Archive for August, 2009
「音のある休日」#6
マーシャ・クレラ / スピーク・ロウ
ベルリン出身の女性マルチ・アーティスト待望のソロアルバム3作目。今回は、同じドイツ出身の作曲家クルト・ワイルなどの作品をカバーしたもの。
ワイルといえば1929年「三文オペラ」で有名になり、その後ブロードウェイに進出した音楽家。ドラマティックで感傷的なメロディが、今の時代、どんな風に料理されるか興味津々だった。
聞いてみると、シンプルなバンド・サウンドが意外にもマッチしている。限りなく少ない音で空間をデザインするスタイルは、やはりドイツならではのもの。マーシャの愁いを含んだ(といっても湿度ゼロの)ボーカルが、大衆音楽の古典に新らしい光を当てているかのようだ。
(西日本新聞8月23日朝刊)
キャンプ
『M*A*S*H』DVD特別編を観る。何度観ても、ドナルド・サザーランドの迷彩帽はダンディだし、例のエリオット・グールドがマティーニにオリーブを放り込むシーンには思わず膝を打ってしまう。サザーランドはカナダ出身、イギリスで舞台俳優としてデビュー、グールドはニューヨーク出身のユダヤ人でやはり舞台俳優。二人ともこの映画がきっかけで人気俳優となった。原作は朝鮮戦争を舞台にしたカートゥーンで、それに大胆&強烈なおふざけ感を加味したもの。1970年に公開され大ヒット、カンヌ映画祭でグランプリも取っている。当時はヴェトナム戦争まっただ中。一応朝鮮戦争を描いているのだが、見るうちにどうしてもヴェトナム戦争を連想してしまうところが監督ロバート・アルトマンの狙いだったようだ。それにしても、前述の2人が、軍隊という「真面目であるべき場」で演じる不真面目さがサイコーだ。それは、スーザン・ソンタグがいっている「キャンプな感覚」に近い。ソンタグは著書『反解釈』の中で「われわれは、不真面目なものについて真面目になることもできれば、真面目なものについて不真面目になることもできるのである」、といっている。ソンタグは又、対照的にポップ・アートについてこういっている、「キャンプと関係があるとしても、やはり平板で乾いており、真面目であり、究極においてニヒリスティックである」。これは、もちろんアンディ・ウォーホルを思い浮かべてもイイし”King Of Pop”と呼ばれることになった人を思い浮かべてもイイ。対して、キャンプとはやさしいシニシズムであり、快楽を欲しているから消化にいいのだ、ということになる。
Sugar or Honey?
ホーチミンでの4日間は、当たり前のように連日フォーだった。到着した夜は、矢も楯もたまらずホテル近くの店に駆け込み、禁断症状をなだめるように牛のフォーをズルズル。次の日はフエ・スタイルのフォーだったが、上品すぎて庶民派の味ではない。なので、3日目はもっと辛いフエ風にトライして納得。昼は古いチャイナタウン、チョロン地区で小母さんが中華鍋でガンガンやっつけたチャーハン。で、最後の夜は” Ba Ca”と呼ばれる大衆食堂へ。入り口に並んだいろんな大皿をいくつか指さしでオーダー、なんだか大名にある「青木食堂」みたいだ。どれも家庭料理っぽくて胃袋が大喜び。「インゲン豆の煮浸し」と「焼なす」に歓喜し、「軟骨付きゆで豚」の甘くジューシーな味にビールが進む。甘辛い煮魚、ピリ辛のチキン、ホウレンソウのスープなどなど、苦手だったインディカ米の香りも料理にピッタリで、気がつくとほぼ完食。とその時、そばを通りかかった店の小母さんが、小さなガラス容器に入ったものを2個そーっとテーブルに置いていった。食べてみると自家製ヨーグルト。けっこうサワーなのだが、蜂蜜の甘さがイイ。勘定を払うとき、「甘さは蜂蜜ですよね?」と聞くと、小母さんは「砂糖」、と答えた。どう考えても、ハニーの甘さだと思うのだけれど・・・。
Uncle Ho
空港からホテルまでの車中、短い時間だったけど、現地のグンさんにヴェトナムについて少し質問をしてみた。彼が生まれたのはヴェトナム戦争が終わった2年後。当時、もうサイゴンは独立運動の象徴である「ホーおじさん」の名前をとってホーチミンに変わっていた。でも、今でも郊外から町へ向かうときには、つい「サイゴンへ行く」と言ってしまうらしい。突然、町の名前が英雄(といわれる人)の名前に変わるってのは、一体どんな気分なのだろう。現在、中国とは仲が悪いらしく、また、枯れ葉剤などの問題もあってアメリカ人を嫌っている人が多いとも言っていた。ちょっと意外だったのは、100年近く統治したフランスについては、「いろいろなことを学んだ」から、と好意的。たしかに、デュラスの映画やペリアンの自伝など、フランス人の目を経由してヴェトナムを見る時ですら、なんだか少しだけ救われる気がする。もちろん、ヴェトナム戦争以前は、独立を目指し、フランスとも激しい戦いを繰り広げたのだから、そんなにシンプルな構図ではないのだろうが。でも、バゲットが美味しかったり、町のそこかしこの壁に残るフランスっぽいフォントや色彩を目にすると、なんだか不思議な気分になってしまう。そういえば、フランス人とヴェトナム人は、どちらもプライドが高そうでもある。ところで、短期間だけど、フランスと共同統治した日本は、ヴェトナムに何を残したのだろう。グンさんに聞き逃した質問だ。
