愛してる..ぼくもそうじゃない。

ひょん | 社会科
DATEJul 4. 20


 おととしあたりから、ブカブカのシャツを着るようになった。そうしたら、それまで着ていた服が着れなくなった。長いこと、スボンはワークパンツ系で、シャツやジャケットもスタンダードだったはずなのだが、もういけません。ズボンはもともブカブカなのでいいとして、シャツやジャケットのアームホールや身頃が窮屈に感じる。ゆったりした着心地と風通しの良さを経験すると、もう後には戻れない。もともと肩こり症なのが、年をとり服のストレスに勝てなくなったわけだ。
 週に一回かよっているカイロプラクティックで、施術中にK先生と時節柄のことなんかを話すことがある。最近だと、スウェーデンのコロナ対策は果たして成功するのだろうかとか、アメリカの”Black Lives Matter”って問題だよね、とか。で最後はなぜだか、おおむねニッポンの現総理大臣のことになってしまう。もちろん批判が多い、というかそればっかりだ。まあ、風呂談義みたいなものだから、他愛がないのがいい。
 いつだったかTVで高橋源一郎さんが、「安倍さんは日本語を壊してしまった」みたいなことを言っていて、ウマイこと言うなあと思った。キャッチコピーみたいな政策にしろ、多くの疑惑への責任逃れにしろ、言っていることは、丁寧なふりをした空虚な言葉ばかりだ。嘘すれすれのあいまいな答弁で話をそらす術にだけは長けているようだけど、国民はそのことをわかっていながら「他にいないから」とあきらめているとしたら情けない。
 「あいまい」といえば、日本人は「あいまい」な表現が好きで、しかも得意だと、これもTVで隈研吾さんの対談相手さんが言っていて隈さんも同調していた。縁側や障子という、外と内の境界をあいまいにする建築様式がそれをあらわしている、みたいな話だった。ところが、(放送作家でテレビの人気番組をいくつも手がけた)対談の相手の人が「これからAIの時代になってゆくわけで、日本人のファジーさが役に立つはずです」と言い出した。Fuzzyって久しぶりに聞いた言葉だ。たしか90年代かな、グローバルとITという言葉と一緒に流行ったのは。エアコンとか家電製品向けのことだった気がする。英語で言われるとカッコいいけど、もともとは「はっきりしない」というという意味だろう。でも、「Fuzzy」と「あいまい」では、英語と日本語というだけではない違いがあるような気がする。
 「あいまい」には確かに「はっきりしたくない」気持ちが込められているのだが、大江健三郎さんの『あいまいな日本の私』という本を読んで、「あいまい」ということが少し「あいまいではなくなった」。少なくとも読んでいる最中は。
 最近「アンビバ」という和製短縮英語が一部流通しているやに思う。正式には”ambivarent”となる。もとはムズカシイ単語だ。これは、たとえば、「東大なんか否定する」ということは、実は東大にすごくこだわっているということらしい。強く否定することで、かえって自分の欲望を表してしまうわけだ。なるほど。ところが、それに似た英語で、”ambiguous”という、さらにムズカシイ単語があって、似たようなニュアンスだけど、実は反対の概念だという。
 どう反対かというと、なにかをクリアにするために無理をするambivarentに対して、ambiguousは「愛があれば、同時に嫌悪もある」という「両義性」を認めるということらしい。うーん、わかる気がする。セルジュ・ゲンスブールの”Je t’aime..moi non plus”の世界だな。つまり「愛してる..ぼくもそうじゃない。」ということか。いや、違うか?