別世界のあり方

ひょん | ひと 旅 社会科
DATEJul 11. 25

上の写真は、唐の玄宗皇帝が楊貴妃と過ごした温泉別邸。掘り起こした実物の温泉跡もあるのだけれど、建物はどれもレプリカだ。
通訳をしてくれた楊(ヨウ)さんから聞いたところでは、2人は音楽が大好きで、皇帝が何か演奏したりすると、楊貴妃がなまめかしい踊りを披露したらしい。そうやって、政治をほったらかしで温泉に入りびったったここは、2人には確かに「別世界」だったのだが、今では、頭上を上り下りするロープウェーから眺められているとは想像もしなかっただろう。

初めて「別世界」だと思ったのは、1980年代にニューヨークの摩天楼を見たときだった。度肝を抜かれつつ、人が住むのに、もしくは商売をするのに、あんな雲に届くほどのビル群を建てる必要が果たしてあるのかと思ったし、力を誇示するアメリカを見せつけられた気がした。フツウに人間が暮らすなら、ジョン・レノンが住んでいた“ダコタ・ハウス”の10階建てくらいでよかろうものを。それに比べて、マンハッタン島の南の地区は、イタリア系、中国系の移住民が住み、かつ商売をしている雑然とした界隈で、低層のボロいビルばかりだったし、道にはゴミが散らかっていた。日本とは違うこの極端な対比も「別世界」だった。

去年、モンゴルへ行った。ゲルに泊まった。外から見るより、中に入ると狭くはないのは、調度品がほぼないからだろう。移動生活をする遊牧民はそれでいいのだ。常にモノに囲まれた生活から一瞬でも逃れ、こっちもキャンプ気分で、人っこひとりいない果てしない草原で、昼と夜を経験した。間違いなく「別世界」だった。
そして、今年はモンゴルの隣の新疆ウイグル自治区へ行ってみた。すると、そこは紀元前からの遺跡のオンパレード。「歴史」という「別世界」だった。

新疆ウイグル自治区は「中華人民共和国」の一部で、西の端っこにある。国家体制はイチオウ共産主義で、経済は国家資本主義で、かつ野心的なので、世界中から奇異な目で見られている。ぼくは気が付かなかったが、妻によると、あちこちにある監視カメラが気になったという。ぼくはといえば、道を歩いていて、気軽に声をかけられたことが何回かあった。中国の人はぼくを中国人と思ったのか、と呑気な父さん。中国語はからっきしなので、そのつど手話みたいに口を指で指し、頭をフリフリしていた。顔はお互いモンゴロイドで、そのうえ服装も昔と違って今はそう違わなくなったので、他者かどうか案外見分けがつけにくい。それに比べると、ウイグル族の人は、鼻筋が通った顔が多いし、漢族との違いはなんとなくだがわかりやすいと思っていたが、昔NHKでやってた「シルクロード」で見たような、イスラム帽に濃いヒゲの人はほとんど見かけなかった。

メディアは、新疆ウイグル自治区では、一部のウイグル族が施設で労働と思想教育を強制的に受けさせられていると報道している。実際はどうなんだろうかと思ったので、ガイドの魏さんにそのことを尋ねたが「今はそんなことはありません」との答えだったが、いつもと違い彼の歯切れは良くなかった。モスクもだんだん少なくなっているという。上の写真は街中に突然現れたモスク、と思ったらショッピングセンターだった。イスラム教のれっきとした宗教施設としてのモスクは、共産主義とは相容れないのだ。魏さんに「共産党の一党独裁政権をどう思いますか」と質問してみた。1989年、西安の大学生だった彼は、天安門広場に馳せ参じようと思ったらしい。でも彼の答えは意外だった。「今は、家族と一緒に普通の暮らしを送ることだけです」と。

そんなわけで、日本に戻っても、中国については、なんだか片付かない気分が続いている。といっても、100%ネガティヴでも、ポシティブでもない。まあ、ネガポジというか、ひどくあいまいな後味だった。ひとつだけ、いつもの買い付け旅とは違って、3人の中国人ガイドさんと一緒の旅だったこと。彼らの日本語は言い回しがていねい過ぎたり、また変に直接的だったりと、「他者」の日本語なのだ。そんな経験は初めてだったが、新鮮だった。たとえは古いが、映画『社長シリーズ』でフランキー堺が演じるハワイの2世のブロークン・ジャパニーズみたいでおかしい。おかげで、帰りの飛行機でのカミさんとの会話も、お互いがちょっと変な日本語になっていたので笑った…。

