ずいぶん久しぶりに鹿児島へ行ってきた。気晴らし半分、仕事半分(いや3割か)だったのだが、結局、色んな人に会う旅だったと思う。言葉が通じるということはあるものの、パスポートなしで外国へ行ったかのような気分だった。他国(といっても日本)の人間には意味不明だった昔の薩摩弁だが、今ではほぼ消滅しているから、言葉は通じるものの、その分、イントネーションの違いが際立つ。ざっくり言えば、奄美や沖縄からフィリピン、インドネシアあたりに通じるような「鷹揚なのにレスポンスは迅速」という、つまり北部九州の「せっかちな割に態度は曖昧」とは真逆の有り様なのだ。
鹿児島に着き、まずイラストレーターの江夏潤一さんと一緒に、黒豚のとんかつランチの後に鹿児島名物の白熊を食べながら、来年はぜひ個展のようなことをやりましょうとオファーして了解してもらった。彼の絵は可愛いだけでなく、ペーソスがあるから、僕は昔からファンなのだ。語り口はおとなしい。しかし、時々チクリとする。まるで絵を地でいくような人なのだ。毎年開く台湾での個展が好評で、本人ものんびりとした風土が性に合うらしく、ついつい長居してしまうらしい。そういえば「江夏」と書いて「えなつ」ではなく、「こうか」と発音するところからすると、渡来人の末裔かもである。
次に会ったのは、先日organでポップアップ・イベントをやってくれたリュトモスの飯伏正一郎くん。風貌はどこかネイティブ・アメリカンで、実際、彼が作る革製品には「動物の生きた証し」を受け継いでいきたいという、ロマンティックだが、しっかりとした思いが込められている。語り口が雄弁なだけに、時折混じる鹿児島イントネーションがチャーミングだ。そんな彼だからか、鹿児島の色んなクラフト仲間とのコラボレーションを通して、作品にも面白い化学反応を起こすことだ出来るのだろう。その際のポイントは、「お互いに、いつもの作風ではないものをあえて出し合う」ことらしい。いいなあ、他者感が生み出す異化作用。
盛永省治くんは、そんなクラフト仲間の一人。木の塊から形を生み出すウッドターナーとして知られている。久しぶりの再会だったが、いつもの笑顔で快く近作を見せてくれた。それは旋盤を使った作品とは違って、手を使って削り出した彫刻だった。僕はいつか彼のそんな作品を見たいと思っていたから嬉しかった。展示会用に準備したという数点の中から、迷った挙句、ハンス・アルプへのトリビュートを勝手に感じたものを、一つだけ頂戴した。しかし案の定、店で販売するか今もためらっている始末。
締めは、タイミングよく鹿児島に滞在中だった岡本仁さんとの夕食。編集者として鹿児島の魅力を伝えてくれた人なのだが、北海道の出身である。本人は「寒いのが苦手だったので、温かいところへのあこがれが…」と仰るが、果たしてそれだけの理由だったとは思えない。岡本さんは確か、外国、中でもアメリカのカルチャーに強い人だったのだが、それが鹿児島とシンクロしたにちがいない。その証拠ではないけれど、現在の岡本さんは、国内を旅しながら、自分の目を通した地域の魅力を、その歩くようなテンポの文章で”暮しの手帖”に連載中だ。自分が知らないことを隠さず、知ることの面白さを発見することは、なんだかアメリカっぽい気がする。
そういえば、鹿児島県歴史・美術センターを訪れて思ったことがある。同じ九州だが、北と南ではその歴史に大きな違いがあるということだ。古来から中国、朝鮮の体制や文化を東シナ海もしくは対馬海峡という、地理的にはそれほど遠くない地域から取り入れた北部と、近世になって、はるか遠くヨーロッパからの南蛮文化に遭遇した南の薩摩は、違っていて当たり前だ。それは、仏教を受容し、後に日本と呼ばれる「律令国家」を建設理念とした大和政権と、「クニ」という自治の観念を持つ薩摩が、鉄砲伝来を期に「近代国家」を構想した違いにあるようか気がする。なにしろ、薩摩は1867年のパリ万博では徳川幕府に対抗して参加したわけだから。きっとアメリカでいえば「州」のような独自の存在を自負していたに違いない。
気が付くと、濃厚な2泊3日があっという間に終わっていた。終わってしまうと、旧知の友人と会い、話をした余韻がぐるぐる頭のなかで巡っている。
以下は、カゴンマ弁を借りた私的おみやげです。
ほんなごつ、よんなかはちんがらっじゃ。そいじゃが、なこよかひっとべ!ぎをゆな、てげでよかが。
…本当に世の中はめちゃくちゃだ。しかし、泣くより飛んでみろ!文句を言うな、適当でいいよ。
(写真:鹿児島県歴史・美術センター蔵)