「馬には乗ってみろ、馬には蹴られてみろ」その四

ひょん | デザイン・建築 旅
DATEJun 21. 24

ウランバートルにはモンゴルの人口320万人の約半数が集まっていている。高層ビルやタワーマンションがニョキニョキだ。だけど、建築途中でストップしたまま雨ざらしで、どう見てもほったらかしのビルが目につく。都会ぶりっこのくせに、ビルの谷間には旧ソビエト時代のいかにもロシアっぽいワーニャ叔父さんが住んでいそうな古めかしい館が廃墟にならずにポツポツ残っていて、取り残された建物とニョキニョキが共存している。旧社会主義国が資本主義の洗礼を受けて、今となっては力ずくの変容を遂げている格好なのか。日本からの投資も多く、2021年に開港したチンギスハーン国際空港は日本のマネジメント会社が51%出資、運営しているらしい。でも、考えてみると、モンゴルと日本の関係は今に始まった事ではない。

第二次大戦後、旧日本軍の捕虜たちが建設したというピンク色のモンゴル国立オペラ・バレエ劇場が街の中心部に今も健在だ。この国は、日本が1932年に植民地化した旧満州に隣接した場所で、日本語を学び、日本へ親近感を抱いた人もいたし、反感を持った人々もいた。私ごとだが、父は旧満州の大連で兵役を務めていた。それは僕が生まれる17年前で、案外それほど遠い昔の出来事ではなく、つまり僕にもモンゴルにかすかだが因縁がないわけでもない。ついでだが、父は下級将校だったので馬を支給されていて、馬が好きだったのか、乗り過ぎて痔になったと言っていたが、実戦には参加せずに復員している。だからなのか、彼の地での人々のことを悪く言ったことがない。それどころか、後年になっても何度か中国へ行き、親しかった友人に会っている。つまり、父の満州なりモンゴルへの印象は悪くなかったのだろう。

日本へ帰る前日、テレルジ国立公園に行くことにしたのは、そこに”アーリアバル”と呼ばれるチベット仏教の小さな僧院があると知ったからだった。たくさんのゲル・キャンプがあるリゾート地として知られる場所の向こうの悪路の先には、岩山の急な階段が待ち受けていた。途中で3回ほど休んで横になって空を見上げると、冷たい風が顔をなぶり、雲が近くで流れていた。たどり着いた寺からの見晴らしが効きすぎて、遠近感が狂ってしまう。おまけに寺の内部は思いっきりサイケデリックだ。つまり修行をするよりも、解放感に浸ることが似合う場所だった。

モンゴルへ来る前にかじったところによると、チベット仏教の悟りは「欲望を保持したまま悟りをひらくことができる」ということだった。欲望を捨てなくても済むなら、僕にも可能かも。でも”解脱”なんて土台無理だ。モノにしろ、セイシンにしろ、それから「解脱」できる人などこの世にいるのだろうか。死ねば肉体から解放され、それが解脱かもしれないが、急いで浄土にゆきたいという気はまだまだおこらない。

モンゴル帝国は世界で初めて紙幣を発行した。それは他者同士の欲望への信頼の証だったかもしれないから「商業」は無闇に発展したが、格差は広がった。でも今では、だれしも、空虚一歩手前の気持ちに襲われている。
モンゴルに来て草原で味わった「遠近感がなくなる」ような感覚とは、一体なんだったのだろう。遠くまでを俯瞰できることで、地球の大きさとかを感じたのだろうか。逆に、地球とは実は大きくはない、小さな惑星に見えたのだろうか。それどころか、時間の遠近法でいえば、地球は若輩の星なのかもしれない。たかだかの歴史に「進化」なんてあるのかな。この星はこの先、どんな「変化」をするのだろうか。

「馬には乗ってみろ、馬には蹴られてみろ」その三

ひょん | ひと 旅
DATEJun 19. 24

モンゴルで出会ったNomad Horse Campのオーナー、ムギーさんの話を続けたい。

日本に留学したムギーさんは、その後モンゴルへ戻って商社に務めたのだが、ある日久しぶりに馬に乗ったところ、忘れかけていたモンゴルの馬の魅力に気がついたという。そこで思い立ったのが正規の乗馬サーヴィスを提供するゲル・キャンプという施設だった。今では日本から馬好きの常連客も訪れるらしいのだが、それとは知らずやってきたぼくに対して「この前も馬に乗るよりもただボンヤリするためにやって来た日本の男性がいました」と言葉をかけてくれる人である。
だからでもないが、日本語が達者なムギーさんに、いろんなことを質問してみたくなったのだろう。