思い返してみると、中国の観光地化したたくさんの遺跡には、争いの跡が多かった。「個人」と「国家」による歴史のエコーが響いていた。

半端ないくらい、紀元前と現在の区別がないのが困る。

ひょん |
DATEJun 25. 25

敦煌にある<莫高窟>は、あまりにも名が知れていて、観光客も多すぎて、仏教石窟の数は多いけど、実際に公開されている壁画は一部だった。それに比べると、同じ石窟でも<ベゼクリク千仏洞>はよかった。何がよかったといえば、小規模で閑散としていて、音楽があったことだ。

ーーー海外買い付けでせっかちに歩いていて聞こえてくる音が音楽で、それが押し付けBGMじゃなくてフィジカルだったらすぐにわかる。パリのメトロではシャンソン、ジュネーヴのマルシェでアルプス民謡のコーラス、ニューヨークの歩道ではストリート・ミュージシャンが奏でる音楽がふいに聞こえてきたりする。嬉しいハプニングなのだ。

ここで聞こえてきた音を、一瞬、琉球の三線?と思ったが、いくら世界が小さくなったといえ、そんなはずはないだろう。急峻な階段を降り切ると、洞窟の前でウイグル族の帽子を被った老人が、特徴のある長い柄の弦楽器を悠然と弾いていた。即興だろうか、トツトツとした乾いたペンタトニックの響きが、控えめだが、しっかりと谷間全体に反響している。老人の皺だらけの顔に見入っていると、たった一人の聴衆のために、彼は静かに唄い出した。アラブ音楽は琉球と同じく、6つの音階からファとシを省いた、独特の哀愁を持つ音階だ。演奏もシンプルで、自分に向かって歌いかけている。初期のボブ・ディランのように聞こえたから10元を渡したら、シワシワの顔がほころんだ。

<べゼクリク千仏洞>は深い峡谷の崖っぷちにあり、その壁に穿かれたいくつかの穴に仏教壁画が残っているが、それは莫高窟に比べると規模も小さい。残っている壁画はナイーブだったが、僕は好きだった。ガイドの魏さんによると、ここだろうが莫高窟だろうが、仏教壁画の多くが姿を消している。盗掘もあるが、20世紀初頭にロシアやドイツなどの探検隊などが壁画を剥ぎ取って持ち帰り、自国の博物館で展示しているとのこと。その結果、「美術品」として価値を認め得なかった「ヘタウマ」が残っているのか。漫画やグラフィティっぽくて、かえって面白い。大昔のひとの直感的な表現は単独的で、絵の出来不出来よりも、描いた人のことが気になってしまう。

忘れられないのは「万里の長城」の西の起点になったといわれた<玉門関>。紀元前108年ころに、中国側シルクロードの最西端に建造されたはるか「ローマへと通じる」重要な関所だったらしいが、今はモニュメントとしての城壁の痕跡だけが、土漠の中に忽然と残っているだけ。泥に植物の枝を混ぜて造作された3メートルほどの高さしかない塀は、気が遠くなるほどの時間の中、強い風に痛ぶられて、どんなインスタレーションもかなわない歴史を伝えている。これを「美しい」と思う自分は変なのだろうか。

もうひとつ、ついでってわけじゃないけど、<交河古城>と呼ばれる古代都市。それにしても、連日の古跡巡りが続き、実はバテ気味。ましてここは広すぎるし、気温はやはり摂氏41度だもの。足が動きたくないらしく、ガイドさんと随行者(妻)に一番の見どころを譲って、見晴らしの良いところでひとり一服してサボることに決めた。ウイグルで日本からやってきた老人がが熱中症でダウンという事態はごめんだ。

ここは、”シルクや玉石”と、ローマからの”ガラスや金属製品”など、互いの「ないモノねだり」の交換の場だったし、いわば街ごとオークションハウスだったのか。いやいや、実際は強固な城壁都市だったから、おびただしい数の人の生活の痕跡がクンクン匂う。なんとか原型をとどめるのはドーム型の仏教寺院だけ(イマは天井はないけど)。普通の人々の住居跡や、屯田兵たちの食物倉庫があったはずだが、たくさんの窓のような穴ぼこを持つ土くれが広がっているだけ。ついガザ地区を思い起こしそうになった。半端ないくらい、紀元前と現在の区別がないのが困る。

違います「イスラム」という名前ですと訂正された。

ひょん |
DATEJun 15. 25

<トルファン>はシルクロードの交易オアシス。気温は予想通り41度で、なんと湿度は9%。おまけに風が強い。カラカラに暑くて、風強しなんて環境は経験したことがなかったが、今度の旅で楽しみにしていた場所なので、気分はいい。

