<トルファン>はシルクロードの交易オアシス。気温は予想通り41度で、なんと湿度は9%。おまけに風が強い。カラカラに暑くて、風強しなんて環境は経験したことがなかったが、今度の旅で楽しみにしていた場所なので、気分はいい。
ホテルを出る時に、二人目の男性ガイド魏(ぎ)さんからサングラスと紫外線対策の黒い蝙蝠傘を忘れないようにとのアドバイス。言われなくとも準備OK。車に乗ると「シーベルト付けてください」と毎回声をかけてくれる。時々東北弁みたいに聞き取れないこともあるが、基本的なことを熱心に説明してくれるし、ムッツリよりこちらも質問がしやすい。
<天山天地>は”中国のスイス”と言われる場所。ラピスラズリのような深いブルーをした湖の向こうに、雪を頂く山が見渡せる。言わずもがなの絶景とはこのことか。この豊かな水は、天山山脈の氷河からのもの。その氷河の水は地下深くまで浸み込んで、カラカラの砂漠へも恩恵を与えている。そのためには地下深く井戸を掘り、地下水道を通して、オアシス地帯の生活水や畑の灌漑水として利用しているとは魏さんの説明。今から2000年ほど前にペルシャあたりから伝わった技術とのこと。急峻な山々とたくさんの河川に恵まれた日本列島の住民にとって、水を得るためとはいえ、信じられない「人力」を感じた。
完備されたハイウェイを走っていると、砂漠に赤い色の岩山が続く風景が、ふとサンタフェあたりの光景と重なって見えた。どちらも広大な大地に住んでいた先住民たちも見た景色なのだ。でもハイウェイを降りると、風景は一変する。見渡す限り緑のぶどう畑が広がり、その中をまっすぐなポプラの並木道に入る。なんだかヨーロッパの田舎みたいでもある。しかし、道の両側はれっきとしたイスラム風の住居がなんでいるから、ウズベキスタンを思い出す。ここは一体どこなんだろう。
そんな風景を見ていたので、魏さんに「ここら辺は干し葡萄だけじゃなく、ワインも作っているんですか」と、尋ねてみた。そしたら「もちろんです。これから立ち寄る葡萄農家で飲めますよ、ご飯もね」と来たもんだからいうことはない。
そこはウイグル人一家が住む家で、夫婦と姉、弟の4人家族。独特のアトラス柄の民族衣装と、はにかんだような笑顔で、僕たちを迎えてくれた。顔立ちは鼻筋が通っていて、トルコで出会った人々に近いかも。余談だけど、中国映画では、ウイグル系の顔立ちをした女優が人気らしい。「混血」が生み出した優勢遺伝なんて昔っぽい言い方だけど、それはそうだろう。
お母さん手製の料理と一緒に赤ワインがテーブルに運ばれるや、取り急ぎ口に運んだ。旨い。濃いのに、さっぱりしている。ワインに詳しいわけでもないが、初めての香りと味に思わず笑ってしまった。ワインの発祥の地は今のジョージアあたりと聞いているが、以前飲んだジョージア・ワインよりも柔らかいから、どんどん進む。これは、ワインというより葡萄酒だな。しばらく禁酒している朋子もご機嫌に飲んで、魏さんとの会話も弾む。
つい僕も会話に割って入りたくなり「魏さんが西安の大学にいたころ、中国では学生運動が盛んだった時期だと思いますが、どう思いましたか」と聞いてみた。「その頃ちょうど天安門事件が起こりました。共産党の汚職や貧富の差に、私もみんなも怒っていて、学生たちが立ち上がったのです。1989年でした。ベルリンの壁がなくなって、世界がこれから良くなるという希望がありました。でも、その後、そうはなりませんでした」。
と、話が深みに入りかけた時、突然、一家の一人息子君が踊り始めたから驚いた。イスラムの神秘主義音楽<カッワーリー>をポップにしたような曲をバックに、にっこりとリズムに合わせて、時折「パン」と一人手拍子を交えながら踊るからたまらない。つい、彼の名前をお父さんに尋ねたら「スラムで歳は9歳です」とのこと。スラム君ですかと確認すると、魏さんが、違います「イスラム」という名前ですと訂正された。「そんなドンズバな」と心の中で思ったら、「こちらでは多い名前です」と耳打ちされた。
”新疆ウイグル自治区のウイグル人は中国政府から弾圧を受けている”とのメデイアの情報を真に受けていた僕は、この「民族」と「宗教」が一体化した「イスラム」という名前をもらった子は、大丈夫なのか、と思った。