The Art Of T-Shirts & Glasses

info | new item カルチャー
DATEJun 5. 21

サクッとシャツを着たい季節を迎えて、90年代にL.A.から世界に向けて発信されたTシャツのプチセールを行います。
ウォーホルやバスキア、バウハウスからビューティフルルーザー、小野洋子、奈良美智、村上隆など、アーティーなヴィンテージ Tシャツを限定販売。
他にもジェンダーフリーなシャツや古着もあります。メッセージを込めた気分転換です。
同じタイミングで、レスカの新しい眼鏡フレームとサングラス、ヨーロッパのヴィンテージフレームといったアイウェアもご覧いただけます。どうぞ足をお運びください。
一部アイテムをオンラインショップにも紹介しました。 アイウェア>>

*期間中は、コロナ対策を行いながらの展示販売になります。ご協力をお願い致します。

06/12(土) – 06/27(日)
木&金 14:00-18:00 土&日 13:00-19:00 ( 定休日 / 月曜日 – 水曜日 )

「先行したもの」を発見する、その 2 。

ひょん | カルチャー 社会科
DATEMay 28. 21

 ワクチンの先行予約は済ませたものの、接種がいつになるのか未だに先が見えない。『博多祝い唄』じゃないが、”しょんがねえ”気分が毎日続くのはまったくやりきれない。マスクを付けて外へ出るのも億劫だし、こうなりゃ、読んだ本をまた読むのにいいタイミングかも知れない。巣ごもりなんだもの。
 読み直すのは以前気に入った本なのだが、どうな風に気に入っていたかが判然としない。大筋は気に入っていたのだが、なにか大事なことを忘れていて、その何かが今の自分には欠けている気がするのだ。その場合、パラパラとページをめくり、自分が引いた線が目安になる。それも適度に多い方が引きが強い。ほー、そんなに引いてたのか、なになに…、ってな感じ。
 今回は田中優子の『近世アジア漂流』。以前読んだのは5、6年前だから、”おさらい”するインターバルも悪くない。ずっと古い本より、近過去の方が自分には効き目があるからだ。
 最初に読んだ時には「近世」というのがいつの時代を指すのかがよくわからないまま読んでみたのだが、今回はそこから掘ってみた。「古代・中世・近代」で良さそうなものなのになぜなのか、WIKIに尋ねてみた。すると、どうやらルネッサンス以降に考え出された時代区分らしく、西洋では15~16世紀、日本では17世紀あたりに始まり、どちらも19世紀には近代へ移行したとされているようだ。中世とは封建的な時代であり、「民主的な近代が訪れる前段階」といった過渡期的な時代設定なのだろう。
 そんな近世における日本は鎖国状態だったはず。しかし実は中国・朝鮮・タイ・ヴェトナム・インドネシアなど、ほぼアジア各地域との繋がりが盛んだったというのがこの本のキモ。それも、色んなカルチャーの視点からだから面白い。しかも、そこにヨーロッパ人も加わって、アジア人と入り乱れた仲介貿易が行われていたわけだから、さらに面白い。たとえば海賊と思われている「倭寇」も、日本人は2割程度で、中国人、ポルトガル人や東南アジア人との混成貿易商人だったと知り、「へーえ」となる。当時の日本は約90もの国々からなる島国であり、後の近代国民国家ではない。例えば、ボクの国は「筑前」でしかなかった。つまり、海には国境や排他的経済水域などなしの貿易だ、スリルとサスペンス満載だったはず。そんな荒くれどもに審美眼があったかどうか知らないが、おかげで様々なお宝が遠くジャポネに流れ込んだというわけだ。
 18世紀後半の江戸は,どうやら最新の消費生活を求める世界有数のメガシティだったようだ。「洒落本」や「黄表紙」と呼ばれる出版物は早くもメディアの役割を果たし、人々は「ブランド物」に血道を上げていたという。中国や南蛮渡来の輸入品と、国内生産の高価でレアものが、読み物や浮世絵などのビジュアル紙を通して、数寄者たちの欲望を喚起した時代だったのだ。そんな中、TSUTAYAの創始蔦屋重三郎などが、海外の図版にある蚤の絵を”疫病の親玉”としておどろおどろしく誇張してしまった黄表紙などは、当時の幕府の無策ぶりへの不満のはけ口としてのメディアの役割も担っていたわけだ。
 お洒落物としては、たとえば写真にあるたばこ入れのキセルを包んだ革。イギリス東インド会社が長崎商人を通して日本へ売り込み、馬具や屏風、そしてこのような小物に応用してプレミアムな舶来品として商品化したもの。また、江戸の粋の象徴である縦縞のタバコ入れはインドやインドネシアからやってきた更紗の影響だし、下は日光東照宮に取り付けられた当時オランダで流行していたイルカの飾り。近世の日本は、僕らの想像を超えた世界市場と直結した国内市場の時代だったとは驚き桃の木、エルメスの木なのだ。
 となると、「日本=島国」というクリシェがネガティヴにしか使われなかったのには、大いなる疑問を持たざるを得ない。 島国であることは、ヨーロッパ大陸のような否応無しの地続、地縁の絶え間ない戦いとは無縁であり得た幸運でもある。何より、海という交易空間を使って、先祖たちはアジア地域を縦横無尽に交通していたことを忘れるわけにはいかない。江戸時代とは、近代の訪れを待たずに、独自のポストモダニズムを、それも無意識のうちになし得た世界的にも摩訶不思議な時代だったのかもしれない。
(写真は田中優子著『近世アジア漂流』朝日出版社1990年より)
 