例えば、「今朝、あそこに見える丘の上に登ってみたら、頂上の石積みに動物の頭蓋骨が二つ飾ってあったけど、あれは狼にやられた羊と馬ですか」と訊ねたら、「そうですが、狼は人間を襲うことはありません。彼らは弱ってしまった病気の家畜などを食べます。それは草原を掃除してくれていることになります」との答えが返ってきた。
そうか、ひょっとすると、チベット的鳥葬なのかなんて一瞬思ったけど、草原の狼のなすべき仕事だったんだ。

もう一つは、モンゴルへ来る前に読んだ司馬遼太郎の本にあった”あらかじめ干し草を貯蔵しておいて家畜の餌とするのか、それをせずに、冬でも餌となる草がある場所へ移動するか”という、つまり遊牧民にもふたつの選択肢があるという、ちょっと細かすぎる質問だった。
この質問は、司馬さんの本にあった、遊牧民であるモンゴル人と、定住農耕民である漢民族の紀元前からの関係性にも繋がる、面倒な質問でもある。

例えば、漢民族は昔から匈奴などの遊牧民を神出鬼没で害を及ぼす、粗野で文化を持たない”蛮族”と見ていたし、一方の遊牧民は漢民族を土をやたらに掘り返しては農地にして、そこから得た作物を貯蔵し、その土地に縛られて生きる”カッコ悪い”民族と見ていたようだ(一度耕作地にされた土は、再び牧草地には戻らないとも聞いた)。その後、色々な遊牧騎馬民族が漢民族の土地を侵略し、それなりに中国に同化しいくつかの王朝を打ち立てた。それがモンゴル族による「元王朝」であり、最後が「清朝」だったわけだ。その際には、定住農耕と遊牧を合わせた統治もおこなわざるを得なくなっただろう。

ムギーさんは「干し草貯蔵」の問いに対して、ちょっと考えてから答えた。
「遊牧民にとって家畜は草原を動きまわるお金です。私たちは家畜を自然という銀行に預け、利子をもらっています。」
この竹を割ったようにユーモラスな発言に、「遊牧民=自由人」みたいなぼくの勝手な思い込みは揺らいだ。
そういえば、チンギスハーンは世界で初めて紙幣を印刷して流通させたわけで、その血を引いたムギーさんは大学では経済学を学んだといいます。
彼は、モダニストなのです。

「馬には乗ってみろ、馬には蹴られてみろ」その二

ひょん | ひと 旅
DATEJun 9. 24

ノマドキャンプのオーナーのムギーさんはこんなことを言った。
「昔からモンゴル人は歩きません。馬に乗っていました。それが今は車に変わっただけです」と。
これって冗談なのか?
そういえば、ウランバートルへ戻る途中に遭遇した車の渋滞はひどかった。市内に入る少し手前から車がほとんど動かなくなったのだ。これならみんな歩いたほうが早いはずだが、歩くのが嫌いなら仕方がない(ちなみに多かったのはトヨタのプリウスの中古です。白タクに何度か乗ったけど、カーナビは日本語なので、みんな自前のケータイを使っていた)。

モンゴルの面積は確か日本の4倍だったか。その広い領土を超えて13世紀に彼らは東ヨーロッパまで迫ったことがある。歩いていては出来ない相談だ。
遊牧民は大昔から、馬に乗り、羊や牛を連れ、季節ごとに牧草を求めて草原を移動していたわけで、定住という感覚は少ない。家は簡単に組み立てられるゲル。持ち物を最小限にとどめるため、モノへの執着も少ない。「どこまでも自由に行ってみる」ことに関心があったのか。

以前、ポーランド南部のクラクフという古都に行ったことがある。郊外にあるアウシュヴィッツ収容所をこの目で確かめるためにこの街に泊まった際、街の中央広場の地下には発掘された13世紀の遺構が公開されていてびっくりした。そこはモンゴル軍がクラクフを攻め落とした街の遺跡で、モンゴル軍の残酷さが嫌でも目についた。前に、柄谷行人の『帝国の構造』を読んでいたので、そんな侵略行為だけであれだけ広範囲な地域を長きにわたって「帝国」としてコントロールできたのか、いぶかしくも思った。

例えば16世紀の大航海時代になると、ポルトガルやスペインは南米を侵略し,その後19世紀の「国民国家」の時代になると、事態は急変する。言葉と宗教、つまり自国のアイデンティティを無理強いして、イギリスはインドを、後に日本は台湾や朝鮮を同じようにして支配しようとした。でも、それは今も起こっている戦争とほぼ同じ「帝国主義」のやり口だ。”主義”というワードは一見立派に聞こえるが個人の自由な選択視を制限しかねない「国民国家」からの発令のようなもので、「帝国」はもっと違うイデオロギーだったのではないか。ところが、今新たな「帝国主義」が中国、ロシア、またインドなどが、凋落気味のアメリカに代わり、新たな覇権を狙っている。まったく、世界はグローバルとは名ばかりで、人々が普通に生きる権利を奪おうとしているようだと、話はついソッチ系になりがちだが、もう少し続けたい。

