murmur

ローカル・スタンダード。

August 26th, 2011

Img 3186  小学校の林間学校で飲んだ飴湯の味が忘れられない。夏とはいえ山間の川の水はとても冷たく、10分もすると唇が紫色に変わるほどだ。そんな時に用意されたピリッと甘く暖かい飴湯の一杯は、それまで苦手だったはずの生姜のイメージを変えてくれた。生姜が飲み物として日本以外でも愛用されていることを知ったのは、バリ島に行ったとき。ワルンで一休みした際にオーダーしたジンジャー・ティーには、かなり大ぶりの叩き生姜がドカンと沈んでいたからビックリした。日本のものより味も香りも強く、暑い国の人もやっぱり体の中を温めるんだナー、などと感心してしまった。その後、アジアの映画や音楽に興味を持つにつれて、生姜はアジア全体で愛用されるハーブなんだと知った。『ジンジャーとフレッド』というフェリーニの映画を観て、いつか自分の店を持ったら”Ginger”という名前がいいとも思った。それは今のところ実現していないが、このところのジンジャー人気は世界的である。東京で友人がやっているFructusという自然派系ジュース屋が作ったジンジャー・コーディアルも好評らしい。炭酸で割ってジンジャーエールにしたり、ビールやスピリッツに入れたりと、左党としてはいろいろ楽しめそうである。近々organでも販売する予定なのだが、目下の所は鳥取は宝月堂の「生姜せんべい」だ。鳥取のおばちゃん達が畑仕事の合間に飲むという香ばしい健康茶「浜茶」と一緒に食すれば気分はスッカリ日本海なのである。ラベルに「気高町瑞穂生姜使用」と産地表記があるところもいい。「ローカル・スタンダード」なのである。9/4まで「浜茶」共々絶賛限定販売中、試食あり。

おとといポップス <わくらば編>

August 14th, 2011

  
仲宗根美樹2 実は、初めて買ったドーナツ盤は洋楽ではない。1959年、当時民謡歌手の枠を越えてブレイク中だった三橋三智也の『古城』というレッキとした邦楽である。佐賀の駅前にあったレコード屋で母をくどいて買ってもらったから覚えている。ラジオで聴いた哀愁のハイトーン・ボイスにノックアウトされてしまったのだが、文語調の歌詞はチンプンカンプン。「栄華の夢を 胸に追い」くらいは「映画の夢を 胸匂い」と勝手に解釈できたが、「わくらば」となるとまるで判じ物みたいで完全にお手上げだった。三橋三智也ではもう一つ『怪傑ハリマオの唄』も忘れられない。白黒テレビがようやく一般家庭に普及し始めたころのテレビ主題歌なのだが、番組の内容はかなり荒唐無稽。義賊とおぼしき主人公が東南アジアを舞台に、ピストル片手に馬にまたがり、悪漢共を懲らしめるという内容で、今思えば太平洋戦争における日本の立場を正当化しかねない危うさを含んでいるのだが、そんなことは当時思ってもいない。ただターバンを巻き、サングラスをかけたヒーローが、月光仮面よりもクールでエキゾチックに見えたのだ。ソフトボールなどに時間を忘れ、フト気がつくとあたりはすっかり夕まぐれ。暗くなった田舎道をトボトボ友達とふたり家路を急ぐとき、勇気を出すために「真紅な太陽燃えているー」と大声で歌いながら歩いたものだった。「わくらば」は漢字では「病葉」と書くが、「朽ち葉」ほどの意味だろう。やはり当時ヒットしていた沖縄出身の仲宗根美樹の『川は流れる』という曲は、この言葉から始まる。ラ行の発音が巻き舌の、ハスキーな声で世の無常を唄われるとゾクゾクした。いま聴いたらどうだろうかとYouTubeにアクセスしてみたら、まごうかたなき名曲だった。しかも、アレンジはクロンチョン風ではないか。このインドネシアのトラッドなリズムは、戦争中『ブンガワン・ソロ』という曲としても有名だった元祖エキゾチック歌謡なのだ。洋楽、邦楽の区別にさほど意味などはない。それよりも、「良い唄は悲しい唄である」という時のマレーの感受性が好きだ。