「先行したもの」を発見する。

ひょん | デザイン・建築 社会科
DATEApr 20. 21


 コロナの渦中といっても、じっとしていては身体と頭に良くない。旅はしたいのだけれど、こんな時期に外国へ行くには制限が多すぎる。なんとか近場で面白い所はないものかと思案するうちに、福岡の周辺にはたくさんの遺跡があることに思い当たった。
 旅にはふたつのオプションがあることに気がついたのは歳のせいか、コロナのおかげ禍。たとえば7592kmの距離をジェット機で10時間かけてヘルシンキまで移動して、異国の風情に出会うという旅。もうひとつは、福岡の周辺を徘徊し、大昔の気配を自分なりに感じる旅。これはタイムマシーンなしで時間を遡る旅ともいえる。そこで出会うもの、とりわけ暮らしにまつわる道具、装身具、祭器など、いろいろな「用具」が持つ形態とその普遍性や一過性のようなものに驚くことができないものか。なにも体力と時間をかけて高度1万メートルを飛ばなくとも、「安・近・短」でいくしかない。
 そこで、お隣の春日市にある「奴国の丘歴史公園」へ行ってみることにした。後漢から贈られたというあの「金印」に記された弥生時代後期の国「奴国」が、なんと、ここ春日市周辺だという説がある。そこには大規模な集落共同体跡があり、その規模は吉野ヶ里遺跡を上回るといわれるが、まだ一部しか発掘調査が行われていない。都市の周辺部とはいえ、立ち並ぶ住宅の下に眠る遺跡の発掘はおいそれとは進まないだろう。にもかかわらず、資料館には石器や土器、祭器など色んなものが収蔵されていた。
 僕の場合、資料館で目にとまるのは、やはり「焼き物」になってしまう。陳列ケースを遠望しただけで、無意識にそこを目指して足が勝手に動き出し、ガラスに顔をくっつけ、なんとかその有り様を間近に見たいと目を凝らす。これじゃあ、まるで海外のフリーマーケットでの買い付けと同じだ。買えないんだけど、いや買えないからこそ目力(メヂカラ)が増す。資料館にあったのは、釉薬こそ施されていないけれど、とても美しい。その美しさとは、現代の日本やアジアをはじめ、フィンランド、スウェーデンやイギリス、いや世界中の陶芸作家たちが追求する「モダンな形状」に連なっていはしまいか?
 この国で、初めて「土器」が使われた始めたのはおよそ1万年前の縄文時代と言われる。そして2400年前の弥生時代になると、稲作のために定住が始まり、移動生活では必要なかった生活に寄り添うさまざまな「焼き物」が作られることになる。その後、気が遠くなるほどの時間がたったはずなのに、基本的なフォルムは変わっていない。一体なぜなんだろう。
 今では実際には見ることはできないし、すべてが「進化」や「発展」という神話で覆い尽くされ、忘れ去られ、存在しないはずなのに、無意識のうちに継承され、現在にも影響を与えているものがある。それがたとえば「焼き物」だったりする。そんな「先行したもの」を自分なりに発見することは、刺激的だ。”過去は「あった」ものではなく、「いる」ものかもしれない”というのは、誰の言葉だっただろう。たしか、柄谷行人の『憲法の無意識』という本の中で引用されたものだったか。そういえば、聞いたところでは、オードリー・タンは柄谷氏の愛読者らしい。若きデジタル担当大臣の頭のなかには、どんな先行するイメージがあるのだろう。台湾へ行きたくなった。 