ホテルを出る時に、二人目の男性ガイド魏(ぎ)さんからサングラスと紫外線対策の黒い蝙蝠傘を忘れないようにとのアドバイス。言われなくとも準備OK。車に乗ると「シーベルト付けてください」と毎回声をかけてくれる。時々東北弁みたいに聞き取れないこともあるが、基本的なことを熱心に説明してくれるし、ムッツリよりこちらも質問がしやすい。

<天山天地>は”中国のスイス”と言われる場所。ラピスラズリのような深いブルーをした湖の向こうに、雪を頂く山が見渡せる。言わずもがなの絶景とはこのことか。この豊かな水は、天山山脈の氷河からのもの。その氷河の水は地下深くまで浸み込んで、カラカラの砂漠へも恩恵を与えている。そのためには地下深く井戸を掘り、地下水道を通して、オアシス地帯の生活水や畑の灌漑水として利用しているとは魏さんの説明。今から2000年ほど前にペルシャあたりから伝わった技術とのこと。急峻な山々とたくさんの河川に恵まれた日本列島の住民にとって、水を得るためとはいえ、信じられない「人力」を感じた。

完備されたハイウェイを走っていると、砂漠に赤い色の岩山が続く風景が、ふとサンタフェあたりの光景と重なって見えた。どちらも広大な大地に住んでいた先住民たちも見た景色なのだ。でもハイウェイを降りると、風景は一変する。見渡す限り緑のぶどう畑が広がり、その中をまっすぐなポプラの並木道に入る。なんだかヨーロッパの田舎みたいでもある。しかし、道の両側はれっきとしたイスラム風の住居がなんでいるから、ウズベキスタンを思い出す。ここは一体どこなんだろう。

そんな風景を見ていたので、魏さんに「ここら辺は干し葡萄だけじゃなく、ワインも作っているんですか」と、尋ねてみた。そしたら「もちろんです。これから立ち寄る葡萄農家で飲めますよ、ご飯もね」と来たもんだからいうことはない。

そこはウイグル人一家が住む家で、夫婦と姉、弟の4人家族。独特のアトラス柄の民族衣装と、はにかんだような笑顔で、僕たちを迎えてくれた。顔立ちは鼻筋が通っていて、トルコで出会った人々に近いかも。余談だけど、中国映画では、ウイグル系の顔立ちをした女優が人気らしい。「混血」が生み出した優勢遺伝なんて昔っぽい言い方だけど、それはそうだろう。

お母さん手製の料理と一緒に赤ワインがテーブルに運ばれるや、取り急ぎ口に運んだ。旨い。濃いのに、さっぱりしている。ワインに詳しいわけでもないが、初めての香りと味に思わず笑ってしまった。ワインの発祥の地は今のジョージアあたりと聞いているが、以前飲んだジョージア・ワインよりも柔らかいから、どんどん進む。これは、ワインというより葡萄酒だな。しばらく禁酒している朋子もご機嫌に飲んで、魏さんとの会話も弾む。

つい僕も会話に割って入りたくなり「魏さんが西安の大学にいたころ、中国では学生運動が盛んだった時期だと思いますが、どう思いましたか」と聞いてみた。「その頃ちょうど天安門事件が起こりました。共産党の汚職や貧富の差に、私もみんなも怒っていて、学生たちが立ち上がったのです。1989年でした。ベルリンの壁がなくなって、世界がこれから良くなるという希望がありました。でも、その後、そうはなりませんでした」。
と、話が深みに入りかけた時、突然、一家の一人息子君が踊り始めたから驚いた。イスラムの神秘主義音楽<カッワーリー>をポップにしたような曲をバックに、にっこりとリズムに合わせて、時折「パン」と一人手拍子を交えながら踊るからたまらない。つい、彼の名前をお父さんに尋ねたら「スラムで歳は9歳です」とのこと。スラム君ですかと確認すると、魏さんが、違います「イスラム」という名前ですと訂正された。「そんなドンズバな」と心の中で思ったら、「こちらでは多い名前です」と耳打ちされた。
”新疆ウイグル自治区のウイグル人は中国政府から弾圧を受けている”とのメデイアの情報を真に受けていた僕は、この「民族」と「宗教」が一体化した「イスラム」という名前をもらった子は、大丈夫なのか、と思った。

間違いなく、中国へやって来た。

ひょん | 旅 社会科
DATEJun 6. 25

出発間際になって、現地の気温を調べたら、なんと41度だったが、いまさら引き下がれないと、観念する。タクラマカン砂漠へ行こうというのだから、観念する。
そこは<新疆ウイグル自治区>。中国の西の果てにあるウイグル人を含んだ他民族がミックスする「西域」で、「国家」としては中国に属している。タクラマカン砂漠という広大な”土漠地帯”に点在するオアシス都市を結ぶ<天山北路>と呼ばれたシルクロードへの旅である。