モンゴルという「連合体」には、「帝国主義」というアイデンティティの押し付けはなかったと思う。かつてない広大な地域の「部族」や「国家」を攻略したが、言葉や宗教、各民族の文化にはほとんど干渉しなかった。チンギス・ハーンは「帝国」の伸長には武力を使ったが、戦わずして相手を凋落させることにこそ長けていたらしいからエライ。まあ、それだけモンゴル軍の騎馬戦術と武威が恐れられたのだろうが。なによりも、広大な荒野に通商の道を整備し、アジアと中東からヨーロッパまでの交易、また学術や技術の東西交流を促進させたので、どちらかというと、人々は受け入れた。それは陸だけではなく、ヨーロッパへの海の道を開き、それをイスラム商人に任せたという。それは「帝国主義」とは違った融和的アイデアであって、カントの”世界共和国”のような、もしくは”機能できる国連”のようなイデオロギーに近いものだっただろう。

アリテイに言ってしまえば、チンギス・ハーンは、”実現できそうにないこと”に挑戦した稀代のドン・キホーテなのか。ぼくは随分前にラジオで山本耀司にインタヴューしたときの言葉を思い出した。パリコレで世界中の話題をさらった80年代、彼の服は東洋なりアジアなりを表現したといわれたけど、彼自身はそんなつもりはなかったと述べ、こう言った。
「アイデンティティなんかいらない」。
カッコいいのだ。

「馬には乗ってみろ、馬には蹴られてみろ」その一

ひょん | ひと 旅
DATEJun 1. 24

Nomad Horse Campは、ウランバートルから60キロくらいの草原にポツンとある、乗馬を楽しむためのゲル・キャンプだ。でも、なんでここにやってきたのかの説明は難しい。理由はたくさんあるので簡単には言えないが、乗馬が目的ではないことは確かだった。
とにかくモンゴルへ行きたいと思ったのだ。

日本語が上手なオーナーのムギーさんは編集者のOさんに似た、つまり日本人と言ってもいいような柔和な顔だが、実はしっかりした意見を持っている。それもそのはず、京大に4年、東大に2年留学し経済学を専攻したという。なんと、福岡にも来たことがあり、名前は忘れたが福岡で人気のカレー店をウランバートルで展開したいらしい。実業家なのだ。

それはさておき、僕は子供の頃に「別府ラクテンチ」でロバに乗っかったことがあるが、本物の馬は知らない。ただ「馬には乗ってみろ、馬には蹴られてみろ」という昔の諺をなんとなく覚えている。もちろん「蹴られる」のは勘弁してほしいが、ここまで来たからにはやるしかない。乗る前のレクチャーはまず「横や後ろからではなく馬の正面から近づく」ということで、つまり後ろからだと蹴られる危険があるということだったので肝に銘じた。

モンゴルの馬はサラブレッドと比べると、背は低く、短足、胴長だが持久力はサラブレッドに勝るといわれる。乗馬には競技を目的とするイギリス系と、あくまで草原を自由に疾駆するいわばカウボウイ系に分れていて、こちらはもちろん後者だ。だからといって、初めて背に跨ろうとすると、一人では無理だ。まずは鎧(あぶみ)に左のブーツを乗せ、体を補助してもらいながら「あん馬」みたいに右足を思いっきり跳ね上げて跨らなければならない。老骨にはほぼアクロバットなのだ。しかも、着座するとやっぱりなかなかの高さなのだから。

馬は初心者向けを用意してもらっているのでおとなしいはずだが、油断はならない。心の中で「よろしくお願いします」と挨拶してそろそろと草原へ繰り出した。手綱を左手で短く持ち、なるだけ馬の歩く上下運動に合わせ、しかし体は真っ直ぐにと、ムギーさん。そう言われててもなあ、と思いながら前を見ると、そこには一面に若草が萌え始めたなだらかな草原に青空と流れるような雲。
自分の遠近感が働かない。
落っこちる心配はやめ、ぼんやり遠くを見続けた。