フラジャイルな時代ながら、

ひょん | ひと デザイン・建築 社会科
DATEFeb 25. 21

When I was flipping through the pages of a foreign magazine on the theme of St. Petersburg on the table at Junji Tanaka’s underground interior exhibition, an Anne Wiazemsky look-alike appeared. Speaking of which , Anne was of Russian descent, and above all, she was a revolutionary unstable beauty.

田中純二のアンダーグラウンド・ディスプレイ展におじゃまして、テーブルに置いてあったセント・ペテルスブルグをテーマした洋雑誌のページをめくっていたら、アンヌ・ヴィアゼムスキーの「そっくりさん」が現れた。そういえばたしかアンヌ自身もロシア系だったし、何よりも革命的に不安定な美女だったことを思い出した。

考えてみれば、会場自体が妙だった。西新の雑踏から幾分オフな長屋みたいなところにあるNIYOLというコーヒーショップの地下のガレージを使ったインスタレーションは、田中さん得意の「やらかした感」が充満している。部屋のかべ全体を荒仕上げした杉材で覆い、そこには手作りの収納型のミラーや棚がしつらえられ、天井からは筒型の照明が思いっきり下がり、床には切り株のテーブルとイームズ・ワイヤーチェア・ラウンジ仕様という塩梅だ。これじゃ、まるでアンダーグラウンドな革命家の山小屋ハイダウェイ、いやシェルターのようじゃないか。

アンヌ・ヴィアゼムスキーを知ったのは小柳帝さんの耳打ちだった。
随分前にジャン・リュック・ゴダールの話をしているときだったか、「武末さんは、もちろんアンヌ・ヴィアゼムスキーはご存知ですよね」と丁寧な言葉で質問されたのだが、あいにく知らなかった。
アンヌは、商業映画に決別し、毛沢東のプロレタリア文化大革命に傾倒した一連の映画作りをするようになったゴダールのミューズだったのだ。それらはどれも1960年から70年代にかけてのなんともイデオロギー臭い映画で、たしか観たことはあるものの、途中で眠るか中座していたくちで、アンヌの存在はなんとなくキュートな娘がいたなあ、という程度の認識だった。ところが帝さんは、「というか、アンヌが素晴らしかったのはゴダールの映画じゃなく、ロベール・ブレッソンが撮った『バルタザールどこへ行く』なんです」と言った。当然ぼくはこのレアな映画のDVDを後日入手、そしてようやくアンヌのフラジャイルな魅力にめざめたというわけだ。

田中さんは、いっしょにENOUGHという”暮らし方プロジェクト”めいたことを始めた4人の仲間のひとりで、酔っ払うと「自由でいいんじゃないですか」と繰り返すブルータルな工務店経営者であり、カーニバル好きなデザイナーである。だから、羽目を外しすぎて顰蹙を買うこともあるが、革命好きなのは間違いない。
アンダーグラウンド・ディスプレイ展を訪れた夜は、ちょっとした内輪による集いが予定されていた。といってもウイルス禍でもあり、特に告知とかはしなかったのだが、三々五々、顔なじみやご無沙汰の友人が現れた。みんな、それぞれの道を、なにを置いても自分らしく歩きたい人たちだし、暮らし方革命を目指す同志だとしてもおかしくない連中ばかり。フラジャイルな時代ながら、元気そうな顔に会えて、ホッとした。
田中純二 WEB homeaid interior

