敦煌にある<莫高窟>は、あまりにも名が知れていて、観光客も多すぎて、仏教石窟の数は多いけど、実際に公開されている壁画は一部だった。それに比べると、同じ石窟でも<ベゼクリク千仏洞>はよかった。何がよかったといえば、小規模で閑散としていて、音楽があったことだ。
ーーー海外買い付けでせっかちに歩いていて聞こえてくる音が音楽で、それが押し付けBGMじゃなくてフィジカルだったらすぐにわかる。パリのメトロではシャンソン、ジュネーヴのマルシェでアルプス民謡のコーラス、ニューヨークの歩道ではストリート・ミュージシャンが奏でる音楽がふいに聞こえてきたりする。嬉しいハプニングなのだ。
ここで聞こえてきた音を、一瞬、琉球の三線?と思ったが、いくら世界が小さくなったといえ、そんなはずはないだろう。急峻な階段を降り切ると、洞窟の前でウイグル族の帽子を被った老人が、特徴のある長い柄の弦楽器を悠然と弾いていた。即興だろうか、トツトツとした乾いたペンタトニックの響きが、控えめだが、しっかりと谷間全体に反響している。老人の皺だらけの顔に見入っていると、たった一人の聴衆のために、彼は静かに唄い出した。アラブ音楽は琉球と同じく、6つの音階からファとシを省いた、独特の哀愁を持つ音階だ。演奏もシンプルで、自分に向かって歌いかけている。初期のボブ・ディランのように聞こえたから10元を渡したら、シワシワの顔がほころんだ。
<べゼクリク千仏洞>は深い峡谷の崖っぷちにあり、その壁に穿かれたいくつかの穴に仏教壁画が残っているが、それは莫高窟に比べると規模も小さい。残っている壁画はナイーブだったが、僕は好きだった。ガイドの魏さんによると、ここだろうが莫高窟だろうが、仏教壁画の多くが姿を消している。盗掘もあるが、20世紀初頭にロシアやドイツなどの探検隊などが壁画を剥ぎ取って持ち帰り、自国の博物館で展示しているとのこと。その結果、「美術品」として価値を認め得なかった「ヘタウマ」が残っているのか。漫画やグラフィティっぽくて、かえって面白い。大昔のひとの直感的な表現は単独的で、絵の出来不出来よりも、描いた人のことが気になってしまう。
そして、忘れられないのは「万里の長城」の西の起点になったといわれた<玉門関>。紀元前108年ころに、中国側シルクロードの最西端に建造されたはるか「ローマへと通じる」重要な関所だったらしいが、今はモニュメントとしての城壁の痕跡だけが、土漠の中に忽然と残っているだけ。泥に植物の枝を混ぜた3メートルほどの高さしかない姿が、気が遠くなるほどの時間の中、強い風に痛ぶられて、どんなインスタレーションもかなわない歴史を伝えている。これを「美しい」と思う自分は変なのだろうか。
もうひとつ、ついでってわけじゃないけど、<交河古城>と呼ばれる古代都市。それにしても、連日の古跡巡りが続き、実はバテ気味。ましてここは広すぎるし、気温はやはり摂氏41度だもの。足が動きたくないらしく、ガイドさんと随行者(妻)に一番の見どころを譲って、見晴らしの良いところでひとり一服してサボることに決めた。ウイグルで初老の日本人が熱中症でダウンという事態はごめんだ。
ここは、”シルクや玉石”と、ローマからの”ガラスや金属製品”など、互いの「ないモノねだり」の交換の場だったし、いわば街ごとオークションハウスだったのか。いやいや、実際は強固な城壁都市だったから、おびただしい数の人の生活の痕跡がクンクン匂う。なんとか原型をとどめるのはドーム型の仏教寺院だけ(イマは天井はないけど)。普通の人々の住居跡や、屯田兵たちの食物倉庫があったはずだが、たくさんの窓のような穴ぼこを持つ土くれが広がっているだけ。ついガザ地区を思い起こしそうになった。半端ないくらい、紀元前と現在の区別がないのが困る。