奥山慎、ディタッチメントなジュエリー。

ひょん | ひと カルチャー
DATENov 12. 23


古い民家の玄関を入ると、広い土間を占領するかのように大きなモーターサイクルが鎮座していた。それは、ハーレー・ダビッドソンの半ば解体されたような姿だったから驚いた。なぜって、ここは”繊細な”ジュエリーを手がける工芸家である奥山慎さんのアトリエのはずだったからだ。
しばらく前だったか、organのスタッフから、興味深いジュエリーを作る作家がいると知らされ、実際に作品に触れ、その”エッジの効いた”作風に気を取られてしまい、連絡を取り、長崎県の大村市にある彼を訪れたのだ。
僕らは土間を上り、黒一色の砂漠の民のようなファッションの奥山さんに、和室を改装したガランとした部屋に案内された。すると、中央の作業台だけが、まるでインスタレーションのように置かれている。その卓上や周りには、大小さまざまな工具や素材らしきもの、そしてどう使うのかわからないいくつかの工作機械が置かれていて、まるで孤独な実験室のような空気が漂っていた。
この人は変で、いい。

奥山慎さんは、1990年代後期からデザインとファッションを「ストリート」という磁場を通して表現することを目指したという。
その後、東京芸大の工芸科を卒業し、ジュエリー製作を初めた頃になると、デンマークの洗練されたモダンデザインと、アメリカのナヴァホ・インディアンが生活のために作るバングルという、一見矛盾したふたつの要素に刺激され、彼なりの”フリーフォーム”を模索する挑戦をスタートさせる。
でもそれは簡単なことではなかった、と彼はいう。今では、さまざまな工法を使い、だから表現のレンジは広がっているが、基本である板状のシルヴァーを切り出し、形状をあらかじめ彫り込んだ木製の型に置いて、小さなハンマーで少しずつ叩きながら形造る日々が続いた。その結果としてできたのが独自のオーガニックな形状なのだ。しかも実は中空なので、見た目よりも身につけるととても「軽い」のが特徴であり腕の見せどころでもある。作り上げるまでの工程はとても多い。そのことを裏付けるかのように彼は言った。「アーティストになる気はない。シルヴァーの板を丹念に叩いて造るジュエリーが好きだから」と。暇を見つけては自分で少しずつ修理をしている玄関に置いてあるハーレー・ダビッドソンも彼らしい仕事の一つなのか。
この人は、やはり「自作人」なのだった。

ところで、気になっていた<BAUGO HEIAN>という「屋号」の由来を尋ねてみると、友人の中国人と話すうちに浮かんだ中国語を自分なりに英語表記したものらしく、したがって意味は正確とは言えないが、「暗闇を包む」というようなニュアンスとのこと。
なんだか意味深だ。
そしてこう続けた。
「日本を囲む状況は今、不安定です。でも、そうだからこそ、アジアと仲良くしたいね」という気持ちを込めていると。
この人は、やはり「相対性」の人なのか。

そういえば、奥山さんは、今、あらたな試みをしている。「鼈甲(ベッコウ)」とシルヴァーを合わせた作品作りに挑戦しているのだ。
鼈甲といえば、長崎の特産物でもあるが、広くは中国やアジアを含む古くからの特別な素材だ。それを使ってみたいという気持ちに、社会や歴史に対する彼なりの視野を感じるのは嬉しい。

そんな奥山さんのジュエリーだが、12月にはorganで皆さんにみていただく機会を持ちたいと思っている。
”アーティスト”としてではなく、できれば”クラフツマン”でありたいという思いから生まれるジュエリー。
その軽さと緊張感にぜひ出会ってみてください。






さて、どんな話が飛び出しますか…

info | ひと 映画・音楽
DATESep 28. 23

organの店主、武末充敏が1986年にMIDIレコードからFlat Face名義で発表したアルバム”Face”が、先ほどデジタルマスタリングされヴァイナル盤で発売されました。
このアルバムは、ミニマルでインディなヨーロッパの音楽を、シンガーソング&ライターの高取淑子さんとのコラボレイトを得て福岡で制作されたもの。後に「早すぎた渋谷系」と称され、時代を経ても、様々な世代から支持を得ています。
再発に際してはムーンライダースの鈴木慶一さん、編集者の岡本仁さん、ミュージシャンのカジヒデキさん、菓子研究家の福田里香さんたちからも嬉しいコメントをいただき、武末も東京に赴き、発売イヴェントに参加させていただきました。
その際、渋谷のDisk Unionで行われたトークイヴェントが先日YouTubeにアップされました。お相手はワールド・スタンダードの鈴木惣一朗さん。Flat Faceと同じ頃に細野晴臣プロデュースでノン・スタンダード・レーベルよりアルバムデビュー、その後、多くのアーティストや作品をプロデュース、日本のポップスを静かに牽引するミュージシャン。そして進行役はorganでもお馴染み小柳帝さん。鈴木惣一朗さんとの共著『モンド・ミュージック』をはじめ、『映画についての覚書』など、カルチャー横断的な活躍の人。
さて、どんな話が飛び出しますか、興味のある方はぜひ覗いてみてください。

勿論、organにてFlat Faceのアルバムを販売していますので、高取淑子さんの歌声、ぜひご視聴ください。
ヨロシクです!