 おとといポップス <リビドー編>

August 9th, 2011

 
20051031224756 初めてドーナツ盤を買ったのは平尾昌明の「ランニング・ベア(悲しきインディアン)」だったか。ラジオから流れる悲恋のロッカバラードに、奥手だった小学生が我知らず動揺したことを覚えている。ちょっと”しゃくる”様な歌声にすっかり夢中になり、途中のサビの部分で突然英語になるところにもシビレた。オリジナルをジョニー・プレストンという人が唄っていることなど知るよしもなかったし、もちろんカヴァーなんて言葉も存在しなかった。1960年代初頭の日本はアメリカのヒット曲の焼き直し全盛の頃だった。そんなレコードをなんとなく「洋楽」と呼んでいたのかもしれない。「ポップス」という語感を知ったのは、その後中学生になった頃のやはりラジオ番組を通してだったと思う。それは高崎一郎、糸居五郎など、英語混じりでオリジナルを紹介したDJ達のおかげでもあるが、ひょっとすると前田武彦が女の子とのおしゃべりを交えて音楽を紹介する『東芝ヒットパレード』だったような気がする。
 前田武彦は放送作家であり、ポップスに強いわけでもない。だから、音楽情報みたいなことは通り一遍だったけど、そのかわりに当意即妙な話術があった。それは、時に時事風刺だったりもするのだが、決して強弁ではなく、押しつけがましさはなかった。それは、同じ放送作家でジャズのラジオ番組をやっていた大橋巨泉とは対照的でもある。後にふたりは『ゲバゲバ90分』でタッグを組むのだけれど、巨泉の押しの強さの前でマエタケは割を食っていたように思う。彼は、どちらかというと言葉少ない饒舌家で、テレビよりラジオが似合う人だったのだろう。

おとといポップス#4 ”唄うニューヨーカー”

July 23rd, 2011

 
Img 3092 『恐怖のこまわり君』がヒットしたこともあり、2枚目のアルバムを作ることになった。もはや今までのように「売れなくてもいい、自分たちの好きな音楽をやりたい」などとナイーヴな宣言をして、マネージャーを泣かせるわけにはゆかない。ギミックと取られても仕方がないようなシングルを出した後なので、バンド名を変える案が出た。”Cinema”とか”Hotel”なんてね。そこにはYさんというディレクターのアイデアも反映されていた。彼は、アメリカのA&Mスタジオでのアシスタント経験を経て帰国したばかり。趣味性を発揮しながらビジネス的にも成立させる本場の音楽産業を学び、それを日本で実践しようとしていた。余談だけれど、1975年発売になった「Made in USA catalog」という雑誌の巻末に、LAで現地コーディネーターとして彼の姿が写っている。そういえば、彼の兄は著名な和製ポップス作曲家であり、加藤和彦氏や今野雄二氏とも親交が深かった。そんなわけだから、新しいムーヴメントへのアンテナも鋭かった。それは、前述のロキシー・ミュージックなどに限らず、スティーヴィー・ワンダー、マーヴィン・ゲイ、ダニー・ハザウェイなどの”ニュー・ソウル”や、マイケル・フランクス、ジョージ・ベンソン、クルセダースなどの”シティ・ポップス”や”フュージョン・ミュージック”にも及んでいた。ポップスが単なる流行歌から、モダンで都会性をともなったスタイルへと移行していた時代だった。その中で、僕らは、よく言えば個性的、下手をすれば独善的とも写る「作家性」の強いポップスへと傾斜していったのだと思う。たとえば、ルパート・ホームズ。1974年にEPICレコードから出た”Widescreen”というアルバムは、まさに「唄うニューヨーカー」といった風情で、夢中で歌詞を追った。たとえば、こんな風だ。

僕は映画と一緒に生活している
でも、マチネーは5時で終わる
まだ太陽がまぶしい外へ瀕死の状態で出なければならない
ああ、映画館の中へ戻りたい
そこはいつも夜なんだから
ワイドスクリーン、目が回るよ
たくさんの噓でボクを満たして欲しい
 <”Widescreen”>
 
これではまるで、映画『ボギー!俺も男だ』とダブってしまう。同じ時期、ボクはウディ・アレンを知ってしまっていた。自分の様々なコンプレックスをカリカチュアライズし、ギャグに変えてしまう奇妙な才人は、まるでハンフリー・ボガートをレディメイドなものとしてリ・メイクしてしまうマジシャンみたいだった。それはさておき、ルパート・ホームズである。ニューヨークのティンパンアレイに連なる流麗なオーケストレーションと、ジャズやポップスのクリシェを用いて、アメリカの様々な表層文化をコラージュしたような彼の音楽もボクにとってはマジックみたいだった。それは、その後オーケストラ・ルナという、オフ・オフ・ブロードウェイの実験的ミュージカル仕立てめいたアルバムを彼がプロデュースしたことで一層明らかなものになった。正直に言って、今ひとつ乗り気になれなかったこの2枚目のアルバム製作で、彼へのオマージュを混入させることだけがボクの密かな願いになっていった。

おとといポップス#3  ”死刑!”