恋する男たちのボサノバ

ひょん | カルチャー 社会科
DATEFeb 8. 21

 
 小松政夫さんが亡くなったと知って、あの博多人らしい芸風を懐かしく思った。
 彼のペーソスあふれるギャグは「宴会芸」に通じているから面白い。宴会という同僚+取引き相手の集まりでの余興は、なかなかなむずかしい。図々しさと小心さをまいまぜにしつつ、あくまで「玄人はだし」の「かくし芸」を披露しなければならない。堂々としすぎてはいけない。そこには素人らしい「恥ずかしそうに」で「やけっぱち」のパトスが大事だ。
 ペーソスと聞くと「哀愁あふれる」という感じだが、同じ語源であるパトスとなると、それに「激情」という要素が含まれる。森繁久彌の社長シリーズにおける三木のり平の宴会芸はそのお手本。万年課長ののり平は、なにかというと「今夜は赤坂あたりでパッと行きましょう」と宴会へと話をそらして顰蹙を買うが、じつのところ状況を批評している観察者でもあるのだ。
 そういえば、古くからの友人で、山笠の「段上がり」もこなすノブ君は生粋の博多人で、顔ものり平さん寄りで、なにより博多弁による話が自虐的で面白すぎる。とは言っても生粋の素人なので、小松の親分さんには及ばないのはあたり前田のクラッカー。
 もうひとり、「宴会芸」から生まれたタレントがタモリだろう。ただし、彼は博多ではなく福岡のひと。だから土着性は希薄で、クールだ。はじめてタモリを見たのは1976年に当時の東京12チャンネルで放映されていた『空飛ぶモンティ・パイソン』というTV番組での「四カ国語麻雀」だった。
 なんなんだ、この怪しげな髪べったりでレイバンのサングラス男は。中国人、アメリカ人、フランス人、それにロシア人のハナモゲラ語には、笑いと一緒に危うさが同居していた。他者の言語と感情をアナーキーに演じながら、自分たち日本人の勝手な思い込みを相対化しているようで痛快だった。
 このTV番組の看板はモンティ・パイソンだった。そのシニカルな英国の笑いに、まだ無名だった森田一義のコーナーをぶつけたプロデューサーは偉かった。そして進行役はダンディで物柔らかな口調の今野雄二。海外のやばいカルチャーを、さらっと自分のスタイルで紹介した稀有なディレッタントだった。
 蛇足だけど、森田一義は僕が通っていた高校の4年先輩で、いわばニアミス。葡萄畑というバンドにいたときには、タモリが所属していた田辺エージェンシーというプロダクションから内密に移籍を誘われたのだが、事務所にばれて実現せずじまい。しかし、今野さんの『おもしろ倶楽部』というTV番組には時々出演させてもらったりもしたもんだ。1970年代は、ひょんな時代だったのか。
(写真はイメージです)

The BandとBurt Bucharach

ひょん | カルチャー 社会科
DATEJan 10. 21

 タワーレコード時代の友人Sさんから、この前のクリスマスに二枚のCDが送られてきた。一枚はThe Bandのトリビュート盤”The Endless Highway”で、随分前にアメリカで発売されたものらしいのだが、まったく知らなかった。参加しているのは、ほぼ今のアメリカのミュージシャンで、ほとんどが聞いたことがない名前だ。もう一枚はBurt Bucharachの”Blue Umbrella”。「バカラック92歳の新作、絶品です」というSさんのメッセージが添えられていた。
 タワーレコードが日本で輸入盤の卸しとフランチャイズを初めて展開したのは1970年代の終わりころだったか。たしか大阪と金沢、そしてぼくが勤めていた福岡のレコードショップがフランチャイズになったのだが、そのときの担当がSさんだった。東京人らしく一見クールで時々お茶目、アメリカ音楽が好きなひとだったから、商売抜きで仲が良くなった。1、2年経ったころ、Sさんから「渋谷に初の直営店を出すんだけど、売れるかな?」という電話があった。ぼくは「何を仰るウサギさん」と答えた。やがてオープンした店は連日の超満員。でもSさんは、何が気に入らなかったのか、スッタフを総入れ替えしたらしい。やはりアメリカ的なひとだったのかな。