「なんでまたソンナトコロへ」と言うなかれ。これでも、1980年代、NHKで月一回放映されていたドキュメント番組『シルクロード』に触発され、なかんずく石坂浩二のナレーションに惹かれた昭和の人間なのだからだ。とんでもなく荒涼とした自然に散らばる古代遺跡と、さまざまな民族が争い、混交、交流したであろう大地。ここは足腰が立つうちに、なんとしてもイカズバナルマイ。
何より自分は貿易商人の末裔のハシクレである。だから、ローマから西安までの貿易ルートをラクダに乗り、命を賭して先輩たちが歩き迷ったであろう砂漠を、少しでも辿ってみたかったのだ。

7泊8日でウルムチ、トルファン、敦煌、嘉峪関とその周辺の遺跡や博物館を巡る旅は、まず西安から始まった。その間、滞在は各地一泊で、飛行機や汽車、そして車を使っての長時間移動となるから結構タイトだ。手際良く回るために、今回はいつもの自業自得旅と違って現地の旅行社に通訳を含め、すべてお世話になることにした。
その理由:
①西域は英語が通じないらしく(実際、ホテルのフロントさんも含めて、ほとんどダメだった)、タクシーなりでの遺跡巡りの移動手配がありすぎる。中国内の飛行機と汽車移動もあり、その際、手続きを含め言葉の難儀が予想される。
②何にしても、チェック体制が厳しい(空港、汽車、遺跡、博物館など、どこでもパスポート、手荷物の検査まである)。
とまあ、聞きしに勝る厳しさは、民族問題がくすぶる「新疆ウイグル自治区」だからだったからなのだろうか。いや、中国はどこもそんな感じなのか。

さて西安だ。昔は「長安」と呼ばれたシルクロードの東の終点&西からは始発点だが、ここが漢民族の都になったのはBC11世紀というからギリシャ文明の始まり頃か。それ以来2000年間にわたって、13の王朝がこの地を都としてきたけど、各王朝の寿命は短く、最終的に唐が支配して最長300年続いた。日本との交流はご存じ阿倍仲麻呂や空海。唐の絶頂期に渡ったのだから長安の都の威容にさぞタマゲタに違いない。阿倍さんは超真面目な留学生で、最期を唐で迎えたひと。かたや空海さんは、仏教を日本に伝えたひととして知られるが、実はなかなかの隅に置けないひとで、たくさんの経典ばかりではなく様々な品々を日本に持ち帰って来たらしい。「買付旅」だったのだろうかな。

西安でガイドをしてくれたのは、楊(ヨウ)さんという女性。福岡へは何度か訪日ツアーのガイドで来たことがあるという小柄でおかっぱ、ハキハキした日本語も聞き取りやすかったので大いに助かりました。
彼女が最初に案内したのは<大雁塔>。西遊記でお馴染みの三蔵法師ゆかりの地で、大雁塔は彼がインドから持ち帰った数々の経典の保存と翻訳のために建設されたとのこと。三蔵法師がシルクロードを経て「買い付けて来た」のは7世紀。インドだけではなく、そろそろイスラム文化も西安に入り始めたころかな。そのせいか、塔は日本の寺の五重塔とは違い、力強く、建築的でモダンなので驚いた。境内では一般人も含めて、お経の大合唱が響き渡り、それは日本のおおごそかな念仏とは違って、コーラスのように力強かった。

そのあと、西安の旧市街にある<回民街>へ行った。そこはイスラム教徒である回族のコミュニティが形成されたエリアで、イスラムと中国がミックスしたB級グルメ屋台のメッカ。僕らは脇道のマーケット街へ入り込み、さっそく「モノ」を物色、たくさん並んだ店で、瑪瑙(メノウ)や清の時代の「錠前」を買い求めた。中国では石を「玉(ぎょく)」と呼び、人々はとても珍重する。美しさとパワーストーン的神秘性なのか、なんだか興味深い。原石を、それも瑪瑙(メノウ)買うのは初めてなので、面白かった。

夜は、明代に建てられた<西安鐘楼>に面した中華料理屋で「餃子のフルコース」をいただいたが、「焼き餃子」じゃなかったし、量が多すぎて、しかも味が淡白(その後7日間、朝、昼、晩と食べた地元料理はどれも薄味だった)。窓の外に見える西安鐘楼は、ランドマークらしくライトアップされ、漢の時代のど派手な衣装を着たたくさんの女性が鐘楼をバックにコスプレ大会の最中だった。インスタ用の動画撮りらしい(その後、各地の観光地でこの漢服のレンタル屋さんを見かけたし、それを着てラクダに乗った女性もいたっけ)。
間違いなく、中国へやって来た。