July 21st, 2011

 
Img 3082 1974年は例えばこんな年だった。<ウォーターゲート事件でニクソン米大統領辞任>< 金脈問題で田中角栄首相辞任><オイルショックによりNHKが短縮放送><『かもめのジョナサン』、『ノストラダムスの大予言』出版>などなど。つまり「アメリカ型発展幻想」は終わりを告げようとしていた。世界は今に繋がる「後戻りできない総資本主義体制」の時代に突入し、「終わりの始まり」ともいえる「出口なし」的実存を生きることになる。
 そんなタイミングで聴いたのが10ccだった。「ロックマニエリズム」の仲間なのだけれど、とてもキャッチーでとっつきやすかった。まるでビートルズのリミックスをやっちゃう職人みたいなユニットで、英国人特有の辛辣な歌詞で文化や政治をおちょくった。「フェリーニの新しい映画、もう観た?」なんて歌詞を見つけて、すぐに『アマルコルド』を観ようとしたけど、僕が観たのはメル・ブルックスの『ヤング・フランケンシュタイン』だった。社会にコミットするよりもモラトリアムを決めこむことにしたわけだ。もちろんバンド暮らしはままならず、さまざまな欲望はすべて宙ぶらりんなまま。でも、そんな執行猶予の時間は山上たつひこ氏によって打ち破られようとしていた。
 鳴かず飛ばずの我がバンドに事務所が突きつけた最後通告は「この企画を受けなければ、お前らお払い箱だよ」だった。練馬の駅近くの喫茶店で打ち合わせのために初めて会った山上氏は、『がきデカ』を描いた人とは思えないほどシャイで社会派の人だった。だから、と言うわけでもないが、やってみることにした。東京暮らしをこのまま続けても、失うものは多くはないのだから
 歌詞を書くために、初めて彼の漫画を読み、キーワードをピックアップした。やはりポイントは「死刑!」だろう。問題はサウンドである。明快なノリがあり、かつ斬新なアレンジということで10ccをヒントにする案が浮上した。雑誌とのコラボでもあり、時間はあまりなかった。僕らは、「死刑!」のフレーズがそのまま生かせそうな「Silly Love」という曲を”参考”にすることにした…。
 発売されたシングル盤『恐怖のこまわり君』は、あっという間に、確かオリコンの4位か5位まで駆け登ってしまった。もちろん、爆発的に売れた漫画のおかげなのだが、悪い気はしなかった。ある日、加藤和彦氏の深夜ラジオ、オールナイト・ニッポンで「10ccの曲をこんな風にやっちゃった器用なバンドがいます」と、なんと2曲続けて紹介されたことを聞き、それさえも嬉しく思った。ところが後日、10ccの楽曲を管理している音楽出版社からクレームが入り、それ以降プレスされたシングル盤のクレジットの作曲者名は10ccとの併記になってしまったのである。しかし、そのことさえも喜んでしまったほど、僕らはヘンテコなバンドだった。
P.S. その後の調査によると、『恐怖のこまわり君』は「要注意歌謡曲」には指定されていなくても、それに類するものとして「禁じられた歌」(ルック社)に掲載されているらしい。

おとといポップス#2 ”Re-make/Re-model”