さて図書館だ。

ひょん | カルチャー デザイン・建築 旅 社会科
DATESep 9. 23

 コロナ禍も一段落したので、3年ぶりにフィンランドへ行ったのは2ヶ月前のことになる。今回はロヴァニエミという北の町へも行ってみた。おかげで、フィンランドが少し違って見えた。それにしても、何度も訪れたはずのこの国が、今回ことさら新鮮に感じられたのはなぜなのかを、日本へ戻ってからもずっと考えている。多分この国がいわゆるヨーロッパであり、ヨーロッパとは違う「ユニークな国」なのだということかもしれない。

 北極圏の入り口にあるロヴァニエミは、フィンランド北部の広大なラップランド地方の州都。といっても人口は6万人ほど。オーロラとサンタクロースや、地球で一番北にあったマクドナルドなどということで有名らしいが、それはそれ。アメリカの田舎町のように空が広いのだ。昼間は大通りでも人影はまばらで、夜ともなれば車さえ通らず、おまけに夏至の季節で夜中過ぎまで陽が沈まないからいたって静かなものだ。ちなみにフィンランドの国土は日本とほぼ同じくらいだが人口は560万人、大阪府より少ないと聞けば、この田舎感は納得せざるを得ない。そんな町へ何を好き好んでやってきたかといえば、アルヴァー・アアルトが手がけたという都市計画、中でも図書館を体感したかったからだ。
 この街は、第二次世界大戦のさなかにナチス・ドイツによる空爆で壊滅的なダメージを受けている。戦後の復興にあたって市街地のマスタープランを任されたのがアルヴァー・アアルトだ。その中で、彼は市庁舎と美術館、図書館、コンサートホールの建設に力を注いだ。いずれも市民生活に欠かせないものなのだが特に「庶民文化」の持つ力を発揮させたいと願ったに違いない。
 フィンランドは1917年にロシア革命に乗じて誕生した新しい国民国家だ。だから一瞬だけど共産主義政権だった。だが、すぐに自由主義派が政権を樹立してその後は資本主義体制を維持しながら、東と西とのバランスをとりつつ世界でも稀な経済発展と高福祉を成し遂げている。ただしGDPの規模が日本の北海道くらいなのだから驚く。少人口、少生産なのに一人当たりの所得はトップクラス。教育に関しては大学まで無償。「経済成長」をGDPや株価で推し量る日本とは土台が違うのだからしょうがない。税金は高いが、使い道を国民がちゃんと監視しているところも「政府任せ」ではない。自前の国家を得た国民には、それなりの自覚と選択肢が必要だったわけだ。

 さて図書館だ。そういえば、随分前にトルコのエフェソスという古代都市をウロウロして驚いたのはなにより図書館の遺跡がひときわ立派に残っていたことだ。エーゲ海文明の中心都市ならではの文化と知識の象徴としての建物だったのだろうが、面白いことに隣接したところに私娼窟や浴場があった。「頭を使った後はリラックスをド〜ゾ」といったところだったのだろう。
 話が脱線したが、要は図書館は誰でもが平等に利用できるだけではなく、頭に良い刺激を受け取れる場所であって欲しいという意味で、ロヴァニエミの図書館はその際たるものだったということ。アアルトならではの自然光の取り入れ方や、アアルトがデザインした椅子やテーブル、吹き抜けの空間から半地下へ降りると小さめの空間がアート関係のスペースだったり、まるで本を探すという冒険心をくすぐる仕掛けがあちこちに散りばめられているので飽きることがない。まるで資料室のように退屈な図書館とは別世界のワンダーランドなのだ。
 それに加えて、フィンランドが他のヨーロッパ諸国と違うユニークなところは、城と教会が少ないことだとぼくは思い始めている。城は少しあるけど、それは14世紀から400年以上にもわたり統治したスウェーデンか、その後スウェーデンと領地をめぐって戦争を繰り返したロシアが造ったものなので、自前の城というのはほぼないはずだ。それも戦争のための砦のような小規模なもので、他のヨーロッパのように豪壮な王さまの居城があちこちにあるとは思えない。
 教会については、あるにはあるが、これもヨーロッパ的な天を指すようなゴシック的なものは少ない。スウェーデンの支配下では確かにローマ・カソリックだったが、宗教改革後はプロテスタントが優勢となっている。だから、あったとしてもシンプルな教会だったり、一部に丸いドーム型のロシア正教会が見られるだけだ。そんなわけで、フィンランドは城やカソリック教会のような権力を象徴する観光名所が少なく、図書館や博物館、コンサートホールなどがその代わりに建築家の腕の見せ所となっているのだろう。
詰まるところ、歴史的に見ると、フィンランドのデザイン・カルチャーが「王室御用達」などとは無縁に、民衆の側からのニーズから生まれたことが想像できるというわけだ。確かに、アルヴァー・アアルトやカイ・フランクの頭のなかを覗いてみても、「ラグジュアリー」は見つかりそうにない。「民藝」にも通じる「フォークアート」が日本人の感覚に訴えている。
 つい最近知ったのだが、フィンランドでは自生している野生のベリー類やキノコ類などを採取して食することが、誰の土地であれ許されているらしい。そういえば、随分前に、アアルトの夏の実験住宅”コエタロ”を訪れ、その敷地内の森でブルーベリーを発見したうちの奥さんは「うわ、野生のブルーベリーだ!」と上機嫌に食べていたっけ。果たして彼女はそんなフィンランドの事情を知っていたのかは疑問なのだが。森はみんなの図書館だし。

