。”過去は「あった」ものではなく、「いる」ものかもしれない”というのは、誰の言葉だっただろう。たしか、柄谷行人の『憲法の無意識』という本の中で引用されたものだったか。そういえば、聞いたところでは、オードリー・タンは柄谷氏の愛読者らしい。若きデジタル担当大臣の頭のなかには、どんな先行するイメージがあるのだろう。台湾へ行きたくなった。