 どっちから聴こうかと一瞬迷ったが、今までトリビュートで面白かったものに出会ったことがなかったしと、バカラックにした。すると、1曲めのイントロからあのバカラック節が流れてきた。そしてすぐに極上のセンチメンタルなメロディーが、抑制気味の男性ヴォーカルに乗って耳からハートに染み込んできたからもうたまらない。時間を超えて、すべてのことを慰撫するような音楽、健在すぎるよ、Mr.ソングライター。
 バカラックがジューイッシュの家庭に生まれたことが、かれの音楽に与えた影響が何だったのか、僕には知る由もない。でも、感じることはできる。「エグザイル」として「国」という寄る辺がない「孤独」。その対価としての「自由」。アメリカで、このふたつを両立させるのは簡単なことでない。それをアウフヘーベンしたのがバカラックの音楽だったのではないだろうか、なんて。
 さて、ザ・バンドだ。あまり期待もせずに聴き終えたら、打ちのめされてしまっていた。The Rochesが歌う”Arcadian Driftwood”や、Jack Johnsonの”I shall be released”など、ベテラン勢も良かったが、なにしろ若手(かどうかしらないけど)にやられた。いづれも原曲を損なわないアレンジ(なかにはグランジやファンキーっぽいバンドもあり、それも良)と演奏、そして歌詞が際立つ素直な歌い方がとても好ましく、オリジナルでは聞き取りにくかった歌詞が立っていて、今の時代にも有効なフレーズが警句のように響く。

 1960年代の終わりに出会った”The Weight”という曲は、のっけのギターの印象的フレーズからして、45回転のレコードをあえて33回転でかけたような独特なテンポを持つ、ゾクッとする未知の音だった。そこにはヒッピーの若さはなく、「悟り得ない老人」のような違和感が充満していた。言ってみれば、「進歩」や「新しさ」への疑いであり、カウンターカルチャーに対する批評だった。この曲でリフレインされる言葉がある。
 Take a load for free「重荷を下ろして自由になれよ」
 
 そんなザ・バンドの音楽性は、しばらく前から「アメリカーナ」と呼ばれるようになった。たしかに、彼らはさまざまなアメリカのルーツ・ミュージックという「古い」ものを、彼らなりに回復しようとした稀有なロック・バンドだったと思う。「アメリカーナ」とは言ったものの、5人のメンバーのなかで、アメリカ人はドラムスとヴォーカルのレヴォン・ヘルムだけ。残りの4人はカナダ人で、しかも、多くの曲を手掛けたギタリスト、ロビー・ロバートソンはジューイッシュとネイティヴ・アメリカンという他者性が際立つ両親のもとに生まれている。まさにザ・バンドの面々は、アメリカとカナダにまたがるマルチ・カルチャーの落し子だ。そんな彼らにとって、移民たちのルーツ・ミュージックは彼らにとって決して「古い」ものではなかったはずだ。
 ザ・バンドとバート・バカラック。とっつきにくいオジサン・バンドと稀代のメロディメーカー。スタイルこそ違え、どちらも「アメリカーナ」を体現していることを思った。