イベント開催のお知らせ

info | news 映画・音楽
DATENov 28. 24

ーー小柳帝の映画ゼミ・冬の特大号ーー

フランス語とカルチャー、両方を学べるとっておきの教室 ROVA を主宰する小柳帝さんのイベントが、福岡で久しぶりに開催されます。いつも映画についてのドキドキワクワクが、盛りだくさんのイベントです。
映画好きで、もっと知りたい!の方、映画をこれからたくさん観てみたい!の方、どちらも満足してもらえるイベントであること間違いなし。
どうぞご参加ください。

日時:12/7(土) 20:00〜21:30 
参加費:一般2000円、学生1500円(当日学生証をご持参ください)
<要予約>
12/5(木)締切
*締切は過ぎましたが、キャンセルが出るなどしましたので、若干名追加募集いたします。
12/6(金)  18:00まで、予約受付け
ご希望の方は、お早めにご連絡ください。

参加希望の方はecole.rova@gmail.com まで、
タイトルを「映画ゼミ参加希望」とし、お名前(フルネームで)、参加人数、代表の方の携帯の番号をお書き添えの上、メールにてご予約ください。
※定員には限りがありますので、お早めにご連絡ください。

会場:organ 福岡市南区大橋1-14-5 TAKE-1ビル 4F
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「小柳帝のバビロンノート」シリーズの元になった映画ゼミを福岡で開催します!
今回は、夏に開催した前回に引き続き、今年公開された映画のいくつかのトピックを、雑誌風にアラカルトで、2時間たっぷり語り下ろしたいと思います。
例えば、こんな感じです。

・新世代日本映画の現在地
現在、小柳がチラシのテキスト等書いた五十嵐耕平監督の新作『スーパー・ハッピー・フォーエバー』が異例のヒットを記録しています。この秋、『ナミビアの砂漠』から『スーパー・ハッピー〜』、そして『HAPPYEND』というお客様の流れが確実に出来上がっていたように思われます。濱口竜介、三宅唱以降の新世代の日本映画が、今どのように生まれているか、お話しできたらと思います。

・アメリカの女性監督による実験/アート映画が静かに熱い
シャンタル・アケルマンのレトロスペクティブの成功から、よもやここまでというくらい、アケルマンの流れを汲むアメリカの女性監督による実験映画が、今年は多く公開されています。小柳がブルータスで記事を書いたニナ・メンケスから、現在東京で公開中のベット・ゴードン。彼女は、写真家ナン・ゴールディンの友人で、やはり今年公開された『美と殺戮のすべて』というナンのドキュメンタリーにも登場します。その辺りの実験/アート映画シーンについてお話しします。

・今年の東京国際映画祭と東京フィルメックスからのリポート  
今年の東京国際映画祭と、終わったばかりの東京フィルメックスで小柳が観た映画の中から選りすぐりの作品についてお話しします。

などなど、これから公開される新作情報含め、2時間たっぷりお話しいたします!福岡の映画好きの方は、ぜひorganさんまでお集まりください!

イベント開催のお知らせ

info | news 映画・音楽
DATEJul 22. 24

ーー小柳帝の映画ゼミ・夏の増刊号ーー

フランス語とカルチャー、両方を学べるとっておきの教室 ROVA を主宰する小柳帝さんのイベントが、福岡で半年ぶりに開催されます。どうぞご参加ください。

日時:7/27(土) 20:00〜22:00
参加費:一般2000円、学生1500円(当日学生証をご持参ください)
<要予約>
7/25(木)締切
*締切は過ぎましたが、キャンセルが出るなどしましたので、若干名追加募集いたします。
7/27(土)  18:00まで、予約受付け
ご希望の方は、お早めにご連絡ください。

参加希望の方はecole.rova@gmail.com まで、
タイトルを「映画ゼミ参加希望」とし、お名前(フルネームで)、参加人数、代表の方の携帯の番号をお書き添えの上、メールにてご予約ください。
※定員には限りがありますので、お早めにご連絡ください。

会場:organ
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「小柳帝のバビロンノート」シリーズの元になった映画ゼミを福岡で開催します!
今回は、今年の新作を観る上で、引いては現代映画を観る上でポイントになるようないろいろなトピックを、雑誌風にアラカルトで、2時間たっぷり語り下ろしたいと思います。
例えば、こんな感じです。

・スローシネマとは?
小柳が今年の初め、ブルータス誌の「睡眠空間学」特集でご紹介した「スローシネマ」。タルコフスキーからドゥヴォス(『Here』『ゴースト・トロピック』)までお話しします。