ホーチミン
初めてヴェトナムへ行った。社会主義国だが、中国と同じように開放政策を実施しているので、アメリカや日本の資本も入っている。目抜き通りにあるルイ・ヴィトンがやけに目立つ。ベトナム戦争まではサイゴンと呼ばれていたホーチミン市は人口500万という大都市。公共交通機関がバスだけとあって、すさまじい数のバイクが庶民の足となっている。自家用車はピカピカの高級車で、他はとにかくバイクだらけ。そのうえに大きな交差点やロータリーには信号機が少なく、外国人にとっては決死の横断となる。ところが、彼らはあわてる風もなく、車やバイクの間を縫って器用に横切ってゆく。僕らは、戦争中、アメリカ軍の情報センターだったREX HOTELの前にある国営デパート3Fのカフェから、そんな光景をアイス・コーヒーを飲みながら飽きることなく眺めていた。コツはどうも「あわてず、騒がず、悠然と」、のようだ。国営デパート内にあるスーパーのクローク係のおばさんはまったく愛想なし。モチロン、僕らは、そんなことはお構いなしにフォーを食べ、汗だくになりながら、路上に座ってコーヒーを飲む人々をかきわけて一日中町を歩き回っていた。
アイテム更新
オーストリア・モダン・クラフトの代表的作家、カール・オーボックのプロダクト、ヴィンテージのカトラリーを紹介しました。とてもユニークなアイテムです。他にはカイ・フランクのテーブルウェアやリサ・ラーソンのヴィンテージなど、入荷アイテムを紹介しました。更新ページ >> 、ご覧ください。
「パリ・キュリイ病院」
野見山暁治の「パリ・キュリイ病院」を読み終える。後に「四百字のデッサン」で非凡な文才を発揮することになる画家の処女作であり、突然異国で病に倒れた妻に起こった現実を表した容赦なしの報告書である。医者や友人達の世間的なアドバイスに耳を貸さず、あくまで自分のやり方で妻の最期を看取る姿がラディカル。まるで、回りの理解を意図的に拒むかのようだ。妻が理不尽な病魔に冒され、そして死んで行く様子を完璧に示そうとする文章は明晰過ぎて、ちょっと恐いくらいだ。読み終えるのに時間がかかったわけである。もちろん、「泣き」の場面は少ないが、亡くなる前、かろうじて意識があった妻の言葉にドキリとした。「オニイ(彼女は野見山のことを”兄”になぞらえ、そう呼んでいた)が見えるよ。だけど、ぼーっと、しとうとよー」。唐突に現れた博多弁だ。1950年代のパリに、つたないフランス語と博多弁をしゃべる夫婦が確かに存在したことの証言だ。感情の中立性を探求するかのような文体に現れたハプニング。若き絵描きはシリアスに、やさしい。25年振りに復刊された表紙を飾るのは(おそらく短い時間二人が住んだアパルトマンを描いた)妻の無邪気なドローイングだ。
白紙投票
衆議院選挙の公示日は18日。選挙カーの騒音が、また始まるかと思うと、すっかりブルーになってしまう。我が家は駅前なので、広場でのアピールも強烈。昔と違い、格段に性能の良くなったPAからひたすら連呼される候補者の名前が、すさまじい切れ味でビルのコンクリートを突き抜けて店内を駆けめぐる。この音圧はヘヴィメタ以上だ。今どき、こんな迷惑な選挙システムを続けている先進国も珍しい。こんなナイーブなことを平気でやってる候補者には、とうてい投票する気にはなれない。1950年に制定された公職選挙法という恐ろしく古い形式にメスを入れる公約をする人がいたら、すぐ応援するのだが・・・。オバマ氏はインターネットを使って支持者や選挙資金を増やした。日本もWEBを使って公約を明らかにするシステムが検討され始めたらしいが、さて実現するのやら。当然、今回は間に合わない。棄権をするのは癪だが、誰に投票するかの判断材料が少ない。ここは、白紙投票するしかないだろう。もちろん、民主主義の権利を放棄するのはもったいない。ボイコットという態度くらいは表しておきたいものだ。それにしても、わざわざ投票所に出かけたものの、「投票したい候補者がいない」というのは実に情けない。「政権交代」は確かに魅力的なタームだけれど、消費税を上げないというのは、もはやどう見ても現実的ではなく、ポピュリズムにおもねったマニフェストにしか思えないところに民主党の弱みが見えてしまう。
「音のある休日」#5
マルコ・ベネベント / ミー・ノット・ミー
ある時はキース・ジャレットのように静謐なソロ、そしてある時はロック・フェスティバルのような轟音。マルコの弾くピアノは振幅が大きい。一見、即興演奏のようだが、実は緻密な構成に基づく演奏は、ドラムとのアンサンブルから生みだされるという。なるほど、一体となったリズムがユニーかつ新鮮なフレーズを奏でている。
本来ピアノが持っている打楽器的な機能の再発見。そして、それをジャズやゴスペル、ロックへと適応させることで最新の音楽へと昇華させる可能性。センチメンタルなピアノのメロディに寄り添うように、時折もれ聞こえる鼻歌のようなハミング。ふと、グレン・グールドを思い浮かべてしまった。
(西日本新聞8月9日朝刊)