Hのオムライス。

ひょん | ひと
DATEMar 16. 23

年明けから、友人たちの訃報が続いたので、へしゃげた。
みんな60から70歳くらいで、早すぎたという人もいるだろうが、年齢のことではない。人にはそれぞれの寿命がある。ひと昔前なら還暦を越えれば長生きだったろうが、今では80を超えないと人並みではないご時世。プラス20年のハードルは高くないか。

大学で東京にいた頃、間借りしていた高円寺の六畳の部屋に一年に一度、三つ年上のいとこTetsuが訪ねてきてしばらく泊まっていた。諏訪之瀬島という、鹿児島の沖にある小さな島のコミューンから北海道のコミューン村への移動の途中に寄ってくれていた。
Tetsuは大学受験の前夜に突如出奔して四国の寺に行った。でもしばらくすると仏門の道を諦め、その後4,5年をかけて世界一周のヒッチハイク旅へ出た。インドから中東のイスラエルに行き「キブツ」という農業共同体に参加してユダヤ人や世界中からやってきた若者たちと生活を共にした。サハラ砂漠では先住民ベルベルとも暮らした。そして大西洋を渡りアメリカへ。そこで60年代アメリカのカウンターカルチャーの洗礼を受け日本へ戻ったというわけだ。
そんな話を、どちらかというと無口なTetsuは六畳間の万年こたつに座り、静かな口調で少しづつ話してくれた。意外だったのは、僕が当時好きだったThe Bandのレコードを聴かせると「この音楽は聴かないほうがいいよ」などと意味深なことを言ったりもした。彼の大きなオリーブ色のアーミーバッグにはいつもアンリ・ベルグソンの本が入っていた。
そんなある朝、北海道へ向かう彼が「Tシャツを一枚くれないかな。これから北海道は寒くなるのでよかったら…」と言った。それが彼とのお別れになった。諏訪之瀬島で遊泳中に心臓麻痺で亡くなったことを知ったのは、その一年ほど後だ。たしか26歳くらいだったはずだ。

つい最近、突然いなくなったHさんは70年生きた。46年間、Modern Timesというバーのマスターだった。店はカフェバー・ブームもあって、さながら福岡のキャラ立ち人や変人が集まるハイダウェイとなって密かに繁盛した。
「大人になったら一軒でいいから行きつけのバーが欲しい」と思っていた僕にとって、マーヴィン・ゲイやマイケル・フランクスに加えて、ヨーロッパのニューウエイヴィーな音楽を流し、濃くてうまいラムトニックが飲める気のおけない唯一の場所だった。
若きHは文化服装学院を出て、渋谷のBYGというロック喫茶や千駄ヶ谷にあったCul de Sacでバイトをして、1970年代後期の東京カルチャーを経験したひとだった。かといってそれをひけらかすでもなく、ひと懐っこい笑顔で女にモテた。カウンターで、前に付き合った二人と、今付き合っている三人がたまたま一緒だった時は、さすがに焦ったなんて話をしても、嫌味に聞こえない男だった。
店は夕方から朝の3時まで。Hは厨房でカレーライスやナポリタン、オムライスという洋食を作り、馴染みの客が来るとカウンターでそれなりに相手をする。話題は様々で話は尽きない。注文が入るたびに厨房へ消えるが、終わるとまた話に戻った。時に、閉店後まで付き合ってくれたが、最後はいつも「それがなんね、どーしたんね」と、屁理屈をこねる僕に引導を渡してお開きになった。
「長く生きたい」とは欲張りな人間様ならではの欲望だが、そうは問屋が卸さない。「より長く」か「より自分らしく」なのか、その選択は難しい。「死」は向こうからやって来るものだから。ああ、Hの気取りのないオムライスが食いたい。