・フランスのアート・アニメーションの現在
小柳がパンフに寄稿した『リンダはチキンが食べたい』や、サントラ盤の解説を書いた『めくらやなぎと眠る女』など、最近勢いのあるフランスのアート・アニメーション映画についてお話しします。

・2024年は日本の若手によるアニメーション映画の当たり年
今年は、間違いなく日本の若手アニメーション作家による傑作、秀作の当たり年です。『ぼっち・ざ・ろっく!』、『きみの色』などのバンドものを中心に、『ルックバック』、『モノノ怪』などについてお話しします。

・日仏合作映画の未来
このところ、表面的にはわかりにくいものも含め、日仏合作、というか、フランスの会社やスタッフが製作や制作陣に名を連ねる日本映画が増えてきています。合作がわかりやすい黒沢清の『蛇の道』から、わかりにくい奥山大史の『ぼくのお日さま』や、五十嵐耕平の『SUPER HAPPY FOREVER』のような作品までお話しします。

などなど、これから公開される新作情報含め、2時間たっぷりお話しいたします!福岡の映画好きの方は、ぜひorganさんまでお集まりください! (小柳帝)

レスカ・ルネティエの眼鏡フレーム

ひょん | デザイン・建築
DATEJul 21. 24

いよいよ各地で梅雨が明けはじめ、日差しの強い季節が本格的に到来してきますね。
organ店頭には、フランスのジュラ地方に伝わる“手作り”を受け継ぐメガネ工房 Lesca LUNETIER から、サングラスと眼鏡フレームが入荷しています。
UVカットのレンズが入ったサングラス・フレームたちは、これからの紫外線予防に、男女問わずお勧めしたいアイテムです。

店頭ではいずれもお試しいただけます。
現在のコレクションからは、レスカの代表的なフレームデザイン「クラウン・パント」型のものをはじめ、少し大胆で大ぶりなフレーム「トロ」なども入荷。実際にかけてみるとどれも上品な印象でフィットします。
また、1960’s頃に作られたヴィンテージ・マテリアルを改めて加工、組み直し、風合いのあるフレームに仕上げた「アップサイクリング」コレクションからは「オヴニ」を選びました。8mmのフレームが良い風合いです。

鼻パッドを付けた状態で入荷しているので(一部のアイテムを除く)、かけた時のフィット感が体感できると思います。
現在店頭展示しているラインナップは以下のとおりです

(画像 右上から時計回りに)
OVNI 8mm col.7 / Upcycling acetate (サングラス)
La Corb’s Col.CR
PICAS col.5
Smog col.Matt Silver (サングラス)
Mod.345 Col.6
SAGA BLK (サングラス)
Vintge 1964
TORO XL col.5

(画像なし)
La Corb’s col.100
HERI col.038

どうぞ、お試しにいらしてください。
※いずれも数に限りがありますので、お越しの際は、一度お電話にて在庫をお問い合わせいただくことをお勧めいたします。
※商品についてのお問い合わせ先
メール info@organ-online.com
電話 092-512-6967

「馬には乗ってみろ、馬には蹴られてみろ」その四

ひょん | デザイン・建築 旅
DATEJun 21. 24

ウランバートルにはモンゴルの人口320万人の約半数が集まっていている。高層ビルやタワーマンションがニョキニョキだ。だけど、建築途中でストップしたまま雨ざらしで、どう見てもほったらかしのビルが目につく。都会ぶりっこのくせに、ビルの谷間には旧ソビエト時代のいかにもロシアっぽいワーニャ叔父さんが住んでいそうな古めかしい館が廃墟にならずにポツポツ残っていて、取り残された建物とニョキニョキが共存している。旧社会主義国が資本主義の洗礼を受けて、今となっては力ずくの変容を遂げている格好なのか。日本からの投資も多く、2021年に開港したチンギスハーン国際空港は日本のマネジメント会社が51%出資、運営しているらしい。でも、考えてみると、モンゴルと日本の関係は今に始まった事ではない。

第二次大戦後、旧日本軍の捕虜たちが建設したというピンク色のモンゴル国立オペラ・バレエ劇場が街の中心部に今も健在だ。この国は、日本が1932年に植民地化した旧満州に隣接した場所で、日本語を学び、日本へ親近感を抱いた人もいたし、反感を持った人々もいた。私ごとだが、父は旧満州の大連で兵役を務めていた。それは僕が生まれる17年前で、案外それほど遠い昔の出来事ではなく、つまり僕にもモンゴルにかすかだが因縁がないわけでもない。ついでだが、父は下級将校だったので馬を支給されていて、馬が好きだったのか、乗り過ぎて痔になったと言っていたが、実戦には参加せずに復員している。だからなのか、彼の地での人々のことを悪く言ったことがない。それどころか、後年になっても何度か中国へ行き、親しかった友人に会っている。つまり、父の満州なりモンゴルへの印象は悪くなかったのだろう。

