
上の写真は、唐の玄宗皇帝が楊貴妃と過ごした温泉別邸。掘り起こした実物の温泉跡もあるのだけれど、建物はどれもレプリカだ。
通訳をしてくれた楊(ヨウ)さんから聞いたところでは、2人は音楽が大好きで、皇帝が何か演奏したりすると、楊貴妃がなまめかしい踊りを披露したらしい。そうやって、政治をほったらかしで温泉に入りびったったここは、2人には確かに「別世界」だったのだが、今では、頭上を上り下りするロープウェーから眺められているとは想像もしなかっただろう。
初めて「別世界」だと思ったのは、1980年代にニューヨークの摩天楼を見たときだった。度肝を抜かれつつ、人が住むのに、もしくは商売をするのに、あんな雲に届くほどのビル群を建てる必要が果たしてあるのかと思ったし、力を誇示するアメリカを見せつけられた気がした。フツウに人間が暮らすなら、ジョン・レノンが住んでいた“ダコタ・ハウス”の10階建てくらいでよかろうものを。それに比べて、マンハッタン島の南の地区は、イタリア系、中国系の移住民が住み、かつ商売をしている雑然とした界隈で、低層のボロいビルばかりだったし、道にはゴミが散らかっていた。日本とは違うこの極端な対比も「別世界」だった。
去年、モンゴルへ行った。ゲルに泊まった。外から見るより、中に入ると狭くはないのは、調度品がほぼないからだろう。移動生活をする遊牧民はそれでいいのだ。常にモノに囲まれた生活から一瞬でも逃れ、こっちもキャンプ気分で、人っこひとりいない果てしない草原で、昼と夜を経験した。間違いなく「別世界」だった。
そして、今年はモンゴルの隣の新疆ウイグル自治区へ行ってみた。すると、そこは紀元前からの遺跡のオンパレード。「歴史」という「別世界」だった。

新疆ウイグル自治区は「中華人民共和国」の一部で、西の端っこにある。国家体制はイチオウ共産主義で、経済は国家資本主義で、かつ野心的なので、世界中から奇異な目で見られている。ぼくは気が付かなかったが、妻によると、あちこちにある監視カメラが気になったという。ぼくはといえば、道を歩いていて、気軽に声をかけられたことが何回かあった。中国の人はぼくを中国人と思ったのか、と呑気な父さん。中国語はからっきしなので、そのつど手話みたいに口を指で指し、頭をフリフリしていた。顔はお互いモンゴロイドで、そのうえ服装も昔と違って今はそう違わなくなったので、他者かどうか案外見分けがつけにくい。それに比べると、ウイグル族の人は、鼻筋が通った顔が多いし、漢族との違いはなんとなくだがわかりやすいと思っていたが、昔NHKでやってた「シルクロード」で見たような、イスラム帽に濃いヒゲの人はほとんど見かけなかった。
メディアは、新疆ウイグル自治区では、一部のウイグル族が施設で労働と思想教育を強制的に受けさせられていると報道している。実際はどうなんだろうかと思ったので、ガイドの魏さんにそのことを尋ねたが「今はそんなことはありません」との答えだったが、いつもと違い彼の歯切れは良くなかった。モスクもだんだん少なくなっているという。上の写真は街中に突然現れたモスク、と思ったらショッピングセンターだった。イスラム教のれっきとした宗教施設としてのモスクは、共産主義とは相容れないのだ。魏さんに「共産党の一党独裁政権をどう思いますか」と質問してみた。1989年、西安の大学生だった彼は、天安門広場に馳せ参じようと思ったらしい。でも彼の答えは意外だった。「今は、家族と一緒に普通の暮らしを送ることだけです」と。
そんなわけで、日本に戻っても、中国については、なんだか片付かない気分が続いている。といっても、100%ネガティヴでも、ポシティブでもない。まあ、ネガポジというか、ひどくあいまいな後味だった。ひとつだけ、いつもの買い付け旅とは違って、3人の中国人ガイドさんと一緒の旅だったこと。彼らの日本語は言い回しがていねい過ぎたり、また変に直接的だったりと、「他者」の日本語なのだ。そんな経験は初めてだったが、新鮮だった。たとえは古いが、映画『社長シリーズ』でフランキー堺が演じるハワイの2世のブロークン・ジャパニーズみたいでおかしい。おかげで、帰りの飛行機でのカミさんとの会話も、お互いがちょっと変な日本語になっていたので笑った…。
思い返してみると、中国の観光地化したたくさんの遺跡には、争いの跡が多かった。「個人」と「国家」による歴史のエコーが響いていた。










ーー小柳帝の映画ゼミ・冬の特大号ーー
ーー小柳帝の映画ゼミ・夏の増刊号ーー