 ところで、トランプ大統領は先日、ようやく敗北宣言をした。メキシコとの国境に壁を作ろうとした御仁は去る。これで世界の「重荷」は、一瞬だけ軽くなったのかな。

のっぴきならない偶然の美しさ。

ひょん | カルチャー デザイン・建築 旅 社会科
DATEDec 14. 20

 しばらく前、小浜と長崎に行ってみた。長崎県立美術館でやっている菊畑茂久馬展と、城谷耕生の作品展を一挙に観るのが目的といえばそうだが、小浜のちゃんぽんを食べ、温泉に浸かるのも忘れるわけにはいかない。でも、それだけではコロナ禍の遠出に気乗りしない運転手トモにはなにかが足りない。一計を案じ、雲仙岳に登って「樹氷」を見ないかと誘惑したら、あっさり了解してくれた。好奇心旺盛な女房はありがたい。
 小浜のちゃんぽんは薄味だが、魚介類の旨味がたっぷりだった。城谷耕生が手がけた「刈水庵」は海岸から続く細い路地を登ったところにあった。自身がデザインしたガラス器や奥さんの陶器などを展示販売する棟と、2階から海が見える喫茶室の棟が”くの字型”に並んでいて、まるで廃屋寸前の趣きがあって、とても好ましかった。
 小浜に一泊した朝、ホテルでテレビをつけると、昨夜初めて樹氷が確認されたらしい。いそぎ、妙見岳の頂上付近目指して車を走らせた。しかし木樹には氷の姿はなかった。すると、テレビ局の人らしい二人連れが僕らに近づき「今朝早くにはまだ所々あったですが…」と気のどくそうに言った。トモがなにか質問され、小枝にかろうじて残った氷を見せている。彼女はついに樹氷を発見したのだった。
 ぼくが「樹氷」を始めて見たのは武雄に住んでいた頃だから小学校2,3年生だったか。まだ自家用車を持っていない父が、どこかから借りてきただろう車に乗って家族3人で雲仙を目指した。ぼくも「樹氷」を見るということに興味を持ったのかもしれない。
 むかしの雲仙は遠かった。朝、家を出て、いったん有明海に抜け、海沿いの道を延々ガタゴト走り、お昼になったころようやく諫早に着く。昼飯は父の提案で「うな丼」だった。とんでもなく美味しかった。こんなに旨いものがあるなら、この先が期待できると思った。しかし、そのあとも遠かった。舗装されていない寒々とした道をひたすら走る車の中で、カーラジオから流れるザ・ピーナッツの『情熱の花』の日本人ばなれしたハーモニーのおかげでなんとか間が持てた。ようやく辿り着いた仁田峠のロープーウェイから見る一面の樹氷は豪華なアイスキャンディーのようで、たしかに見慣れない光景だった。
 長崎県立美術館では、菊畑茂久馬の作品を見ることができた。”九州派”というレッテルなしに絵に向きあってみると、彼はじつに真剣なひとであることが想像できる。『絵かきが語る近代美術』という彼の本を読んだばかりだったので、なおさらそう思った。ポルトガル人宣教師が持ち込んだ宗教画は”油画”と呼ばれ、江戸時代に長崎で独自の発展を遂げる。そのあと明治維新後”西洋画”となり、日進、日露戦争、そして太平洋戦期の”戦争画”へと変容してゆく様子が語られるこの本は、美術が日本の近代化に果たした功罪を教えてくれる。そして夏目漱石の「芸術は自己に表現に始まって自己の表現に終わるのである」という言葉を引用し、権力、権威へのソンタクをいましめている。菊畑茂久馬は、やはりバリバリの九州派だったのである。
 もう一つの展示では、城谷耕生がデザインしたプロダクトを通して、彼の仕事が俯瞰できるものだった。小浜に生まれ、イタリアでデザイナーとしてのキャリアをスタート、エンツォ・マリや色々な人と企業を繋ぎながら、「地域」に根ざす仕事を続けている。なにしろ形がいい。特にガラス作品。バウハウスやカイ・フランクにも通じる、機能と美しさが静かに呼応したアノニマスな様子は、見ても使っても、とても気持ちがいい。いつかお会いしていろいろ話を伺ってみたい人です。
 旅のポイントに「樹氷」を提案した時、朋子からカウンター提案があった。長崎の原爆資料館だ。広島は訪れたことがあるのだが、長崎はまだだったこともあり行くことにした。ただし、旅の最後にした。
 入場券売り場に行くと、入場前の中学生らしき団体さんが列をなしている。ぼくらは一般チケットを買い一足先に入ったものの、途中ですぐに追いつかれてしまい、結局彼らと一緒に見学することになった。
 高度9600mのB29からパラシュートで投下されたプルトニウム爆弾が地上500mで炸裂し、わずか数秒で広がってゆく様子がジオラマ上で再現されるシュミレーション映像に、一瞬にして心が凍った。爆弾のニックネームは”ファットマン”、笑えないジョークだ。実物大に再現された黄色いソレは、なんだかアッケラカンと滑稽な形をしている。史上最も醜悪なデザインだ。
 それにしても、惨禍を物語る展示物には、どれも所有者のオウラを感じることを要請されるようで、見つめ続けることが難しい。そんななかで、サイダーの瓶だろうか、ぐんなりとへしゃげたガラスの塊におもわず目を奪われた。そう言って良ければ、それは「オブジェ」だった。「もの」の存在と「ひと」の実存はちがうものだろう。しかし、意味や目的、そして機能を奪われたはずのオブジェが発する「のっぴきならない偶然の美しさ」から生まれるオウラも実存なのではないかと疑った。