日本へ帰る前日、テレルジ国立公園に行くことにしたのは、そこに”アーリアバル”と呼ばれるチベット仏教の小さな僧院があると知ったからだった。たくさんのゲル・キャンプがあるリゾート地として知られる場所の向こうの悪路の先には、岩山の急な階段が待ち受けていた。途中で3回ほど休んで横になって空を見上げると、冷たい風が顔をなぶり、雲が近くで流れていた。たどり着いた寺からの見晴らしが効きすぎて、遠近感が狂ってしまう。おまけに寺の内部は思いっきりサイケデリックだ。つまり修行をするよりも、解放感に浸ることが似合う場所だった。

モンゴルへ来る前にかじったところによると、チベット仏教の悟りは「欲望を保持したまま悟りをひらくことができる」ということだった。欲望を捨てなくても済むなら、僕にも可能かも。でも”解脱”なんて土台無理だ。モノにしろ、セイシンにしろ、それから「解脱」できる人などこの世にいるのだろうか。死ねば肉体から解放され、それが解脱かもしれないが、急いで浄土にゆきたいという気はまだまだおこらない。

モンゴル帝国は世界で初めて紙幣を発行した。それは他者同士の欲望への信頼の証だったかもしれないから「商業」は無闇に発展したが、格差は広がった。でも今では、だれしも、空虚一歩手前の気持ちに襲われている。
モンゴルに来て草原で味わった「遠近感がなくなる」ような感覚とは、一体なんだったのだろう。遠くまでを俯瞰できることで、地球の大きさとかを感じたのだろうか。逆に、地球とは実は大きくはない、小さな惑星に見えたのだろうか。それどころか、時間の遠近法でいえば、地球は若輩の星なのかもしれない。たかだかの歴史に「進化」なんてあるのかな。この星はこの先、どんな「変化」をするのだろうか。

「馬には乗ってみろ、馬には蹴られてみろ」その三

ひょん | ひと 旅
DATEJun 19. 24

モンゴルで出会ったNomad Horse Campのオーナー、ムギーさんの話を続けたい。

日本に留学したムギーさんは、その後モンゴルへ戻って商社に務めたのだが、ある日久しぶりに馬に乗ったところ、忘れかけていたモンゴルの馬の魅力に気がついたという。そこで思い立ったのが正規の乗馬サーヴィスを提供するゲル・キャンプという施設だった。今では日本から馬好きの常連客も訪れるらしいのだが、それとは知らずやってきたぼくに対して「この前も馬に乗るよりもただボンヤリするためにやって来た日本の男性がいました」と言葉をかけてくれる人である。
だからでもないが、日本語が達者なムギーさんに、いろんなことを質問してみたくなったのだろう。

例えば、「今朝、あそこに見える丘の上に登ってみたら、頂上の石積みに動物の頭蓋骨が二つ飾ってあったけど、あれは狼にやられた羊と馬ですか」と訊ねたら、「そうですが、狼は人間を襲うことはありません。彼らは弱ってしまった病気の家畜などを食べます。それは草原を掃除してくれていることになります」との答えが返ってきた。
そうか、ひょっとすると、チベット的鳥葬なのかなんて一瞬思ったけど、草原の狼のなすべき仕事だったんだ。

もう一つは、モンゴルへ来る前に読んだ司馬遼太郎の本にあった”あらかじめ干し草を貯蔵しておいて家畜の餌とするのか、それをせずに、冬でも餌となる草がある場所へ移動するか”という、つまり遊牧民にもふたつの選択肢があるという、ちょっと細かすぎる質問だった。
この質問は、司馬さんの本にあった、遊牧民であるモンゴル人と、定住農耕民である漢民族の紀元前からの関係性にも繋がる、面倒な質問でもある。

例えば、漢民族は昔から匈奴などの遊牧民を神出鬼没で害を及ぼす、粗野で文化を持たない”蛮族”と見ていたし、一方の遊牧民は漢民族を土をやたらに掘り返しては農地にして、そこから得た作物を貯蔵し、その土地に縛られて生きる”カッコ悪い”民族と見ていたようだ(一度耕作地にされた土は、再び牧草地には戻らないとも聞いた)。その後、色々な遊牧騎馬民族が漢民族の土地を侵略し、それなりに中国に同化しいくつかの王朝を打ち立てた。それがモンゴル族による「元王朝」であり、最後が「清朝」だったわけだ。その際には、定住農耕と遊牧を合わせた統治もおこなわざるを得なくなっただろう。