June 3rd, 2011

 
Rimg0048-1 あいまいな記憶をさかのぼってみると、ぼくらのバンドはアメリカの”Down to earth”な音楽から一転して、今野雄二さんが言うところの「ロック・マニエリズム」(1)へと急旋回したようだ。文化服装学院の一部の学生さんを除けば、ファンなんてほとんどいないも同然だったので特に支障はなかった。なにより、まだ「日本化」されていない音楽を発見するのは刺激的だった。造反、もとい、新しい風を送り込んでくれた青木君はその後次々にヘンテコなアルバムを紹介し、ぼくらも次第に興味を持ち始めた。それは例えばルイス・フューレー(2)やスパークス(3)だったり、コックニーレベル、セイラーだったりとクセの強い、よく言えばアーテイスト肌の人達で、もちろんマイナーな存在だったが、比較的名の知れたRoxy Musicはその中でもハードルが高めだった。当時全盛だったグラムロック張りの派手な衣装とメイクをほどこした1stアルバムは、”Re-make/Re-model”という曲から始まっている。当時マルセル・デュシャンの”Ready-made”からアダプトされたことを知るよしもなく、なんだか神経を逆なでされるような音だと思った。それは、グループ内のもう一人のブライアンであるイーノの存在が大きかったのかもしれない。その証拠に、1972年に発売されたブライアン・フェリーのソロアルバムのほうは、ビートルズやディランなどのカヴァー曲で占められた、ある意味でポップなものだった。とはいっても、それはノスタルジーという定型を使って、むしろそれを外して戯れているかのような感じがした。もちろんぼくらはそんな技量を持ち合わせてはいなかったので、ごく律儀に、愚鈍に影響を受けただけだったのだけれど…。それにしても、同じ接頭詞”Re”とは言え”Re-set”という、あたかもそれまでの歴史や振る舞いが帳消しになって、なにか新しい価値が立ち上がってくるような幻想を持つことはなかった(と思うのだが)。
(1) 元来”マニエリズム”とは絵画用語で「一度完成されてしまった絵画をいかにして崩して新しい動きをみつけるかを模索していた時代」を指す。それを、大のロキシー・ファンだった今野さんがポップスに当てはめたもの。後にパンクやニューウェーブが出現するまでの過渡期的時代を言い当てた言葉として記憶にとどめたい。
(2)フランス語圏カナダ人ミュージシャン。シアトリカルでデカダンな世界には緒川たまきさんもゾッコンだと「モンド・ミュージック」でのインタビューで答えていたっけ。1985年自ら監督した映画『ナイト・マジック』ではレナード・コーエンとパートナーであるキャロル・ロールと(ファンにとっては)夢のコラボを果たした。
(3)ロンとラッセル兄弟により1960年代にロスアンジェルスにて活動開始。1971年、トッド・ラングレンのプロデュースによる「ハーフ・ネルソン」名義のアルバムを(なんと)ベアズヴィル・レーベルよりリリースするも不発。1974年イギリスで製作したアルバム「キモノ・マイ・ハウス」がヒット。当時我が青木君はロンに対抗してチョビ髭をたくわえてステージに立つことになる。

おとといポップス#1 “聴いた途端に「音痴」だと思った”。

May 31st, 2011

 
Img 2707 ブライアン・フェリーを初めて聴いたのは、高円寺の駅前にあったロック喫茶で、多分1975年だったか。ぼくは、参加していたバンドが幸運にもアルバム・デビューし、渋谷のジャンジャンや、都内にボチボチでき始めたライブハウスで地味に活動はしていたものの、あいかわらず鬱々とした東京暮らしを続けていた。それでも次のアルバムへの模索も始めていて、方向性についてバンド内での意見が分かれていた頃だった。ある日、いつものように小さなスタジオでの練習を終え、同じ中央線沿線に住むバンドの青木くんと電車に乗ったところ、面白いレコードがあるから聴いてみないかと誘われ、それじゃあ、ということでその店に行くことになった。道玄坂のヤマハで買ったというそのレコードはRoxy Musicだった。まがまがしいジャケット(1)を見たとたん、アメリカン・ロックやSS&Wをウリにしているその店(2)には不向きなことが想像できたが、彼の熱意に負けてかけてもらうことにした。ところが、予想以上にイカレタ音にすっかりゲンナリしてしまった。実験的な演奏と性急なリズムにヒステリックなシンセサイザーが絡むかと思えば、一転して単調なフレーズの繰り返し。前衛といわれるグループを知らないわけではなかったが、そのいずれとも違う奇天烈さ。極めつけはブライアン・フェリーのボーカルだ。聴いた途端に「音痴」だと思った(3)。しかも唄っている本人は思い入れタップリと来ている。LPの片面がこんなに長く感じたことはない。もうこの店には顔は出せないな、と思いつつ彼と別れた。ところが、それからしばらくするといっぱしのファンになっていた。多分、アメリカ音楽に食傷気味だったのかも。師匠ザ・バンドは求心力を失い、ロックという名の巨大なマーケットと化したアメリカから、イギリスやヨーロッパから発信される独創的な音楽へと意識的にシフトしようとしたのだろうか。昨日のことのようにとはゆかないが、おとといの出来事くらいには覚えている。
(1)多分4枚目の「Country Life」だったかな? 間違ってたらゴメン、青ちゃん。
(2)行きつけだった [Movin'] はもはや存在せず、駅近くにできた何軒かのロック喫茶のうちのひとつ。名前は忘却。
(3)そういえば、ボブ・ディランにしても、「風に吹かれて」をラジオで初めて耳にしたとき、レコードの回転数が間違っていると疑った。

