2025, June

半端ないくらい、紀元前と現在の区別がないのが困る。

ひょん |
DATEJun 25. 25

敦煌にある<莫高窟>は、あまりにも名が知れていて、観光客も多すぎて、仏教石窟の数は多いけど、実際に公開されている壁画は一部だった。それに比べると、同じ石窟でも<ベゼクリク千仏洞>はよかった。何がよかったといえば、小規模で閑散としていて、音楽があったことだ。

ーーー海外買い付けでせっかちに歩いていて聞こえてくる音が音楽で、それが押し付けBGMじゃなくてフィジカルだったらすぐにわかる。パリのメトロではシャンソン、ジュネーヴのマルシェでアルプス民謡のコーラス、ニューヨークの歩道ではストリート・ミュージシャンが奏でる音楽がふいに聞こえてきたりする。嬉しいハプニングなのだ。

ここで聞こえてきた音を、一瞬、琉球の三線?と思ったが、いくら世界が小さくなったといえ、そんなはずはないだろう。急峻な階段を降り切ると、洞窟の前でウイグル族の帽子を被った老人が、特徴のある長い柄の弦楽器を悠然と弾いていた。即興だろうか、トツトツとした乾いたペンタトニックの響きが、控えめだが、しっかりと谷間全体に反響している。老人の皺だらけの顔に見入っていると、たった一人の聴衆のために、彼は静かに唄い出した。アラブ音楽は琉球と同じく、6つの音階からファとシを省いた、独特の哀愁を持つ音階だ。演奏もシンプルで、自分に向かって歌いかけている。初期のボブ・ディランのように聞こえたから10元を渡したら、シワシワの顔がほころんだ。

<べゼクリク千仏洞>は深い峡谷の崖っぷちにあり、その壁に穿かれたいくつかの穴に仏教壁画が残っているが、それは莫高窟に比べると規模も小さい。残っている壁画はナイーブだったが、僕は好きだった。ガイドの魏さんによると、ここだろうが莫高窟だろうが、仏教壁画の多くが姿を消している。盗掘もあるが、20世紀初頭にロシアやドイツなどの探検隊などが壁画を剥ぎ取って持ち帰り、自国の博物館で展示しているとのこと。その結果、「美術品」として価値を認め得なかった「ヘタウマ」が残っているのか。漫画やグラフィティっぽくて、かえって面白い。大昔のひとの直感的な表現は単独的で、絵の出来不出来よりも、描いた人のことが気になってしまう。

忘れられないのは「万里の長城」の西の起点になったといわれた<玉門関>。紀元前108年ころに、中国側シルクロードの最西端に建造されたはるか「ローマへと通じる」重要な関所だったらしいが、今はモニュメントとしての城壁の痕跡だけが、土漠の中に忽然と残っているだけ。泥に植物の枝を混ぜて造作された3メートルほどの高さしかない塀は、気が遠くなるほどの時間の中、強い風に痛ぶられて、どんなインスタレーションもかなわない歴史を伝えている。これを「美しい」と思う自分は変なのだろうか。

もうひとつ、ついでってわけじゃないけど、<交河古城>と呼ばれる古代都市。それにしても、連日の古跡巡りが続き、実はバテ気味。ましてここは広すぎるし、気温はやはり摂氏41度だもの。足が動きたくないらしく、ガイドさんと随行者(妻)に一番の見どころを譲って、見晴らしの良いところでひとり一服してサボることに決めた。ウイグルで日本からやってきた老人がが熱中症でダウンという事態はごめんだ。

ここは、”シルクや玉石”と、ローマからの”ガラスや金属製品”など、互いの「ないモノねだり」の交換の場だったし、いわば街ごとオークションハウスだったのか。いやいや、実際は強固な城壁都市だったから、おびただしい数の人の生活の痕跡がクンクン匂う。なんとか原型をとどめるのはドーム型の仏教寺院だけ(イマは天井はないけど)。普通の人々の住居跡や、屯田兵たちの食物倉庫があったはずだが、たくさんの窓のような穴ぼこを持つ土くれが広がっているだけ。ついガザ地区を思い起こしそうになった。半端ないくらい、紀元前と現在の区別がないのが困る。

違います「イスラム」という名前ですと訂正された。

ひょん |
DATEJun 15. 25

<トルファン>はシルクロードの交易オアシス。気温は予想通り41度で、なんと湿度は9%。おまけに風が強い。カラカラに暑くて、風強しなんて環境は経験したことがなかったが、今度の旅で楽しみにしていた場所なので、気分はいい。