ムギーさんは「干し草貯蔵」の問いに対して、ちょっと考えてから答えた。
「遊牧民にとって家畜は草原を動きまわるお金です。私たちは家畜を自然という銀行に預け、利子をもらっています。」
この竹を割ったようにユーモラスな発言に、「遊牧民=自由人」みたいなぼくの勝手な思い込みは揺らいだ。
そういえば、チンギスハーンは世界で初めて紙幣を印刷して流通させたわけで、その血を引いたムギーさんは大学では経済学を学んだといいます。
彼は、モダニストなのです。

「馬には乗ってみろ、馬には蹴られてみろ」その二

ひょん | ひと 旅
DATEJun 9. 24

ノマドキャンプのオーナーのムギーさんはこんなことを言った。
「昔からモンゴル人は歩きません。馬に乗っていました。それが今は車に変わっただけです」と。
これって冗談なのか?
そういえば、ウランバートルへ戻る途中に遭遇した車の渋滞はひどかった。市内に入る少し手前から車がほとんど動かなくなったのだ。これならみんな歩いたほうが早いはずだが、歩くのが嫌いなら仕方がない(ちなみに多かったのはトヨタのプリウスの中古です。白タクに何度か乗ったけど、カーナビは日本語なので、みんな自前のケータイを使っていた)。

モンゴルの面積は確か日本の4倍だったか。その広い領土を超えて13世紀に彼らは東ヨーロッパまで迫ったことがある。歩いていては出来ない相談だ。
遊牧民は大昔から、馬に乗り、羊や牛を連れ、季節ごとに牧草を求めて草原を移動していたわけで、定住という感覚は少ない。家は簡単に組み立てられるゲル。持ち物を最小限にとどめるため、モノへの執着も少ない。「どこまでも自由に行ってみる」ことに関心があったのか。

以前、ポーランド南部のクラクフという古都に行ったことがある。郊外にあるアウシュヴィッツ収容所をこの目で確かめるためにこの街に泊まった際、街の中央広場の地下には発掘された13世紀の遺構が公開されていてびっくりした。そこはモンゴル軍がクラクフを攻め落とした街の遺跡で、モンゴル軍の残酷さが嫌でも目についた。前に、柄谷行人の『帝国の構造』を読んでいたので、そんな侵略行為だけであれだけ広範囲な地域を長きにわたって「帝国」としてコントロールできたのか、いぶかしくも思った。

例えば16世紀の大航海時代になると、ポルトガルやスペインは南米を侵略し,その後19世紀の「国民国家」の時代になると、事態は急変する。言葉と宗教、つまり自国のアイデンティティを無理強いして、イギリスはインドを、後に日本は台湾や朝鮮を同じようにして支配しようとした。でも、それは今も起こっている戦争とほぼ同じ「帝国主義」のやり口だ。”主義”というワードは一見立派に聞こえるが個人の自由な選択視を制限しかねない「国民国家」からの発令のようなもので、「帝国」はもっと違うイデオロギーだったのではないか。ところが、今新たな「帝国主義」が中国、ロシア、またインドなどが、凋落気味のアメリカに代わり、新たな覇権を狙っている。まったく、世界はグローバルとは名ばかりで、人々が普通に生きる権利を奪おうとしているようだと、話はついソッチ系になりがちだが、もう少し続けたい。

モンゴルという「連合体」には、「帝国主義」というアイデンティティの押し付けはなかったと思う。かつてない広大な地域の「部族」や「国家」を攻略したが、言葉や宗教、各民族の文化にはほとんど干渉しなかった。チンギス・ハーンは「帝国」の伸長には武力を使ったが、戦わずして相手を凋落させることにこそ長けていたらしいからエライ。まあ、それだけモンゴル軍の騎馬戦術と武威が恐れられたのだろうが。なによりも、広大な荒野に通商の道を整備し、アジアと中東からヨーロッパまでの交易、また学術や技術の東西交流を促進させたので、どちらかというと、人々は受け入れた。それは陸だけではなく、ヨーロッパへの海の道を開き、それをイスラム商人に任せたという。それは「帝国主義」とは違った融和的アイデアであって、カントの”世界共和国”のような、もしくは”機能できる国連”のようなイデオロギーに近いものだっただろう。

アリテイに言ってしまえば、チンギス・ハーンは、”実現できそうにないこと”に挑戦した稀代のドン・キホーテなのか。ぼくは随分前にラジオで山本耀司にインタヴューしたときの言葉を思い出した。パリコレで世界中の話題をさらった80年代、彼の服は東洋なりアジアなりを表現したといわれたけど、彼自身はそんなつもりはなかったと述べ、こう言った。
「アイデンティティなんかいらない」。
カッコいいのだ。