・このブログを投稿した夜、友人のデザイナーから城谷耕生氏の訃報を聞きました。これからの氏の活躍を楽しみしていただけに、とても残念です。ご冥福をお祈りしします。

こっけいで辛辣な、ひとりっきりのパンク。

ひょん | 映画・音楽
DATEOct 22. 20


 昨晩のこと、とんちピクルスをオルガンに迎えて、動画配信LIVEというものをやってみた。ぼくと朋子も参加するというので、事前にアアデモナイコウデモナイと考え、機材などは経験のある森重くんに協力をしてもらったものの、そこは素人がやるわけでミスもあったがそれはしようがない。画面が突然真っ黒になったり、ぼくはCDの頭出しを間違えてしまったり、据え置きカメラの前を手持ちカメラを持った野見山さんが横切ったり。さいわい、予定調和なんて考えず、アクシデントが起きても気分だけは「ゴダールで行こう」ノリだったのが良かったのか。協力してくれた森重さん、野見山さん、こよちゃん、偶然&必然に現れたKIDOSHIN、お疲れ様でした。
 内容は、とんちさんのLIVE半分で、あとは『ケツクセ』と題した私家版のコンピレーションCDからの曲を流した。1999年に、スタイルの違う4人の宅録ミュージシャンと一緒に作った、ポップで、ラップで、ラウンジーでヘタウマで、愛すべき一枚だ。その中にはとんちさんも松浦浩司という本名で参加、あの「どうだいドラえもん」の初期ヴァージョンが含まれていたり、”異才”倉地久美夫さんの「井草のスプレー」というシュルシュルな曲も収録されている。そんな「九州派」な音を交えながら、「見えるラジオ」を目指してとんちさんとアケスケな話を楽しくやらせてもらった。
 
 曲を作って自宅で多重録音できるという、夢の様なTEACの4チャンネル・カセット・テープレコーダーが出現したのは1980年始めころだった。自分ひとりで、4つのトラックに演奏や唄を録音できて、ステレオにトラックダウン出来るという、夢の様な機材だった。それがやがてデジタル化されトラック数も増え音質も向上し、あまつさえCD化する過程までをすべてセルフコントロールする自由を得るのには、それほど時間はかからなかった。自室にこもり、日夜を問わずヘッドホンを付けて自作の曲と格闘して「うん、これはいい!」と思っても、翌朝に聴くと「イケてないな、自己満足だな」となることも多い。画家にも通じる自分との果てしない格闘といえば聞こえはいいが、要は自身がプロデューサーでもあるわけで、「俺が俺がの世界」とのバランス、そこんところがムズカシイところでもある。

配信の途中、とんちさんの曲を聴いていてふいに早川義夫のアルバムタイトルのひっくり返し「かっこ悪いことはなんてかっこいいんだろう」という言葉が浮かんだ。松浦浩司の詩と唄には、今で言う「おしゃれな生活」への、彼ならではの返信がある。それは「こっけいで辛辣な、ひとりっきりのパンク」なのだ、といまさらのように気づいた。そういえば、彼のハードコアなもうひとつのユニット名はたしか「屠殺器」だったはず。興味津々。

ヒストリーとはストーリーなんだもの。

ひょん | 旅 社会科
DATEOct 19. 20

 