ホテルを出る時に、二人目の男性ガイド魏(ぎ)さんからサングラスと紫外線対策の黒い蝙蝠傘を忘れないようにとのアドバイス。言われなくとも準備OK。車に乗ると「シーベルト付けてください」と毎回声をかけてくれる。時々東北弁みたいに聞き取れないこともあるが、基本的なことを熱心に説明してくれるし、ムッツリよりこちらも質問がしやすい。

<天山天地>は”中国のスイス”と言われる場所。ラピスラズリのような深いブルーをした湖の向こうに、雪を頂く山が見渡せる。言わずもがなの絶景とはこのことか。この豊かな水は、天山山脈の氷河からのもの。その氷河の水は地下深くまで浸み込んで、カラカラの砂漠へも恩恵を与えている。そのためには地下深く井戸を掘り、地下水道を通して、オアシス地帯の生活水や畑の灌漑水として利用しているとは魏さんの説明。今から2000年ほど前にペルシャあたりから伝わった技術とのこと。急峻な山々とたくさんの河川に恵まれた日本列島の住民にとって、水を得るためとはいえ、信じられない「人力」を感じた。

完備されたハイウェイを走っていると、砂漠に赤い色の岩山が続く風景が、ふとサンタフェあたりの光景と重なって見えた。どちらも広大な大地に住んでいた先住民たちも見た景色なのだ。でもハイウェイを降りると、風景は一変する。見渡す限り緑のぶどう畑が広がり、その中をまっすぐなポプラの並木道に入る。なんだかヨーロッパの田舎みたいでもある。しかし、道の両側はれっきとしたイスラム風の住居がなんでいるから、ウズベキスタンを思い出す。ここは一体どこなんだろう。

そんな風景を見ていたので、魏さんに「ここら辺は干し葡萄だけじゃなく、ワインも作っているんですか」と、尋ねてみた。そしたら「もちろんです。これから立ち寄る葡萄農家で飲めますよ、ご飯もね」と来たもんだからいうことはない。

そこはウイグル人一家が住む家で、夫婦と姉、弟の4人家族。独特のアトラス柄の民族衣装と、はにかんだような笑顔で、僕たちを迎えてくれた。顔立ちは鼻筋が通っていて、トルコで出会った人々に近いかも。余談だけど、中国映画では、ウイグル系の顔立ちをした女優が人気らしい。「混血」が生み出した優勢遺伝なんて昔っぽい言い方だけど、それはそうだろう。

お母さん手製の料理と一緒に赤ワインがテーブルに運ばれるや、取り急ぎ口に運んだ。旨い。濃いのに、さっぱりしている。ワインに詳しいわけでもないが、初めての香りと味に思わず笑ってしまった。ワインの発祥の地は今のジョージアあたりと聞いているが、以前飲んだジョージア・ワインよりも柔らかいから、どんどん進む。これは、ワインというより葡萄酒だな。しばらく禁酒している朋子もご機嫌に飲んで、魏さんとの会話も弾む。

つい僕も会話に割って入りたくなり「魏さんが西安の大学にいたころ、中国では学生運動が盛んだった時期だと思いますが、どう思いましたか」と聞いてみた。「その頃ちょうど天安門事件が起こりました。共産党の汚職や貧富の差に、私もみんなも怒っていて、学生たちが立ち上がったのです。1989年でした。ベルリンの壁がなくなって、世界がこれから良くなるという希望がありました。でも、その後、そうはなりませんでした」。
と、話が深みに入りかけた時、突然、一家の一人息子君が踊り始めたから驚いた。イスラムの神秘主義音楽<カッワーリー>をポップにしたような曲をバックに、にっこりとリズムに合わせて、時折「パン」と一人手拍子を交えながら踊るからたまらない。つい、彼の名前をお父さんに尋ねたら「スラムで歳は9歳です」とのこと。スラム君ですかと確認すると、魏さんが、違います「イスラム」という名前ですと訂正された。「そんなドンズバな」と心の中で思ったら、「こちらでは多い名前です」と耳打ちされた。
”新疆ウイグル自治区のウイグル人は中国政府から弾圧を受けている”とのメデイアの情報を真に受けていた僕は、この「民族」と「宗教」が一体化した「イスラム」という名前をもらった子は、大丈夫なのか、と思った。

間違いなく、中国へやって来た。

ひょん | 旅 社会科
DATEJun 6. 25

出発間際になって、現地の気温を調べたら、なんと41度だったが、いまさら引き下がれないと、観念する。タクラマカン砂漠へ行こうというのだから、観念する。
そこは<新疆ウイグル自治区>。中国の西の果てにあるウイグル人を含んだ他民族がミックスする「西域」で、「国家」としては中国に属している。タクラマカン砂漠という広大な”土漠地帯”に点在するオアシス都市を結ぶ<天山北路>と呼ばれたシルクロードへの旅である。