優しいアナキスト

info | カルチャー 旅 社会科
DATENov 1. 22


 2009年に初めてベトナムに行ったのはサイゴンのつもりだったけど、実はホーチミンという名前に変わっていた。
 高校生だったころ、キューバ危機、ケネディ暗殺に続いて1965年にアメリカは北爆を開始して、ベトナム戦争が本格化した。共産主義と資本主義の対立の中での、アメリカとソ連、中国による代理戦争だった。その戦争は泥沼化し10年くらいも続いて南北ベトナムは共産主義国家として統一された。その間、ぼくはビートルズやヒッピー達の平和へのアピールにシンパシーを持ちながら、サイゴンという名前をニュースで聞かない日はなかった。サイゴンはアジアでもっとも有名な場所になっていた。そして戦後、北ベトナムの英雄ホーチミンの名前に変えられたのだった。
 ホーチミンはバイクと喧騒が渦巻き、信号のない道路を渡るのも一苦労で、なんとかコツを掴んだのは帰国間近の事だった。そこには、映画やニュース映像で見た戦禍の跡はなく、忙しく働く人々の生命力であふれていたが、資本主義の残影だったかもしれない。
 その7年後、ベトナム中部にあるホイアンという世界遺産に登録された街へ行った。そこは、今ではリゾートホテルが立ち並んでいるが、ダナンというベトナム戦争時の激戦地からほど近いところだ。その旧市街を歩きながら、ぼくは骨董用語で”海揚がり”と呼ばれる安南焼の古陶器を探した。16世紀というから江戸時代、ホイアンは日本を含むアジアとインド、アラブ、ヨーロッパを繋ぐ”海のシルクロード”の中継地だったのだ。その交易ルートは琉球を経て博多へも伸びていたから血が騒いだ。日本人町もあったという古い町並みに残る骨董屋で、安南焼やタイのスンコロクなどを買った。海水と泥にさらされて絵付けが消えかかってしまった陶器は、この国の長い時間の結晶のように儚いことを知った。
 滞在中にホイアンの郊外の田園を巡る半日の自転車ツアーに参加した。といっても自転車に乗れないぼくは、ひとりだけバイクの後ろに乗っけてもらったからラクチンだった。
 ツアーを企画したのは若くハツラツとしたベトナム青年のガイドで、ぼくたちは古い寺院の遺跡跡やベトナム独特のお墓などに案内された。田園に散在するエビ養殖池では「これはほとんどが日本向けの輸出用です。実は、この池はベトナム戦争でアメリカが落とした爆弾の穴を利用しています」と物騒なことも教えてくれた。転んでもただでは起きない人たちなのか。さらに、ベトコンが仕掛けた罠や、地中に残された狭く長いトンネルも見せてくれた。最後は青年の家に招かれて、奥さんの手料理をいただいた。それは素朴な家庭料理で、食材は彼らが育てた鶏や無農薬野菜。彼はオーガニックな農業を本業とすることを目指していると言っていたっけ。たくましいなあ、と思わざるを得なかった。だからなのか、次はハノイへ!、と思った。
 福岡から4時間半くらいでハノイに着き、ホテルにチェックインしてまず向かったのは「ベトナム女性博物館」。今回の旅でまず行こう!と思っていたところ。なにせ”女性”に特化した博物館なんて聞いたこともない。社会主義国ならではの振る舞いなのか?
 1995年に開館した建物はちょっとヒナビタ感じだが旧宗主国フランスの残り香もある。全体のテーマは「家庭での女性」「歴史のなかの女性」「女性のファッション」となっているが、ぼくの目当てはベトナムの54の民族が受け継ぐ伝統的工芸品。なかでも籠や布、アクセサリーたちは、目をみはるほど美しい。そして川久保玲の作品と見間違うようなスタイリングを施した展示についシャターを切りまくった。
 一方、「歴史のなかの女性」のコーナーは「戦う女性」である。インドシナ戦争とベトナム戦争という、いわゆる民族自決運動に参加した兵士としての彼女たちが写真と一緒にズラリと並んでいた。とっさに頭に浮かんだのはスタンリー・キューブリックの映画『フルメタルジャケット』の終わり近くの女性スナイパーだった。おそらく彼女の頭にはジェンダー意識はなかっただろう。そんなことには関係なしに、生きることへのアナーキーな渇望だったのではないか。それは銃を持ちアメリカ兵を倒すことに他ならなかったのだろう。映画前半、海兵隊の厳しい新兵訓練に耐えられずにノイローゼとなり、ついには上官を射殺し、自らも自死する弱っちい男との対比を思い出した。
 旅の最終日、フォーは結構食べたことだしと、ハノイっ子が特別な日に訪れるという「田がに料理」を食べることにした。バナナの花や野菜、牛肉、厚揚げなどと米麺を鍋で火を通し、すり潰した田がにを投入して仕上げる田舎のごちそうだった。店内のしつらえも良く、器などは少し古いバッチャン焼を使っていて、もしハノイにまた来る機会があったらと、忘れないように店の写真を撮ろうと思って外に出てみると、さっき店にいた若いスタッフがバイクに寄りかかって休憩していた。店内で見かけた時も目立っていたのだが、柔和な顔立ちなので、一瞬、彼か彼女か判断しかねていた。カメラを向けても表情が変わらなかったのでシャッターを押した。ベトナムの軍服らしきものを着ていたが、どう見ても兵士には見えず、お洒落で着ているとしか思えない。ひょっとするとロシアとウクライナの戦争反対の意思表示なのだろうか。いや、優しいアナキストなのかも。
 