 久しぶりの旅は、パスポートがいらない国境の島「対馬」だった。一度は訪れてみたい場所だったのだが、行ってみると、勝手な想像と思い入れを軽く越えた、気の遠くなるような長い歴史を垣間見ることになった。
 対馬は、面積の95%は500mくらいの山々で、わずか5%の土地が散在するばかり。人々の暮らしは海を頼りにせざるを得なかった。そのためにはリアス式海岸の複雑な地形が役に立った。なかでも、外海から奥深く入り組んだ複雑な地形を持った浅茅湾(あそうわん)周辺では、縄文期からの暮らしの遺跡に事欠かないのだが、なにより驚くのは、そんな昔から人々は海を渡って交易をしていたことだ。いやそれどころか、何万年前だかには、大陸と地続きだったらしいのだ。
 峰(みね)というところにある、小さな民俗資料館には石器などが大量に保管展示されていて、中に魚や食物を切るための鋭利な黒曜石があった。それらは対馬にはないもので、九州の伊万里あたりから運ばれたとある。わが故郷の近くじゃないか。いきなり対馬が身近に感じられる。日本史の時間はたいくつで、世界史好きだった僕にとっては、ちょっとした発見だった。
 「最新の発見とは、最古の発見である」という説は、なにも考古学に限ったことではない。やれAIだ、次は5Gだといわれても、ああ、また新手のデジタル商品か、面倒くさいなあと思ってしまうのは、歳のせいだ。残された時間を使い、自分が存在していなかった時代のあれこれを上書きするのは、新たな発見なのだ。
 実のところ、対馬に興味を持った理由の一つは、自分の姓である武末がいったいどこらへんに多いのかをネット検索したことにある。すると、本籍である福岡市のはずれの他は対馬だけだった。うわっ”島”だ、もしかすると「自分は渡来人の末裔か」。行ってみることに何のためらいもなかった。
 で、話は対馬だ。
 弥生時代にかけて稲作の技術が伝わり、船による往来が盛んになる。南は沖縄や中国、北は遠く今のロシア領にまで渡っているのにも驚いたのだが、やはり島の北端から最短距離50kmの朝鮮半島との交流がメインだったはず。実際にその場所に行ってみると、水平線と見紛うように釜山が薄っすらと見える。そういえば、ここからすぐの海で日露戦争での日本海海戦が行われたわけで、なるほど東郷平八郎の「本日天気晴朗なれども波高し」そのままの良い天気。
 備え付けの望遠鏡が無料だったので覗いたら、いきなり釜山港の周辺のエノキ茸みたいな高層マンション群が目に飛び込んでくる。すごい倍率とはいえ、近すぎる。しかし、これなら楽に行き来が出来るかといえば、そうはいかなかったらしい。対馬海峡とも朝鮮海峡と呼ばれるこの公海は狭い分、海流が激しく不規則なので、難破する船も多かったのだ。遭難し、幸運にも救助された対馬と朝鮮半島の人たちは、いずれも双方の地元民により手厚く保護されたという。いわば海に生きる人々が発明した史上初の国際法とでもいうのか、「海民」としてのアティテュードなのだろう。
 対馬は神話誕生の地といわれる。島のアチラコチラにソレゾレの形で残っているのは、村々に伝わってきた「海と山(地)の神」の伝説だ。その一つを訪ねて、絶景とカーブと坂道だらけの島をレンタカーでひた走り、浅茅湾の奥深くにある「和多都美(わたつみ)神社」へ行ってみることにした。
 たどりついてみると、入り江の奥が陸につながりその先が神社になっている。安芸の宮島をずっと小型にしたような形態なのだが、こちらは質素というか天然だ。ちょうど引き潮だったので、少しぬかるむ砂地に降りて海に立つ鳥居のほうへ歩いてみたら、「ここは立ち入りを禁止します」との立て看板を見て、罰当たり者はあわてて引き返した。そう、ここは「聖地」なのであった。
 ぼくは立派な神社に行っても心が動かない。権威に裏打ちされたような美しさにはどうしても馴染めないのだ。でも、ここはリアルでイイ。今はコンクリートの鳥居だが、何十年か前までは、竹を4本立てただけだったらしい。できれば、そのまんまのほうがベターだったのに。
 いつ頃かわからない大昔、渡来人がこの湾にたどり着いた。やがて、この他者は様々な技術や知恵を持った「海彦」として「山彦」である地元民から恐れられつつ、畏敬の念を持たれ…、なんて「日本昔話」めいた逸話が頭をよぎる。それは7世紀頃に大和朝廷が誕生し、中央集権化を図る時の神話として機能してゆく際に、格好のストーリーに変換されに違いない、などと妄想する。だって、ヒストリーとはストーリーなんだもの。
 それにしても、アナゴ、旨かった。たまに食べるとしても、握り寿司の上に乗っかった焼きアナゴくらいだが、新鮮な刺し身は格別だった。あの異形をした魚は対馬によく似合う。
 食べたくなったら、また行くのだゾ。