「なんでまたソンナトコロへ」と言うなかれ。これでも、1980年代、NHKで月一回放映されていたドキュメント番組『シルクロード』に触発され、なかんずく石坂浩二のナレーションに惹かれた昭和の人間なのだからだ。とんでもなく荒涼とした自然に散らばる古代遺跡と、さまざまな民族が争い、混交、交流したであろう大地。ここは足腰が立つうちに、なんとしてもイカズバナルマイ。
何より自分は貿易商人の末裔のハシクレである。だから、ローマから西安までの貿易ルートをラクダに乗り、命を賭して先輩たちが歩き迷ったであろう砂漠を、少しでも辿ってみたかったのだ。

7泊8日でウルムチ、トルファン、敦煌、嘉峪関とその周辺の遺跡や博物館を巡る旅は、まず西安から始まった。その間、滞在は各地一泊で、飛行機や汽車、そして車を使っての長時間移動となるから結構タイトだ。手際良く回るために、今回はいつもの自業自得旅と違って現地の旅行社に通訳を含め、すべてお世話になることにした。
その理由:
①西域は英語が通じないらしく(実際、ホテルのフロントさんも含めて、ほとんどダメだった)、タクシーなりでの遺跡巡りの移動手配がありすぎる。中国内の飛行機と汽車移動もあり、その際、手続きを含め言葉の難儀が予想される。
②何にしても、チェック体制が厳しい(空港、汽車、遺跡、博物館など、どこでもパスポート、手荷物の検査まである)。
とまあ、聞きしに勝る厳しさは、民族問題がくすぶる「新疆ウイグル自治区」だからだったからなのだろうか。いや、中国はどこもそんな感じなのか。

さて西安だ。昔は「長安」と呼ばれたシルクロードの東の終点&西からは始発点だが、ここが漢民族の都になったのはBC11世紀というからギリシャ文明の始まり頃か。それ以来2000年間にわたって、13の王朝がこの地を都としてきたけど、各王朝の寿命は短く、最終的に唐が支配して最長300年続いた。日本との交流はご存じ阿倍仲麻呂や空海。唐の絶頂期に渡ったのだから長安の都の威容にさぞタマゲタに違いない。阿倍さんは超真面目な留学生で、最期を唐で迎えたひと。かたや空海さんは、仏教を日本に伝えたひととして知られるが、実はなかなかの隅に置けないひとで、たくさんの経典ばかりではなく様々な品々を日本に持ち帰って来たらしい。「買付旅」だったのだろうかな。

西安でガイドをしてくれたのは、楊(ヨウ)さんという女性。福岡へは何度か訪日ツアーのガイドで来たことがあるという小柄でおかっぱ、ハキハキした日本語も聞き取りやすかったので大いに助かりました。
彼女が最初に案内したのは<大雁塔>。西遊記でお馴染みの三蔵法師ゆかりの地で、大雁塔は彼がインドから持ち帰った数々の経典の保存と翻訳のために建設されたとのこと。三蔵法師がシルクロードを経て「買い付けて来た」のは7世紀。インドだけではなく、そろそろイスラム文化も西安に入り始めたころかな。そのせいか、塔は日本の寺の五重塔とは違い、力強く、建築的でモダンなので驚いた。境内では一般人も含めて、お経の大合唱が響き渡り、それは日本のおおごそかな念仏とは違って、コーラスのように力強かった。

そのあと、西安の旧市街にある<回民街>へ行った。そこはイスラム教徒である回族のコミュニティが形成されたエリアで、イスラムと中国がミックスしたB級グルメ屋台のメッカ。僕らは脇道のマーケット街へ入り込み、さっそく「モノ」を物色、たくさん並んだ店で、瑪瑙(メノウ)や清の時代の「錠前」を買い求めた。中国では石を「玉(ぎょく)」と呼び、人々はとても珍重する。美しさとパワーストーン的神秘性なのか、なんだか興味深い。原石を、それも瑪瑙(メノウ)買うのは初めてなので、面白かった。

夜は、明代に建てられた<西安鐘楼>に面した中華料理屋で「餃子のフルコース」をいただいたが、「焼き餃子」じゃなかったし、量が多すぎて、しかも味が淡白(その後7日間、朝、昼、晩と食べた地元料理はどれも薄味だった)。窓の外に見える西安鐘楼は、ランドマークらしくライトアップされ、漢の時代のど派手な衣装を着たたくさんの女性が鐘楼をバックにコスプレ大会の最中だった。インスタ用の動画撮りらしい(その後、各地の観光地でこの漢服のレンタル屋さんを見かけたし、それを着てラクダに乗った女性もいたっけ)。
間違いなく、中国へやって来た。