 
 
 
 

”車は走るためにある止まるためじゃない”

info | ひと 映画・音楽
DATEOct 3. 22


 ジャン=リュック・ゴダールが逝ってしまった。死因は「自殺幇助」だという。しかし、関係者によると「彼は病気ではなく、疲れ切っていたんだ」とのこと。そのほうがゴダールらしいと思うのは僕だけだろうか。 
 あの昔、西鉄福岡駅南口側に「センターシネマ」という1本立て2番館の名画座があって、高校生だった僕は気の知れた友と一緒に、学割でヨーロッパ映画をたくさん見た。『恋するガリア』,『昼顔』,『獲物の分け前』,『ある晴れた朝突然に』などという”後味が悪い映画”にシビれかけていたわけだが、それにとどめを刺したのは『勝手にしやがれ』だった。
 ジャン=ポール・ベルモンド演じるチンピラ・ギャングのミシェルは死ぬことしか考えていない。ジーン・セバーグ演じるパトリシアはアメリカの留学生。生きることしか考えていない。一夜を共にした二人だが、お互いに理解し合えないのはしょうがない。パトリシアは警察に密告し、疲れっ切ったミシェルは警官に背中を撃たれ、「最低だ」という言葉を残して死ぬ。これは、その後の『気狂いピエロ』でやはり主人公ピエロを演じたベルモンドに「地中海にようやく永遠を見つけた」と独白させ、ダイナマイトを頭に巻きつけ自死させてしまう。ジャン=ポール・ベルモンドはゴダールの化身だった。
 『勝手にしやがれ』の古い映画パンフレットを探し出し、再録された1962年の《カイエ・デュ・シネマ誌》でのゴダールのインタヴューのページをめくってみた。そうしたら、こんなことを言っていた。
 「わたしは即興的にことをはこぶかもしれない。が、その材料となるのは、古い歴史を持っているのです。数年にわたって多くのものを蒐集する。そしていきなり、撮っている作品にそれをぶち込むのです」
 ゴダールは自身がアナーキーだった点を認めている。しかしそれは思いつきでの突飛な行動とは違うインテレクチュアルな行動原理に基づいていたと思う。ゴダールは、過去に累積するさまざまな歴史を自分なりに批評し、そこから抽出した視座を映画に投入し、その破天荒な撮影と編集スタイルでデビューした。ところが「ダメ元」を承知で作った映画が大成功してしまった。ゴダールは困った。苦痛だったとさえ言っている。『勝手にしやがれ』という映画は、ジャン=ポール・ベルモンドとジーン・セバーグのドキュメントであり、つまりゴダール自身を投影した擬似ドキュメントだったからだ。
 「映画に革命を起こした」ゴダール自身は、しかし、その後も幾つもの問題作を発表する。彼なりのサービスを提供した映画もあったが、『勝手にしやがれ』ほどの大衆の支持を得ることはなかった。それならばと、共産主義を礼賛する政治的映画を撮ったが「難解で退屈だ」といわれた。でも、自身の映画への熱情は終生変わることがなかった。そして、ダイナマイトを頭に巻きつけこそしなかったが、尊厳死を選ぶことで「自分自身のドキュメント」にエンドマークを記した。
 ジャン=リュック・ゴダールが天才と呼ばれることには違和感がある。確かに「映画に革命を起こした」かもしれない。いや違う。かれは、自分に与えられた休暇を、死者として、疲れ切るまで生きただけだ。そして勝手に帰還した。
 『勝手にしやがれ』の中で、ベルモンドにこんなセリフを言わせている。
 ”車は走るためにある止まるためじゃない”

※写真は〈SOFILM〉2015年#31より抜粋。