『I’m Your Fun』

May 6th, 2011

 
Img 2648 毎年、ゴールデンウィーク後半ともなると、駅前広場に大きな舞台が出現する。朝から「チェック、チェック、ワン、ツー、ワン、ツー」とマイク・テストが始まって、アーそうだった、”どんたく”だったと気づく。そうなると夜まで大音量で和太鼓や演歌を聞かされる羽目になる。背振山のトンネルを抜けた佐賀の吉野ヶ里近くのAMPギャラリーへ行く気になったのには、つまり喧噪を逃れる為もあった(そんなことを言ってもYABUさんは怒らないだろう。なにしろ彼と僕は「山笠が苦手」という共通項があるのだから)。もちろん、彼にとって初の試みである、ロック・ミュージシャンばかりを描いた『I’m Your Fun』と題する個展を楽しみにしていたのは言うまでもない。
 AMPギャラリーを主宰する瀬下黃太さんはミュージシャンでもあり、彼のユニットであるGOGGLESを僕は勝手に贔屓にしている。初めて彼らのCDを聴いたのはずいぶん前だった。『Please Freeze Me』と題され、ビートルズを見事に換骨奪胎したかのような曲にノックアウトされてしまったのだ。そんな繋がりも感じつつ訪れた会場は、とあるカーマニアの方がヴィンテージ・カーを保管しているという広いガレージの一画にあった(以前は白州次郎が所有し、その後、伊丹十三、ムッシュかまやつへと受け継がれた名車ロータス・ヨーロッパも保管されていたというエピソードもあり)。
 前置きはこれくらいで、肝心の個展である。YABUさん自身「まるで昔の音楽雑誌の投稿欄にある似顔絵みたいなものを描くとは思ってもいなかった」と恥じらうのもムベナルカナという感じのカリカチュアに思わずニンマリ。どこかで見覚えがある、おもに80年代ニューウェイヴ期以降に活躍した(り、そうでもなかった)ミュージシャン達の「ほぼ決定的瞬間」がさまざまな技法でFreezeされている。赤のクレヨンで単純化されてしまったデイヴィッド・バーン、クロッキーで鎮魂化されたイアン・カーティス、JRでふたりのオバサンの横に何気に座るベック( 写真 )、虚空を見つめながらベッドで放心しているサーストン・ムーア、赤のジャケットを着た本物よりも男前なイアン・デュリー。そのどれもが、YABUさんの優しい毒牙にかけられてスッカリ観念してしまっているのである。会期は残すところあと2日。間に合う方はぜひ足を運んでみてください。お腹が空いたらカフェで名物「ヤッホー・カレー」をドーゾ。
PS.  GOGGLES待望の2nd ” Come Togeta ( コメトゲタ)”もヨロシク!

工芸美術館のBIBLIOTEK。

April 23rd, 2011

 
Img 2092 パリからコペンハーゲンに駆けつけた二人に「工芸美術館へ行くとデンマーク・デザインの素晴らしさが実感できるよ」と言いつつ案内したものの、過去に何度か足を運んでいるわけで、今回僕は入館せずにウェグナーのModel701がズラリと並んだカフェテリアでひとり休憩を決めこむことにした。ところが昼時でもあり満員だった。しかたなくその奥にある図書室をガラス越しに覗いてみると、すこぶるイイ感じ。チト入りづらい雰囲気を感じつつドアを開けて足を踏み入れてみた。ひととおり本棚を眺めると日本のコーナーも結構充実していて、大好きな『かたち』のオリジナル版もちゃんと置いてある。すると女性スタッフが近寄ってきて「日本の方ですか?」と声を掛けられた。今回方々で震災への見舞いの言葉を掛けられたので、てっきりそうだと思ったのだが、そうではなかった。「日本の古い版画があり、そこに描かれてる花がサクラかどうか判断していただきたいのです」とのこと。多分彼女は一番不適格な「花オンチ」へ声を掛けてしまったようだ。しかしサクラとウメの違いくらいは何とかなるだろうと思い承諾した。それは淡い色調が美しい、細密な一種の装飾パターンで、多分襖(ふすま)にでも使われたのだろうか? 描かれている花はほぼサクラに違いなかった。刷られた年代を尋ねると1900年前後とのこと。ずいぶん前に骨董市で買った竹久夢二の色紙にも通じるグラフィカルさだが、こちらはもっと手が込んでいる。ひとしきり見入っていると「他にもあるけど、見ませんか?」との声。断る理由はなくお願いすると、彼女の姿が消え、しばらくすると一抱えもある大きな箱をかかえて戻ってきた。そこから現れた、ため息が出るほど素晴らしい日本の色彩と意匠にしばし呆然。なんだか勝手に誇らしい気分に浸りつつ部屋を後にした。

Nyonya Malaysia Express

April 21st, 2011

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One of the best Malaysia restaurants in Amsterdam.
Kloveniersburgwal 38, 1012 CW Amsterdam, Nederland
020 4222447